08



あのあとすぐ、掛かってきた電話に出た紗夜ちゃんは「母に呼ばれたので帰ります」とだけを言い残して帰ってしまった。あれだけの話をしたのに、その表情は変わらないまま。まるで、なにひとつ気にしていないかのよう。
そんな彼女の背中を見届けたぼくは同じくショッピングモールをあとにして、ぼんやりと帰路を辿るように車を走らせていた。


「……知りませんからね」
「きっと私は誰も好きになれません。あとで無駄な時間を過ごしたと後悔しても、知りませんからね」



記憶の中の彼女が、釘をさすようにその言葉を繰り返す。赤信号にブレーキを踏んだぼくは行き交う車を眺めながら、その時の彼女の姿を思い出していた。

もしかしたら紗夜ちゃんは、普段通りの調子で言ったつもりなのかもしれない。不快そうな顔をしているつもりだったのかもしれない。だけどぼくの前でその言葉を吐いた彼女は、その目は、なんだかすごく、悲しそうに見えたのだ。寂しそうに、見えてしまったのだ。


「やっぱり気になるな…あの子」


ふと、そんな言葉が口を突いて出た。



* * *




寿さんから“異性として好きだと思わせてみせる”と言われたものの、なにか変化があったかと聞かれればそれは特に感じられなかった。というより、本当になにも変わっていない。以前と同様、寿さんから仕事の合間にメールがあったりなかったりする程度のままだ。

だけどそんな日々を何日も変わらないまま過ごして迎えた、夏休み最終日。言いようのない気怠さにベッドで転がっていれば不意に短く携帯が鳴った。もうすっかり慣れてしまった寿さんからのメールだ。今日もお仕事報告かな…そう思ってメールを開いた途端、そこに綴られる文面に小さく眉をひそめた。


『明日から学校だよね? 何時に終わる?』


唐突な質問。どうしてこんなことを聞くんだろう…というか、私が教えたとはいえ今日が夏休み最終日だってことをよく覚えてたな、あの人。なんて思いながらも大体の時間を返せば、返事はすぐに届いた。そしてそこに、彼の思惑がはっきりと記載されている。


『午後はお仕事もないし、ぼくちんが迎えに行ってあげる☆』
「…………え?」


なに言ってるの、この人。

しばらく言葉の意味が理解できなかったけど、ふと冷静になった私は『来なくていいです。見つかったら面倒なので』とお断りのメールをしっかりと送りつけた。だけど寿さんからは『ざんねーん! もう決めたので迎えに行きまーす☆ 寂しいから勝手に帰らないでね!』となんとも根気強い言葉が返ってくる。よく見ればその下に『また明日ね』とまで書いて。

それはもう返事をくれるなということ。つまりそれが意味することは、私にはもう拒否権はないということだ。


(寿さん…たまに強引だなぁ)


呆れるような思いを抱えながら仕方なく携帯を閉じた私はベッドに転がり、枕元に落としていた充電器を静かに挿し込んだ。



* * *




翌日の放課後。久しぶりの学校に気怠さを覚えながら校門を出れば、スカートの中で携帯が小さく震え始めた。電話だ。開いてみればそこには寿さんの名前が表示されていて、電話に出るなり『あ、学校お疲れさまー』と軽い口調で言ってきた。


『そこから右を見てごらん?』
「右ですか?」
『そう。んー、もうちょっと右…その辺。シルバーの乗用車が見える?』


促されるままに振り返って見つけたのは、寿さんの言葉通りシルバーの乗用車一台。反射していて見えにくいけど、フロントガラスの向こうに小さく手を振ってくる人影が見える気がする。間違いなくあの人だ。


「うわぁ…本当に来たんですか…」
『なんでちょっと引き気味なの!? ちゃんと迎えに行くって言ってたでしょ! ほらほら、早くおいで』


少し躊躇いがあったけど、電話越しに早く早くと急かされてすぐに駆け寄った。そして迷いなく後部座席のドアを開けたのだけど、途端に寿さんが「そっちじゃなくてこっち! ぼくちんの隣でしょっ」と子供っぽくふてくされるように抗議してくる。
でも寿さんの隣なんて、それこそ誰かに見られたらおしまいだ。そう思って顔をしかめてしまうけれど、どうやら寿さんは頑として譲る気がないようで。その様子に小さくため息をこぼした私は、仕方なく助手席のドアを開け直した。


