03


けたたましいチャイムが鳴り響いてクラスメイトが思い思いに席を立っていく。放課後になった今、私はそんな教室に一人座ったまま、教室を出て行くクラスメイトたちをぼんやりと眺めていた。時折「またね」と掛けられる声に手を振って、友達を見送る。それがひとしきり終わると、私は机に雪崩れ込むように突っ伏した。


(体がだるい…)


まるでなにかに圧し掛かられているかのような体にため息が漏れる。今日はいつもより少し重いかもしれない。でも、しばらく休んでいれば落ち着くはず。そう思って机に伏せながら、段々と減っていく会話や足音に耳を傾けていた。
案外教室に残る人は少ない。部活がある人はみんな部活に向かって、それ以外の人は帰宅したり遊びに行ったりとすぐに学校を出て行く。それを遠くに感じながら、滲む汗をそのままに伏せ続けていた。

そんな時ふと、小さな足音が聞こえた気がした。だけどそれは人のものではない、本当に小さな足から鳴らされる音。徐々に近付いてくるそれは、飛び跳ねたのか、少し高い位置に足音を移して。窓に向けた私の視界へ入るように、その小さな体を私の机へ移してきた。


「……」


四足歩行の、成猫くらいの妖怪。それは今朝方、私をからかうようにテニスボールを咥えて逃げた妖怪だった。まだいたんだ…気怠い私はその程度にしか捉えず、その子を無視するように腕に顔をうずめた。

今は追い払うことすら怠い。そう思って無視していたのだけど、その妖怪はずっと私の傍にいて、じっと私の様子を窺っているようだった。あまりに動かないものだから少し体を起こしてその子を見てみれば、その子は同じように顔を上げて私を見つめてくる。…こうして大人しくしていると、普通の動物のようだ。だけどそれが妖怪である以上構うわけにもいかなくて、早くどこかへ行ってくれないかな、なんて思った。それに反して妖怪はとうとう小さく足を踏み出すと、私の腕に前足を掛けて、私の頬をペロ、と小さく舐めてきた。


「ちょっと…」


思わず少し体を逸らした。これが普通の犬や猫なら可愛いと思えるところだけど、相手は妖怪。少しばかり警戒するようにそれを見れば、やっぱり目を逸らすことなくじっと見つめてきていた。

なぜだろう。こんなに小さくて無害な妖怪のはずなのに、恐怖を覚える。私を真っ直ぐ捉えて離さないその目に小さく悪寒を走らせると、私は鞄を手にして教科書類を無造作に詰め込んだ。体は怠いけど、ここにいたくない。あれの近くに、いたくない。そう思ってしまっては席を立ち、眩暈すらする体で教室を出ようとした。


「――!」


ゾクリ、悪寒が走る。さっきよりも強い、体が竦んでしまうほどの悪寒。思わず足を止めてしまった私は振り返ることもできず、ただその気配に小さく体を震わせた。

なにかがいる。あの小さな妖怪ではないなにかが。今朝方、体育倉庫に潜んでいたものと同じ、なにかが。
それを感じてしまっては鼓動がドクドクとひどく音を立てて、呼吸が早まった。脂汗と一緒に滲む冷や汗が、額にいくつもの玉を作り、伝った。それが床にポタ、と打ち付けられた時、私はすぐさま教室の扉に飛びついていた。けれどどれだけ引こうと扉は開かない。ガタつくことすらしない。それは体育倉庫に閉じ込められた時の扉と同じく、まるで空間に固定されたようにびくともしなかった。


「っ誰か…!」


何度も扉を引いて、叩いて、必死に助けを求めるよう扉に縋る。けれどそれは無慈悲にも黙り込んだまま、果てにはあの小さな妖怪がいる背後に、得も言われない、とてつもない妖気を感じた。

声も、出せなかった。ただヒタリ、ヒタリ、と近付いてくるその足音に息を詰まらせた。殺される――本能的にそう悟った。目を瞑ることさえできず、ただ凍りつくようにその場に立ち尽くしていた。


「――――」


妖怪の声が聞こえた。理解できない言葉。なにを言ったのかなんて私には分からないけれど、それを理解しようとする余裕などあるはずもなく、っは、っは、と微かに漏れ続ける息を止めてしまいそうになった。

