04


「は…」


思わず声が漏れた。意味が理解できず、頭の中で化け狸の言葉を何度も反芻させた。“ぼくに君を、食べさせてくれない?”――何度も巡らせるけれど、その言葉をどれだけ噛み締めようと私の理解が追い付くことはなかった。
カーテンに仕切られた狭い空間で、より狭いベッドの上で視線を交える。私を映し出す彼の瞳に、揺らぎはなかった。


「じょ…冗談は…」
「本気だよ。言ったでしょ? 目をつけてたって」


絞り出した声は呆気なく遮られて否定される。ツ、と冷たい親指がもう一度私の唇をなぞる。

ゾクリとした。もしかしたらこれは、目の前の妖怪は、始めから私に近付くために、妖怪から助けるような真似をしたんじゃないか。それじゃ、まさか、あれも…あの妖怪も、化け狸が仕組んだものなんじゃ……
途端にそんな可能性がよぎって胸の奥が強くざわついた気がした。もしかしたらこの妖怪はいい奴なのかもしれないと、一瞬でもそう思ってしまったことにひどく後悔した。それと同時に、音晴くんのことを思い出した。

そうだ、お守り。それを思い出した途端咄嗟に化け狸の手を振り払っては、ポケットから引っ張り出したお守りを化け狸に強く叩きつけた。「いたっ」と短い声が上がる。でも私はそんな彼に構わず、すぐさまベッドを飛び出してカーテンを無造作に振り払った。








――化け狸が追ってくる姿はない。それでも私はメモを手に懸命に走り続けていた。手書きで記された住所はこの辺りのはず。息を切らせながら走り続けていれば、それらしい建物が見えてきた。
きっとあそこだ。そう確信した私は一切足を緩めることなく、古ぼけた朱色の鳥居をくぐってそこに見えた人影に声を上げた。


「音晴くんっ!」
「! え、桜庭さん!?」


突然の声に驚きながら振り返った音晴くんは、私を見た途端さらに驚いたように目を丸くする。そんな彼の体に縋るよう掴み掛かり、けれど呼吸もままならなくて力が入らず、崩れ落ちるように膝を突いてしまった。そんな私に音晴くんは身を屈めて、落ち着けるようにと背中をさすってくれる。


「大丈夫? ひとまずここにいれば安心だから、まずは落ち着いて呼吸を整えよう」


肩で息をする私を覗き込むようにして、優しい声を掛けてくれる。私はそんな彼の顔も見れないまま声も出せず、ただ少し気を緩めながら何度か頷いた。
どうやらここには結界が張ってあって、限られた存在しか入ってこられないという。その限られた存在も音晴くんが知っている者だけ。だから安心していいよという彼の言葉に落ち着いて、少しずつ呼吸も整えられてきた。それを見ていた音晴くんは少し安心したように表情を緩めて、私に手を差し伸べてくる。


「とりあえず落ち着いたみたいだね。立てる? 立ち話もなんだし、中で話を聞かせて?」
「…分かった…」


私が小さく返事をすれば音晴くんはまたニコ、と笑顔を見せてくれた。それが建物の方へ向くと、突然「おーい、ショウノシンー!」と誰かの名前らしい声を上げた。ご家族、だろうか。そんな私の予想とは裏腹に、ふさふさの獣の耳と尻尾を付けた白い装束の男の子が空を飛ぶように姿を現した。


「どうした? お客さんか?」
「うん。さっき話しただろ? 同じ学校の桜庭さん。ちょっとトラブルに巻き込まれたみたいだから…あ、紹介するね。彼はショウノシンって言って、俺の式神なんだ。怖がる必要はないよ」


そう紹介されるショウノシンくんは「よろしくな」と言って頼もしい笑顔を見せてくれる。音晴くんは陰陽師だから、そういう繋がりがあるのだろう。それに結界が張られた神社の敷地内にいるということは安心していい存在だということ。それをぼんやりと理解しては挨拶代わりに頭を下げた。

ショウノシンくん…初めて見るはずだけど、なんだか懐かしい感じがする。なんでだろう…。不思議な感覚に首を傾げながら、音晴くんに支えられるままに立ち上がろうとした時、小さな足音と共に「あ、やっぱりここにいた」という覚えのある声が聞こえて肩を揺らした。


「もー、急にお守りを投げつけて逃げちゃうなんて。ぼくにこれは効かないけど、少しピリッとするくらいの痛みは感じるんだからね?」


恐る恐る振り返ったそこには、人差し指に下げたお守りを見せつけるように揺らす化け狸の姿。なんで…どうしてここが…それに、ここには結界が張られてるんじゃ…
堪らず色んな思考が巡る私は顔を強張らせてしまったけれど、それとは対照的にショウノシンくんが呆れたような顔を化け狸に向けていた。


