06



アイドルである寿さんとメル友、という奇妙な関係が続くまま、夏休みもあっという間に終盤を迎えてしまった。それを確かめるようにカレンダーを見れば、始業式まであと一週間ほどだということがよく分かる。
長かった休みも、終わり間際になってしまえば短く感じてしまうものだ。そう実感しながらベッドに倒れ込むと、スプリングがギシリと小さく鳴いた。同時に、傍の窓から少しだけ冷たい夜風が吹き込んでくる。


「……」


ちょうど目の前にある携帯を見つめて、考え込む。果たして、寿さんとのこの奇妙な関係はいつまで続くんだろう、と。
きっと終わらせることは簡単だけど、特に終わらせる理由もなくてそのままだ。むしろ、本当にあの人が私をファンにさせられるというのなら、それはそれで興味があるくらいで、まだこの関係を続けていくこと自体は構わないと思う。思うのだけど…

…問題は、マホに隠していられるかということだ。

彼女は寿さんが所属するシャイニング事務所のアイドルが大好きで、かなりの情報を網羅している。そしてそれをいつも聞かされる私は対照的に、世間知らずというレベルでアイドルのことをなにも知らない。それを分かっている彼女だから、私が寿さんについてなにか知っている素振りを見せようものなら即刻怪しむ可能性がある。
…いや、もしかしたら単純に興味を持ったんだと思ってくれるかもしれない…? その可能性もあるけど、絶対にそうだと断言はできないところが恐ろしい。

以前のメールではもし本当に知り合いになったら教えて、といったようなことを言われたけど、それが間違いない本心なのか分からなくて踏み出せそうにない。もしかしたらただの冗談だったのかもしれないし…。

なんてことを考えてしまうと全然決心がつかなくて、小さな唸り声を漏らしそうになったその時、目の前の携帯がピコン、と軽快な音を響かせた。不意を突かれた私はついびく、としてしまいながら携帯を手にする。すると表示された新着メールに『マホ』の文字があった。

噂をすればなんとやら…彼女からメールが来てしまった。少し身構えるような思いでそれを開いてみれば、そこには珍しくお知らせではない内容が綴られている。


『明日ショッピングモールに行かない? どうせ暇でしょ?』


書かれていたのはそんな簡素なお誘い。こんな夜に唐突だな、と思うと同時に『どうせ暇でしょ』は余計な一言だろうと突っ込みたくなる。だけどそれは残念ながら事実で、きっとマホ自身も暇を持て余しているんだと思う。
私はちょうど漫画の新刊を見にいきたかったし、ここは素直にお誘いを受けておこうかな。


『いいよ。何時にどこ集合?』
『十二時に現地でいいんじゃない? お昼ご飯食べてぶらぶらしよ』
『了解』


用件だけの簡単なメールを送り合ってはパタン、と携帯を閉じる。

突然問題のマホに会うことになってしまったけど、さすがに明日打ち明けるわけにはいかないな…。まだ心の準備もできていないし、そもそも打ち明けるべきかどうかの判断もできていない。とりあえず明日は寿さんのことを忘れて、今まで通りを装っていよう。
そう決意するように考えては、壁に掛けている時計へ顔を上げた。

いま、午後十時を過ぎたくらい。お昼の集合に合わせようと思っても寝るにはまだ早かった。
もう少し時間を潰してから寝るくらいがちょうどいいかな。そう考えた私がベッドの傍のテーブルに置いていたゲーム機へと手を伸ばそうとした時、置いたばかりの携帯がピコン、と音を立てた。
マホとはメールを終えたばかり。それを思うとなんとなく相手が分かった気がして、ゲーム機に伸ばしていた手を携帯へ向け直した。