「どうするんですか、もし見られたら…」
「大丈夫。ぼくちんが運転する車は愛車のイメージが強いだろうから、きっと誰も気付かないよ」


そのために会社の車を借りてきたんだ。そう話す寿さんに少し呆れそうになった。そこまでして迎えに来たかったのか、と。だけどそれはあながち間違いでもなさそうに見えるほど寿さんは楽しげで、私はその姿を横目に見ながらシートベルトをカチャリと締めた。


「よし、じゃあこのままデートと行きますか〜!」
「えっ。家に送ってくれるんじゃないんですか」
「んー? ぼくちん悪い大人だから、素直に帰してあーげない☆」


ぱちん、と音が聞こえてきそうなほどお茶目にウィンクをしてくる寿さん。それをひそめた眉でじっと見つめていた私は、彼になにも返すことなくただそっと携帯を取り出した。


「通報、っと…」
「やめてっ! 冗談だから携帯しまって!」


私が携帯を操作するフリをすれば寿さんは慌てて私の手を押さえてくる。必死に宥めるような、訴えかけてくるような目で見つめながら。そんな寿さんを見つめ返しているとなんだか呆れたような笑みが小さく浮かんできて、「私も冗談ですよ」と携帯を閉じてあげた。すると寿さんは安堵のため息をこぼして苦い笑みを見せてくる。


「紗夜ちゃんの言葉ってたまに本気に聞こえるから恐いんだよねぇ」
「それは変なことを言う寿さんが悪いと思いますけど」
「うっ。容赦ない紗夜ちゃんの正論が胸に刺さる…」


そう言って芝居っぽく顔を歪めた寿さんが胸を押さえる。けれどそんな演技も程々にハンドルを握った寿さんは同時にキーを回して、ほんの微かな揺れとエンジンのかかる音を広げた。


「さて、それじゃ行こうか。少ーしだけ寄り道しながら、ね?」
「…少しだけなら、まぁ…」


寿さんの期待するような目に圧されて了承してしまう。というより、それくらいは了承しないと、迎えに来てもらった意味がないほどすぐについてしまうと思う。なんせ私は徒歩通学だ。それを車で移動してしまったら、むしろ迎えに来てくれた寿さんに悪い気がするほどあっという間だろう。

そんなことを考えていれば、寿さんが手慣れた様子でアクセルを踏み車道へ出ていく。
思えば、家族以外が運転する車に乗るのは初めてかもしれない。そう思うも寿さんの安定した運転に恐怖心はなくて、普段通り落ち着いたまま車窓に流れる景色を眺めていた。


「今日はあんまり時間もないし、またオフの日にゆっくりドライブしようね。その時はちゃんとぼくの車に乗せてあげるから」
「…寿さんの車って…確か明るい緑色の、でしたっけ?」


これもマホから聞いた気がする、そう思って問いかければ寿さんは「お、知っててくれたんだ〜」とどこか嬉しそうに頷いた。

ずいぶん前、マホが見せてくれた雑誌に寿さんと一緒に映っていたのを覚えている。確か、レトロで可愛らしい車。いい車だな、と思っていたからそれ自体には興味があるのだけど、なにぶんそれは彼のイメージが強く根付いた車だ。それに乗ってドライブというのは、あまりにも危険じゃないかと思った。


「さすがにドライブは…というか、こうして会うこと自体、ちょっと気が引けます」
「それはスキャンダルが怖いから?」


前を向いたまま投げかけられる問い。それを耳にした途端、膝上のスクールバッグに乗せていた手が、ほんの微か、ピクリと動いた気がした。反射的なそれに視線を落とした私は、わずかな間をあけてから「そうですね」と小さくもはっきり答える。
そんな私の様子を横目で見ていた寿さんが再び前を見つめると、少しの間だけ瞼を伏せて「…そっか」と優しい声で返してきた。