「まーた来たのかお前。今度はなんの用…ってそのお守り、ここのじゃねぇか?」
「俺が桜庭さんにあげたものだ。…それじゃもしかして、桜庭さんが逃げてるのって…」


問うように見つめてくる音晴くんに小さく頷き返す。するとショウノシンくんが怪訝な顔をしながら、私を化け狸から隠すように前に立ちはだかった。


「とうとう本性表しやがったな…」
「え!? ちょっと待った待った! 誤解だよ〜。少しからかっただけなんだって。まさか突然逃げられるとは思わなくて、誤解を解くのが間に合わなかっただけ。ね?」


化け狸が困ったような顔をしながら私に問いかけてくる。だけど私はあの時触れられた唇に手を触れて、少し後ずさるようにショウノシンくんの背中に隠れた。


「…信用できない」
「だとよ」
「あはは…参ったなぁ」


私とショウノシンくんから向けられる疑惑の目に化け狸が頬を掻く。その姿は本当に困り果てたように見えたけど、やっぱりどうしても信用できない。隠すのが上手いだけで、いまも嘘を語っているのかもしれない。そう思うと近付くことすら許し難くて、私はゆっくりと後ずさり続けていた。
そんな時、音晴くんが私の肩にそっと手を置いて。私と化け狸、双方に視線をくれた。


「まずは事情を聞かせてよ。それから俺たちみんなで化け狸の審議をしよう」
「はは…なんだか容疑者みたい…でも、それで紫乃ちゃんの信用を取り戻せるなら、いいよ」


そう言いながら化け狸は私に視線を向けてくる。私はそれに口をつぐんだまま、音晴くんには小さく頷いて了承の意を見せた。そうして私たちは音晴くんに促されるまま、音晴くん宅の応接間に足を運んだ。

広めの和室に大きなテーブルが一つ。ショウノシンくんが人数分の座布団が並べてくれて、私と化け狸を対角線上に座らせると、そこに湯飲みを持った音晴くんが入ってきた。前に置かれたお茶から立ち上る優しい香りが鼻をくすぐる。不思議と落ち着けるような気がしたけど、ふと感じた視線に目を向けた。
化け狸だ。なにを考えているのか分からないその瞳で、どこか胡散臭い微笑みで、私を見ていた。私はそれから顔を背けて、目の前でゆらゆらと揺れる湯気を見つめた。するとその向こうにショウノシンくんが、私の隣に音晴くんが腰を下ろした。


「お待たせ。それじゃ、とりあえず順を追って聞いていこうか。桜庭さんはいつ化け狸と知り合ったの?」
「知り合った…というか…今朝、登校前にたまたま見かけて…目が合ったような気がしたから、その時は逃げたの。そのあと一限の体育で…」
「もしかして、お昼に聞かせてもらった時のこと? でもあの時、桜庭さんは小さい妖怪しか見てないって言ってなかったっけ?」


音晴くんの質問にほんの小さく肩を揺らす。そうだ私、どうしてかあの時化け狸のことを話さなかったんだ。それを思うとつい一瞬だけ化け狸の表情を窺ってしまった、けれどすぐに逸らした目は、大きく揺らめく湯気へ落とした。


「わ、私…元々妖怪とはなるべく関わりたくなくて…その…」
「ぼくが言わないでって言ったんだ」
「!」


どう説明すべきか言葉選びに戸惑っていたら、どうしてか化け狸が私に助け舟を出してきた。もちろんそんなことは言われていない。だけど私自身、音晴くんに化け狸のことを話さなかった理由が分からなくて。「そうなの?」と首を傾げてくる音晴くんに、躊躇いながらもゆっくりと頷いた。すると続くようにショウノシンくんが親指で化け狸を指し示しながら言う。


「その時コイツになんかされたのか?」
「もー、だからなにもしてないってば〜。その時は紫乃ちゃんを狙ってる妖怪がいたから、追い払ってあげただけ。むしろ救世主だよ」
「救世主だぁ? いつも傍観者気取って関わろうとしないお前がぁ?」
「確かに珍しいよね。そもそも、なんで化け狸が学校にいたのさ?」


信じられないというショウノシンくんの目と純粋に疑問を抱いているらしい音晴くんの目が化け狸へ向けられる。それに困惑を見せる化け狸は小さく頬を掻いた。


「うーん…ぼくだけやけに質問攻めだねぇ…。ぼくだって、困ってる人を見過ごして眺めてるような非道じゃないからね。学校にいたのは単純に紫乃ちゃんを追い掛けたから。今朝見かけた時に可愛い子だなぁと思って、気になったんだよ」
「おめぇ…適当なこと言って誤魔化そうって魂胆だな?」
「違う違うっ。これは本当だって! ね、紫乃ちゃんも覚えてるでしょ?」
「…似たようなことは、確かに言われました」


助け舟を出すようで不本意だけど、当時のことを思い返しては頷くしかなかった。正確には私の熱い視線がどうのと言っていただけで、可愛いだのとは言われていないけど…。それを思いながら化け狸に視線を向けてみれば、お礼を言うように微笑みかけてくる。手にしていた湯飲みに小さく波紋が広がった。私はそれを掻き消すように少しだけ口にして、「それで?」と続きを促してくる音晴くんに口を開いた。