開いた画面には思った通り、『寿嶺二』の文字。不思議と見慣れた感覚を抱きながらメールを開いてみれば、そこには相変わらず元気のいい文章が綴られていた。


『まだ起きてるー? ぼくちんはいま帰ったところでーす!』


テレビ越しに聞くあの声が頭の中で再生されるような錯覚に陥る。寿さんのメールはいつもそうだ。あの人が喋る様子そのままが文章になって送られてくる。

…それにしても、この報告は一体なんなのだろう。他愛ないメールはいつももらっているけど、帰宅報告は初めてだ。そう思いながら返信画面を開くと、『お疲れ様です。なんのための報告ですか』と率直な思いを返した。
すると寿さんはすぐに返事をくれたのだけど、それを開いた私は思わず少しだけ目を丸くしてその画面を見つめてしまった。


『ぼくちんの安否報告だよ! そんなことより紗夜ちゃん。今日はメールじゃなくて、電話にしてみない? いつまでもメールだけじゃ味気ないでしょ』
「…“電話”…?」


突然の思わぬ提案に声が漏れる。まさかそんな要求をされるとは思ってもみなくて、私は携帯を握ったまま呆然と目を瞬かせてしまっていた。

…これまで寿さんとは何度もやり取りをしてきたけれど、それはメールだから、それくらいならいいかと半ば諦め気味に納得したからこそのことだった。だけど、それが電話となると違うような気がする。
第一、特に用事のない電話をするなんて仲のいい友達くらい距離が近い人同士しか許されないものだ、と私は勝手に思っている。だから寿さんとはメールまでは許容できても、電話ばかりはさすがにはばかれる思いがあった。


『どうしても、ですか?』


返事に困った私は、どこか委ねるようにそんなメールを返していた。こう返せばきっと折れてくれると、遠慮してくれると思ったのだ。なのに、返ってきたメールは予想と少し違う内容だった。


『無理強いはしないけど、ぼくちんは紗夜ちゃんの声が聞きたいな。ダメ?』
「う…」


“ダメ?”という文字にどことなく胸を刺されたような感じがして、思わず声を漏らした。なんでだろう、断ろうとしていることにわずかな罪悪感が生まれてくるのは。まるで捨て犬に見つめられているような気分だ。
不思議とそう感じてしまってはなんだか断れなくて、私は観念するように一文字一文字ゆっくり『分かりました』と打ち込んだ。未だ少しの躊躇いが残る親指を送信ボタンに添えては、ぐ、と力を込める。

あぁ、送ってしまった。そう思うも束の間、携帯はすぐにピコン、と軽快な音を鳴らした。


『ありがとう! じゃあ、電話かけるよ?』


そんなメールを見つめると、途端に焦燥感が駆り立てられるような気がした。やっぱり電話はまずいって。自分にそう言い聞かせるように返信画面を開いて、『やっぱり』とまで打ち込んだその時、突然画面が切り替わると同時に、いつもとは違う着信音が鳴った。画面には寿嶺二の文字と電話番号が並ぶ。本当に掛けてきた。それを実感するように、震える携帯を握り締める。

このまま出てしまってもいいんだろうか。いま切ればまだ間に合うんじゃ…そう思いながら、アニメーションが流れる画面を見つめて。しばらく考えるように硬直していた指を、ボタンへ添えた。
ぐ…と、力を込める。


「…えっと…秋月、です」


結局切ることもできなかった私は通話ボタンを押して、小さくそう言った。すると途端に『もしもし紗夜ちゃん? 寿でーす!』という元気よく弾んだ声が返ってきて、私が今まで感じていた躊躇いや張り詰めた緊張感が呆気なく掻き消されてしまうような気がした。


『よかったー。中々繋がらないから、出てくれないのかと思った』
「あ、すみません」
『ううん、いいんだよ。気にしないで』


メールより早く、直に届く返事に意識が集中する。この声は、いつもテレビ越しに聞いていた声だ。あの日の夜、学校で聞いた声。間違えるはずもない特徴的なその声に確信を抱いては、久しぶりに現実味がないような、あの不思議な感覚を思い出した。