「紗夜ちゃんは本当に優しい子だね。いつもぼく以上に心配してくれてる。…でも、大丈夫だよ。ぼくだって気を付けて行動してるから、怪しいと思った時には君を誘わない」


「それにぼくちん、この業界長いからそういう勘も冴えてるんだ☆」そう言いながら自慢げにウィンクをしてくる寿さん。それが嘘か本当かは分からないけれど、でも、やっぱり私としては不安が拭えない。なんせ彼が生きているのは、私には分かりようもない厳しい世界。どうしても私は“もしなにかあったら…”と過剰に気にしてしまうのだ。

そうは思っても、きっと寿さんは“大丈夫”とはぐらかしてしまうんだろうな。なんて考えながら諦めたように窓の外の見慣れた景色を眺めていた。








――そうしてスタバやコンビニを回り、ビデオレンタルで寿さんや事務所のメンバーが出演した作品を教えてもらったり好きなアニメを教えたりと他愛のないことをしてきた私たちは、小一時間ほどを過ごしてからようやく私の家への帰路を辿っていた。気付けば空も暮色に沈んでいて、街灯が徐々に灯され始めている。

その中で私の案内通りに車が進み、やがて見慣れた近所の公園が見えてきた。


「この辺で大丈夫ですよ。すぐそこなので」
「家まで送らなくていいの?」
「はい。見られたら困りますし…」


私がそう言った時、不意に寿さんのポケットから携帯のバイブ音がなった。「電話だ、ちょっとごめんね」と言った寿さんは車を路肩へ停めるなり携帯を取り出して耳に当てる。
すると明るい声で話し始めた寿さんの口から“おとやん”や“トッキー”、“ランラン”とあだ名らしき単語がいくつか飛び出した。電話の相手はそのうちの誰かだったんだろうか。確か最初のおとやん、トッキーはこの前言っていた後輩の人たちだったと思う。でも、ランランは誰だっけ…。

聞き覚えがあるようだけど思い出せないその人のことを考えていると、寿さんはあっという間に電話を切り上げて「ごめんごめん」と軽く謝ってきた。


「今おとやんたちの撮影が終わってご飯に行くから、一緒に行かないかっていうお誘いだったよ」
「そうなんですか。みんな仲いいんですね」
「そうでしょそうでしょ〜? 本当は紗夜ちゃんも連れて行ってあげたいんだけど…」
「それはいいです遠慮します」


ちらちらとわざとらしく視線を送ってくる寿さんをばっさり切り捨てると「そ、即答…」とこれまたわざとらしく肩を落とされた。こうして寿さんと会うことだってはばかられる思いなのに、そんなアイドルだらけのところに行けるはずがない。

それを分かっているのかいないのか、唇を尖らせている寿さんにふ、と小さくため息をこぼす。そして気を取り直すようにシートベルトを外して寿さんに向き直った。


「それじゃ、今日は送ってもらってありがとうございました」
「ううん、こちらこそ付き合ってくれてありがとね」


子供っぽい笑顔を見せながらそう言う寿さん。私はそんな彼に「失礼します」と小さく頭を下げてからドアを開けようとした――その時、寿さんに手を取られる。え、と思わず声を漏らしそうになりながら振り返ると同時に、握られた手の甲へ触れるようなキスを落とされた。
柔らかな唇が、そっと手を離れていく。そうして持ち上げられた彼の顔に先ほどの子供っぽい笑顔はなく、年相応の、落ち着いた微笑みが浮かべられていた。


「たぶん遅くなってメールできなくなっちゃうと思うから…おやすみ、ぼくのお姫さま」


囁きかけるようにそっと言葉を紡ぎながら、緩く手を握り締められる。それを最後に手を放された私は少しばかり呆然としながら、


「…なんですかそれ。ちょっとキザすぎますよ」


そう言って、つい呆れの笑みを浮かべてしまった。

今度こそ私が車を降りると、窓を開けた寿さんが助手席越しに「また誘うから、よろしくね」と言って手を振ってくれる。どうやら、直接会うことを控えるつもりはないらしい。それが分かる様子に呆れていれば、寿さんはもう一度手を振って私の答えを聞くこともなく車を出してしまった。

本当に、強引な人だ。そう感じてしまいながら、私はその車に背を向けて自宅への帰路を辿った。


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