「今朝の件は、それで終わり…そのあとはなにもなかったの。化け狸も、姿を見せなかった。だから私は気にしないようにしてたんだけど、放課後少し体調が悪くて、一人で教室に残ってたの…。そうしたら…今朝見かけたのと同じ小さい妖怪が現れて、急に嫌な…強い妖気を感じて、教室に閉じ込められて…どうしようもなくなった時に…朝みたいに、化け狸が…」
「また助けてあげたってわけ。さすがに妖怪を消すところは見せられないと思ってすぐに眠らせちゃったんだけど、ずいぶん顔色が悪かったから、保健室に連れていってあげたんだ」
「…それで…目を覚ましたら……」


化け狸に続けて説明しようと思ったけど、甦ってきたあの時の光景に口をつぐんだ。妖艶な雰囲気で告げられた、あの言葉。あれを思い出すと胸がざわつくような気がして、言葉にできなかった。
するとそんな私を見ていたショウノシンくんが眉をひそめて声を掛けてくる。


「言えねぇくらい、ひどいことされたんだな? …おい化け狸、言い残すことはねぇか」
「ちょっ! だから誤解だってば! 言ったでしょ、ちょっとからかったら紫乃ちゃんが真に受けちゃって、そのまま逃げちゃったって」
「それはお前が真に受けるようなこと言うのが悪いんだろ」


本当に慌てた様子で言う化け狸にショウノシンくんは呆れと軽蔑の目を向ける。それでも必死に誤解だと言い続ける化け狸の姿を見ていた私は、意を決して問いただす声を向けた。


「あ、あの妖怪だって…あなたが仕組んだものじゃないの…」


私がそう呟くように言えば、化け狸だけでなくみんなが黙り込んだ。視線が集中する。それに小さく唇を結んだけど、化け狸は遅れて理解したかのように「あぁ…」と声を漏らした。


「もしかして…ぼくが君に近付くために用意したものだって、思ってる?」


化け狸が少し困ったような表情を見せながら返してくる。それに頷けば、化け狸ははっきりと首を左右に振ってみせた。


「それは違うよ。紫乃ちゃんを狙ってる妖怪がいたのは本当。あの小さいのはいわゆる囮でね、親玉は君に迫っているのがあの小さい妖怪だと思わせて、油断するのを待ってたみたいなんだ。君があとから感じた強い妖気、それがその親玉妖怪のものだよ」
「あ、それ俺も今朝感じたよ。でも姿が全然見えないし、痕跡もないから不思議だったんだ」
「さすが陰陽師くん、ちゃんと調べたんだねぇ。だけどあいつ…珍しく周到な奴でさ。紫乃ちゃんに警戒されないよう上手く気配を消してたみたいだから、紫乃ちゃんを見守って、あいつが現れたところを押さえようと思ってたんだ。だからすぐに駆け付けられた。…ぼくが差し向けたわけじゃないこと、信じてくれる?」


まるで私の顔を覗き込むように首を傾げて、問いかけてくる。確かにその話は信じられた。でも、なんだか晴れない気持ちが確かにあって、素直に頷くことはできない。
そんな時、音晴くんが考え込む仕草を見せながら「うーん」と小さな唸り声を漏らした。


「でも…なんで人がいっぱいいる学校で、桜庭さんだけがそんなに狙われてたんだろう。なにか心当たりはある?」
「それが、全然…」


小さく首を振る。確かに私は昔から妖怪に狙われやすいとはいえ、その妖怪が“私にだけ”固執する理由は分からなかった。周りにも人はたくさんいる。それこそ私みたいに狙われやすい人だっているかもしれないのに。それなのに、化け狸の話では、その妖怪は“私だけ”を狙っていたという。
不可解な点に私もしばらく考え込んでみたけれど、ふと、ちらりと目を向けた先の化け狸が、嫌に黙り込みながら私を見つめているような気がした。

なんだろう…なにか、隠してる…?

思わずそんな思いを抱いた時、不意に解放されている縁側の方に人影が見えた。それは鳥居をくぐって、こちらへ向かってくる。


「ただいま戻りました」
「あれ? みなさんお揃いで…そこの方は、お客さんですか?」


姿が視認できるほどの距離まで歩いてきたのは男性二人。学校で見かけたことがある真面目な雰囲気の人と、ショウノシンくんのような耳を持つ眼鏡の人だった。ただ、それは人ではなくて。もっと神聖な、きっと私たちでないと“見えない”人だった。耳だけじゃない、緩やかに揺れる九つの尻尾がそれを強く印象付けている。
二人はどうやら音晴くんたちと繋がりがあるようで、姿を見た音晴くんが笑顔で二人に手を掲げた。


「あ、時晴に天狐さま。おかえりー」
「え…」


天狐さま…?

覚えのある名前にドキ、と鼓動が響く。私は無意識のうちにお母さんから持たされたお守りをポケット越しに握りしめながら、そこに立つ神聖な狐を呆然と見つめていた。


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