…だけど、いま耳元で聞いている声はなんだかテレビで聞くよりも陽気に聞こえる。楽しそうというか、高揚しているというか…そう、酔っ払っているような声だった。


「寿さん…もしかしてお酒飲みましたか?」
『あ、分かっちゃった? 実はさっきまで打ち上げしててね〜。ずいぶん盛り上がったから思ったより飲んじゃった』


私の率直な問いに寿さんは案の定な答えを返してくれる。なるほど、打ち上げか。テレビなんかでもよく聞くし、やっぱり芸能界だとそういう付き合いも多いのかな。
それほど人付き合いが得意ではない私はつい大変そう、だなんて思ってしまう。対して寿さんはそういう場も得意そうだな。そう考えた時、寿さんが電話越しに『いやぁ〜』という緩い声を上げた。


『結構飲んじゃったせいか、ちょっと人恋しくなっちゃってね。だから紗夜ちゃんの声が聞きたいなーって思って、電話を提案してみたんだ。てっきりすぐに断られちゃうと思ってた』
「本当は、やっぱり断ろうと思いましたよ」
『あれ、そうなの? もしかして無理させちゃった? ごめんね。でも切らずにこうして出てくれて、お兄さんは嬉しいよ』


まるで宥めるような優しい声で言われて、すぐに返事が思いつかなかった私は「はあ」とだけ素っ気なく返していた。

確かに寿さんの言う通り、結局私は電話を切ることなくこうして普通に通話をしている。電話を切れなかった後悔はないけれど、かといって、ドキドキといった高揚感もない。相手は有名なアイドルだというのにどうしてか私は、むしろ落ち付いたような感覚の中、まるで友達と会話するかのように彼との通話を続けていた。

もしかして私、寿さんのことを友達だと思い始めているのかな。なんてどこか他人事のように考えてしまっていると、不意に寿さんが突拍子もないことを切り出してきた。


『でも本当は、電話よりも直接会える方が嬉しいんだけどな。どう? お兄さんともう一度直接会って話さない?』
「……“どう?”、じゃないです。そういう発言、ちょっと危ないおじさんみたいですよ」
『あ、危ないおじさん…!? それはちょっと傷つくなぁ…』
「寿さんが変なこと言うからです」


ちょっと落胆した様子の寿さんへはっきりと言い返す。すると寿さんは『えぇー、』と少し不満げな声を上げた。


『ぼくが紗夜ちゃんに会いたいっていうのは本気なのに』


そう、どこか甘い声で寂しげに呟かれる。その時、冷たい夜風が吹き込んでカーテンをフワリと大きく揺らした。夏の少し湿った空気が肌を撫でる。私は携帯を耳に当てたままそれを感じて、改めるように大きなため息を一つ落とした。


「…アイドルが軽々しくそういう発言をしちゃダメですよ。もし聞かれたりしたらどうするんですか」
『大丈夫だよ。そのために家まで我慢したんだもん』


そういうところは気を付けてるから、安心して。
そう続ける寿さんに少しばかり呆気にとられるよう目を瞬かせた。寿さんは気を付けていると言うけれど、傍目から見ている私としては彼の言動にヒヤヒヤして仕方がない。生放送の番組で私に向けたらしいウィンクといい、こういう軽率な発言をすぐにしてしまうところといい…いずれ誰かに気付かれても不思議ではない気がするのだ。
もう少しちゃんと気を付けてと言うべきなんだろうか。とはいえ、それもなんだか変な感じだ。そう思っていた時、寿さんが思い出したかのように言い出した。


『前から少し思ってたんだけど、紗夜ちゃんってちょっとトッキーに似てるよね。真面目で厳しいこと言うところとか』
「トッキー…?」
『あれ、知らない? ST☆RISHの一ノ瀬トキヤ。アイドルに興味ない紗夜ちゃんでも、名前くらいは聞いたことあるでしょ』
「えっと…なんとなくは…」


確かに聞き覚えのある名前に一生懸命頭を働かせる。ST☆RISHは確か、寿さんたちQUARTET NIGHTの後輩グループだったはず。その中の黒髪の、真面目そうな人…確かその人が一ノ瀬さんだ。そんなぼんやりとした説明をしながら「合ってますか?」と聞けば、寿さんは『ピンポンピンポーン! 大正解〜!』と弾んだ声を返してくれた。


