01


「行ってきます」


そう言い残して家を出た途端に視界に飛び込んでくるのは、見たくもないものたち。それらと目を合わせないように歩いては、近所の神社へと向かった。
少しばかりの石段を登ったところにある、小さな神社。地元の人もあまり来ないようなここに、私は毎朝登校前に通うことにしている。というのも、私を守ってもらうためなのだとか。

どうしてか私は小さい頃から人には見えない存在、いわゆる“妖怪”と呼ばれる類のものに狙われることが多い。それに困り果てた両親がここに訪れ、天狐さまに私を守っていただくよう頼み込んだのだという。それが本当なのか私には分からないけれど、自宅にいる時だけは妖怪を見ることがない。そのため両親はご利益があったのだと、これからも守っていただこうと言って、こうして私に毎朝稲荷寿司を奉納させるのだ。


(でも…一度も見たことないんだよね、天狐さま…)


今日も空っぽの神社に稲荷寿司をお供えする。下校ついでにお皿を回収に来たら稲荷寿司はいつもなくなっているけれど、果たして本当に天狐さまが食べているのかは少し信じがたい。カラスなんかの動物が食べているかもしれないし、もしかしたらホームレスなんて可能性もある。だからこうして根気強く続ける意味があるのかは分からないのだけど、とりあえず私は「今日もありがとうございます」といつものように呟きながら手を合わせるのだった。

それが終われば今度こそ登校。舗装もされていない地面剥き出しの参道に振り返っては、いつも通り石段を下る――はずだったのだけど、ふと視界の端、向こうの大きな木の枝に見慣れない姿が見えた気がした。


(あれは…化け狸…?)


町の方を見つめるそれは人間の男性の姿をしているけれど、決して人間ではない。茶色い癖毛の頭に小さな耳を生やしていて、お尻には太くて丸っこい尻尾。いかにも狸だという色と柄のそれらを生やしている彼は、今時見ないような和風の装いをしていた。時々あんな風に人間の姿をしたものがいるけれど、化け狸を見たのは初めてかもしれない。
いつもはなにもいない場所にそんな珍しい妖怪を見つけたせいか、普段はあまりその類に目を向けようとしない私が、今日ばかりはじっとその姿を見つめてしまっていた。

するとその視線に気付いたのか、化け狸の首がほんのわずかに動いた気がしてすぐに目を逸らした。けれど、少し遅れてしまった気がする。一瞬、彼の目が見えてしまった気がする。
妖怪と目を合わせてはいけない。そう教えられてきた私は見なかった振りを、見えていない振りをして、すぐに石段を駆け下りていった。



* * *




「行くよー」
「オッケー」


そんな声が聞こえて、辺りには球を打つ軽快な音がいくつも鳴り響く。それを眺める私は、体育倉庫の壁にもたれるようにして座っていた。今は一限の体育。みんなは楽しげにテニスをしているけれど、私は月に一回ほどのペースで来る、生理とはまた別の体のだるさに見舞われて一人見学中だった。

この体のだるさ、実は数年くらい前からあるのだけど、未だに原因がさっぱり分かっていない。誰に相談しても分かってもらえず、病院の先生にさえ“生理痛じゃない?”と片づけられてしまうくらいだった。私としてはそれとは違う気がするのだけど、感覚的な話だから他に説明のしようがなく、最近では諦めてそういうことにして安静にさせてもらっている。


(まぁ、休めるならなんでもいいし…)


ふぅ、と小さく息を吐いて体を小さくする。するととてとてと歩いてくる四足歩行の小さな影が視界に入って、こちらの顔を覗き込んできた。


(妖怪…)


成猫ほどのサイズのそれは不思議そうに私を見つめてくる。こうしてばっちり目を合わせてしまったけれど、これくらいの小さくて無害な妖怪なら問題はない。この手のものは危害を加えてはこないし、もし攻撃してきたとしてもお母さんに持たされたお守りが弾いてくれるのだ。

ただ、今朝見たような化け狸には効かないはず。このお守りは大きいものや力の強いものには効果がないらしく、化け狸なんて名の知れた妖怪には簡単にお守りを消されてしまうだろう。だからこそ絶対に目を合わせないように、絶対に関わらないようにしなくてはならないのだ。