誰か助けて。お願い。誰か、誰か――
その思い一つで服の上からお守りを握りしめた、その瞬間だった。パン、と乾いた音が強く空気を揺らす。それが教室全体に伝うよう響き渡った頃、私の目の前でびくともしなかった扉が呆気なくガラリと開かれた。


「結界まで張っちゃって、用心深いんだから。そんなにしてまでその子が欲しい?」


この張り詰めた空気に似合わない、相手を茶化すような声が落とされる。思わず見張った目を向けた先にいたのは、今朝方私を助けてくれた、あの化け狸だった。どうしてここに、そう思ってしまう私に目をくれることもなく。化け狸は「だけどざーんねん」と妖怪へ向け、私の手を強引に引き寄せるなり私を強く抱き留めた。


「この子、ぼくが先に目をつけてたんだ」


だから、あげられない。化け狸は妖怪へ向けながら、けれど私の耳元で囁くようにそう言った。その時回された手が私の首筋に触れて、どういうわけか私の意識が途端にふ、と遠ざかるような感覚に襲われた。眠りに落ちる瞬間のようなその感覚。私が化け狸になにを…と言おうとした時、力が抜ける体ではそれを声として発することはできず、代わりに響かされたなにかが弾けるような、破裂するような強い音が教室中に響き渡った。

その直後、私の意識は糸が切れたようにプツリと閉ざされてしまった――








「……っん…」


首筋にチクリとした痛みが走ったような気がして、私はようやく手放していた意識を取り戻した。重い瞼を持ち上げれば霞む視界に人影が一つ。ぼんやりとする意識でそれに目を凝らすと、徐々にその姿が鮮明に見えてきた。


「目が覚めた? ごめんね、急に眠らせちゃって」


そう声を掛けてくる男、それはあの化け狸だった。その姿にはっとして体を起こせば、白い布が同時に翻ったのが見える。これは、布団だ。気付けば私たちの周りには仕切り用のカーテンが広げられていて、私はパイプ製のベッドに横たわっていた。


「保健室…?」
「うん。眠らせちゃったし、なんだか体調も悪そうだったから連れてきちゃった」


私が呆然と呟けば化け狸は平然とした様子で答えてくる。もう一度その姿に顔を向ければ、化け狸は小さく首を傾げて「体調はどう? もう落ち着いた?」と優しく問いかけてきた。どうして彼がこれほど私に付き纏うのか分からなかったけど、私は戸惑うままに小さく頷きを返していた。

実際、体調はずいぶんよくなった。あれほど重かった体が嘘のように軽い。少し眠ったくらいでここまで回復するものだろうかと思ってしまうほどに。少しばかり困惑してしまう私とは対照的に、化け狸は「それはよかった」と微笑みかけてくる。
それは柔らかい、優しい微笑みだった。あれだけ警戒していたはずなのに、それすらも解いてしまうような彼の雰囲気に翻弄されながら、心のどこかで“この妖怪は、いい奴なんじゃないだろうか”という思いが芽生えていた。

だけど彼とは、今朝方少し目が合ったくらい。知り合ったというほど接した覚えはない。だというのにこうして二度も助けてくれたことはやっぱり不思議で、私は小さな戸惑いを残したまま、紡ぐように声を向けた。


「助けてくれて…ありがとう…でも、どうして二度も、私を…?」


私がそう問いかければ、化け狸は表情を変えることなく、小さな笑みを浮かべたまま私を見つめてくる。かと思えば「眠る前のこと…覚えてない?」と言って、私の傍に腰を下ろした。安っぽいベッドがギシ、と小さく鳴いた。


「ぼくは君に目をつけてたって言ったでしょ? だから、他の妖怪なんかの餌食になるのは、ちょっと見過ごせないんだよねぇ」


ギシリ、軋みを重ねて身を乗り出すように近付かれる。笑顔を浮かべていたはずの表情はいつしか変わり、どこか妖艶さを感じさせる目つきで私を見つめてくる。覗き込まれるように真っ直ぐ注がれる視線。それから目を逸らすこともできず、私はただ瞬きさえも忘れて


「目をつけてたって…どういう…」


呟くように、声を漏らしていた。聞かなければいいのに。聞いたってロクなことがないと分かっているはずなのに。私はその瞳から逃れることができないまま、落としてしまった言葉に後悔の念を抱きかけた。

そしてその後悔を強くさせるように、化け狸は静かに伸ばしてきた手で、親指で、私の唇をなぞった。


「ぼくに君を、食べさせてくれない?」


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