『トッキーはぼくのマスターコースの生徒でね〜。一緒に生活もしたし、おとやんと三人で一緒に仕事をすることも多かったんだ』
「…寿さんと一緒に生活…」
『えっ、なになに? ぼくとの生活に憧れるっ?』
「いえ…大変そうだなって」
『そんなことはないぞ! なんてったって、ぼくちんが退屈させない楽しい毎日だからねっ☆』
「それが大変そうなんですよ」


そう言い返せば寿さんは『ガガーンっ』と大袈裟なリアクションを返してくる。それにくす、と笑ってしまっては、


「そうですね…本当に退屈はしなさそうです」


と囁きかけた。するとどうしてか、途端に電話の向こうが静かになった気がして首を傾げる。基本的にすぐに言葉を返してくれていたから、その間が妙に気になったのだ。


「あの、どうかしました?」


堪らず率直に問いかけてみる。それにようやく反応を返してきた寿さんは、なにやら呆然とするような、驚いたような声で呟くように言い出した。


『初めて紗夜ちゃんが笑ってくれた…デレた!? 紗夜ちゃんがもうデレてくれた!?』
「なんですかそれ。デレてないです。私だって笑う時は笑いますから」
『そうなの? じゃあもしかして、メールでも笑ってくれてたり?』
「メールでは笑ってないですね」
『笑ってないんかーいっ! 結局ぼくちんの前じゃ全然笑ってないんじゃない! せっかくちょっと喜んだのにっ』


ぷんぷんっ、と寿さんはそんなところまで声に出してしまう。唇を尖らせているのが目に見えるくらい、彼の反応は分かりやすかった。対して私は「勝手に喜ぶのが悪いんです」と我ながら可愛げのない言葉を向けてしまったのだけど、それでも寿さんは全然お構いなく、むしろ一層弾んだ声で返してきた。


『でもでも、電話では笑わせたからね。これからもどんどん紗夜ちゃんのデレを引き出していくよ!』


なんだか自信満々に、やる気に満ちた様子で言われる。「だからデレてないですって」ともう一度訂正したけれど、なにやら楽しそうな寿さんはたぶん聞いていない。その様子につい呆れのようなため息をこぼしてしまったけど、ふと、電話の向こうで寿さんがあくびをしたのが分かった。
まだ遅い時間ではないとはいえ、寿さんはそこそこお酒を飲んでいる。場所も自宅だと言っていたし、そろそろ眠くなってきた頃じゃないだろうか。


「寿さん、そろそろ寝ませんか? 明日もお仕事でしょう」
『ううん、明日は一日オフだよ。紗夜ちゃんは?』
「私は明日、友達と出掛ける予定です」
『そうなんだ。それじゃあんまり引き留めるのもよくないね。紗夜ちゃんの言う通り、今日はもう寝ようかな』
「そうしてください」


言いながらもう一度あくびをこぼす寿さんに釣られて、私まであくびをしてしまった。すると寿さんが『いま紗夜ちゃんもあくびしたでしょ? 移っちゃったね』なんて楽しそうに言ってくる。あくびを人に聞かれたのが少し気恥ずかしくて「指摘しなくていいです」と素っ気なく返せば、寿さんは緩い笑い声を漏らしていた。

なんだか本当に友達のようなやり取り。こんなことで、私が寿さんのファンになる日は来るんだろうか。彼を好きになれるんだろうか。むしろ少し、遠ざかっているような気もするけど。
そうは思いながらも口にせず。揺れるカーテンに手を伸ばして、開いてしまったそれを静かに閉め直した。


『それじゃ、また連絡するね。明日は楽しんで。おやすみ』
「はい。おやすみなさい」


寿さんの言葉に挨拶を返すと、向こうが通話を切ったことを確認して携帯を下ろす。私しかいない静かな部屋には、携帯を閉じる固い音がよく響いた。


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