(とりあえずあれから姿は見てないし、上手く誤魔化せたのかな…)


今朝の化け狸。ほんの一瞬目が合ってしまったような気がするけれど、目立たないように辺りを見回してもそれらしい姿は見えなかった。もしかしたら向こうは気付いていないのかもしれない。そう考えて静かにみんなの方へ視線を戻したその時――あの小さな妖怪が、なにかを咥えて素早く私を横切っていった。

あまりよく見えなかったけれど、いま妖怪が咥えていったのって、テニスボールじゃ…。そう思いながら妖怪が駆け込んだ体育倉庫を覗き込もうとした時、「おーい桜庭ー」と先生からの声がかかった。


「悪いけど球、取ってきてくれるかー?」
「…はーい」


思わずえぇ…と言ってしまいそうになったところを押し込めて返事をする。どうやらさっきの球はクラスメイトが打ったもののようで、「どこ打ってんの〜」なんて笑われたその子は「おかしいなぁ」と困ったように笑っていた。
当然、私以外のみんなには妖怪の姿なんて見えていない。ただボールが変に飛んで行ってしまったように見えただけだ。けれど残念ながら私にはそれの正体が見えてしまうので、人一倍“面倒くさい”なんて考えてしまいながら体育倉庫に入っていった。


「悪戯が好きな子なのかな…おーい、出ておいでー」


少しうんざりしながらため息をこぼし、積み上げられたマットやサッカーボールが入ったカゴの裏なんかを覗き込む。けれど体育倉庫の中は色んなものが詰め込まれていて複雑な分、その小さな姿は全然見当たらなかった。


(…もう“見つからなかった”とかなんとか言って戻ってしまおうかな…なんか今日のここ、ちょっと気持ち悪いし…)


屈めていた体を起こしては思わず身震いしてしまう。以前入った時は感じなかったのに、今日は体調が優れないからか倉庫内の空気が異常に淀んでいるような気がした。元々空気の綺麗な場所ではないけれど、それとは違う――少し怪しげな、妖気のような気配。それを感じてしまっては長居するわけにもいかず、ざわつく心を落ち着けるように一度深く息を吐いた。


(出よう…ここにいちゃいけない気がする…)


悪寒がゆっくりと背筋を撫で上げるような嫌な感覚に顔を歪め、決意する。とにかく落ち着いて、自然にここを出なければ。そう考えながら踵を返そうとした――刹那、突如倉庫の扉が凄まじい音を立てるほど勢いよく閉め切られてしまった。


「っ…! な、なに…!?」


その大きな音に思わず身を縮めてしまったけれどすぐに縋りつくよう駆け寄り、力の限りで扉をこじ開けようとする。けれどそれはまるで固定されているようにびくともせず、なにをどうしても開くことができなかった。誰かの悪戯…!? ついそんな思いがよぎったけれど、それにしては扉が固すぎる。がたつくこともなくピッタリと閉め切られたそれは、私の脱出を許さないように強く強く口を閉ざしていた。わけの分からない状況に焦り、汗が滲みだす。そしてそれに伴うように、辺りにはじんわりと妖気が増してくる。
だめだ、やっぱり早く出るべきだった。ここにはなにかいる。あの小さい妖怪よりも大きな、強力ななにかが。とめどなく溢れてくる妖気に心拍数が上昇する中、どうすることもできない私はただじっと守るように自分の体を抱いてその場に縮こまった。お願い誰か気付いて。助けて。得体のしれないなにかに怯えながらそればかりを願っていた――その時だった、あれだけ溢れ出していた妖気が突然ス…と綺麗に消え去ったのは。


「いやぁ、危なかったね〜。干渉できる子が一人で妖怪追いかけちゃだめじゃない」
「!」


あるはずのない誰かの声に思わず肩が跳ねる。私以外の、いるはずのない存在に驚いたからだけではない。背後に立つ声の主から、確かに妖気を感じてしまったからだ。ついさっきまで溢れ出していた禍々しい妖気とは別物だけど、これもまた弱くはない、しっかりと力を持った妖怪の気配。気さくな言葉遣いだったけれど安心はできない。滲ませた汗を頬に伝わせ、振り返ることもできないままじっと息を殺していると、それは私が反応しないことを怪訝に思ったのか「ねぇ、」と改めて声をかけてきた。


「君、ぼくたちのこと見えるんでしょ? 今朝神社からこっちを見てたの、知ってるよ」
「え…」


ドキ、とまた大きく心臓が跳ねると同時に思わず声を漏らしてしまう。慌てて口を押えたけれどそれはもう後の祭り。私の声をしっかりと拾ったそれは「やっぱり君だ」と楽しそうに言ってくる。
今朝私が神社から見ていた妖怪など、ただ一人だ。普段は見かけない、丸くて小さな耳と長くて大きな尻尾を持つあの妖怪。観念したようにゆっくり振り返ってみるとそこにはやはり、今朝見たままの化け狸の姿があった。


「初めまして。ボクは化け狸の寿。君のあっつーい視線が気になって、ついつい追いかけてきちゃった☆」
「は…」
「も〜、そんなに警戒しなくて大丈夫だよ! ぼくはこいつらと違って、君に危害を加えようなんて無粋なことは考えてないからね」


そう言いながら化け狸は突然、目を少しだけ鋭くさせてなにかを持ち上げた。その手が握っているのは、さっきボールを咥えてここに逃げ込んだ小妖怪。危害を加えるって…こんな小さな妖怪が、私を狙っていたと言うんだろうか。


「えっと…助けてくれて、ありがとうございます…でも、それくらいの妖怪なら全然…」
「うん。この妖怪だけならお守りが助けてくれたかもね。だけど、だからと言って慢心しちゃだめだよ」


そう言った化け狸の目は少しだけ厳しかった。どうして私が怒られている感じなんだろう。ついそんな疑問を抱いてしまっていると、ころっと表情を変えた化け狸が「はいこれ」と私の手にテニスボールを一つ握らせた。かと思えば私の頬に手を添えて、その逆の頬へ顔を近付けてくる。え、と小さな声が漏れそうになった時、私の耳のすぐ傍でほんの小さなリップ音が聞こえた気がした。


「それじゃ、これからも気を付けてね!」


ぱっと離れた彼はまるで今のことが気のせいだったのではないかと思ってしまうほど自然に手を振って私を横切った。上手く頭が回らない私は少し混乱しながらも扉が開かないことを思い出して、そこへ向かおうとする彼へ慌てて振り返った。けれどそれも意味はなく、扉をすり抜けるように触れた彼の姿はその扉ごと空間をぐにゃりと歪ませて消えてしまった。
途端に差し込む外の眩しさについ目を細めてしまうけれど、そこからはいつもの授業の声が聞こえてくる。どうやら、解放されたらしい。


「お。桜庭、ボール見つかったか?」
「え…」


呆然と立ち尽くしていると不意に声を掛けられて視線を向ける。そこにはボールを探してくれと頼んできた先生がいて、なんら変わりない様子でこちらに問いかけてきていた。
あれだけすごい音がして扉が閉まったというのに、気付いていなかったのだろうか…堪らずそんな疑問を抱きながら化け狸に握らされたボールを先生へ渡せば、やっぱり先生は「ありがとな」の一言だけでなにも言及することなくクラスメイトの方へ戻っていく。それにまたも呆気にとられるよう立ち尽くしてしまいながら、私は頬に伝っていたはずの汗を拭おうとした。けれどそこに滴はなく、代わりにそこへ落とされた軽いキスを思い出した。


(…なんだったんだろう…)


あの小妖怪も、開かない扉も、禍々しい妖気も…――あの化け狸も。一気に様々なことに見舞われすぎて、ただでさえ優れない調子の体がよりどっと疲れた気がしてくる。まだ一限目だというのに、どうしてくれるんだ。私はそんなどこに向けるでもないやるせなさを抱えたまま、先生が鳴らす甲高いホイッスルの音を呆然と聞いていたのだった。


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