03



――ぼくが君に好きを教えてあげる。

ベッドの上、ぼんやりとする頭で思い返すのはあの夜のこと。はっきりと覚えているけれど、現実味がない夜。本来は忘れた課題を取りに行って、誰にも会わずさっさと帰ってくるはずだった。だけど実際には人と、それも現役のアイドルと出会って、どういうわけかその人は私に“好き”を教えると言い切った。それも、勝手にアドレスの交換をして。


「……」


…やっぱりよく分からない、おかしな話だと思う。二、三日が経ったいま、冷静に何度思い返してみても一向に理解ができない。それくらい信じられない、作り話のような出来事だった。

そのためか、もしかしてあの時出会ったあの人は、寿さんを騙る偽物だったんじゃないだろうかという疑心が芽生えてくる。
私はアイドルに詳しくないから、はっきりと顔を覚えているわけではない。だからどこかの誰かが、彼の振りをしていたことに気付けなかっただけなんじゃないだろうか…
そんな可能性をよぎらせたその時、不意に携帯が軽快な受信音を鳴らした。ドキ、と小さく心臓が跳ねるような錯覚を覚える。


「……まさか、ね」


彼のことを考えていたせいか、脳裏をよぎる可能性にわずかながら身構えた。だけどあの夜からこれまでの間、彼からメールが送られてきたことはない。それなのに今さら送ってくるだろうか。きっといつも通りマホだろう。まるで言い聞かせるようにそう考えながら、携帯を手に取った。

開いた画面に表示されたのは『マホ』の二文字。よく知る彼女の名前だと分かった途端、私は画面を見つめて一秒ほど止めてしまっていた息をふ…と吐き出した。

やっぱり違った。変な緊張なんて、する意味がなかった。緩む気持ちの中で確かめるようにそう思ってしまいながら彼女のメールを開く。するとそこには『寿嶺二の出る生放送、やってるからね! もうすぐ出番だよ!』といういつものお知らせ文が綴られていた。


(寿嶺二…)


確か十人以上いたはずのアイドルの中でピンポイントに出された名前に思わず目を細める。私がその人のことで悩まされているのが筒抜けなのかと、少し疑ってしまいたくなるくらいだ。だけどそんなことがあるはずはなく、私はいつも通り『気が向いたらね』とだけ打ち込んで返信した。
するとそれに合わせるように、リビングの方から「紗夜ー、ご飯ー」と呼びかけてくるお母さんの声が響く。それに返事をしては、携帯を手にしたまま部屋を出た。

少し、気にしすぎかもしれない。あの夜のことはさっさと忘れてしまおう。きっとそれが一番だ。
受信メール一覧の中に確かに並ぶ『寿嶺二』の文字をもう一度見直しながら、言い聞かせるように考える。そうして閉じた携帯をポケットに突っ込みリビングへ足を踏み込めば、夕食が並んだテーブル越しに見覚えのある顔が見えた。
四角いテレビ画面の中。左上に『LIVE』というテロップを表示するその番組に、男性アナウンサーと並んで立つ寿さんの姿があった。


(あの人…)


思わず足を止めた。さっきマホが言っていた番組、それをちょうどお母さんが見ていたらしい。そこに映る寿さんはどうやらゲストで呼ばれたようで、楽しげに明るい表情を見せながらアナウンサーと話をしていた。


『――それでは、CMのあとはゲストの寿さんに歌っていただきます! 寿さん、準備の方よろしくお願いします!』
『はーい! れいちゃん頑張りマッチョッチョ〜☆』


アナウンサーの振りに寿さんが緩いガッツポーズを見せて変なセリフをカメラに向ける。

…マッチョッチョって、なに。思わず眉をひそめるほど疑問を抱いてしまったけれど、確か前にも同じことを思った気がする。そうだ、確かマホが見せてきた雑誌。それに綴られたインタビューにも書いてあって首を傾げたんだ。
その時は思わずマホにどういう意味? って問いかけたけど、あれは寿さんの造語だとかでどうやって生まれているのかはアイドル好きの彼女も分からないと言っていた気がする。

変わった人、なんだろうか。だとしたら私一人をファンにさせようとする行動も、納得できるような…そうでもないような…。なんて、よく分からない彼という存在に疑問を抱きながら食卓に腰を下ろしたその時、不意にポケットの中でピコン、と受信音が鳴らされた。
マホが返事をくれたかな。そう思って開いた画面には、どういうわけか、生放送に参加しているはずの『寿嶺二』の文字が表示されていた。


「え…」


思わず小さな声が漏れた。確かめるように顔を上げてみるけれど、テレビ画面にはまだ見慣れたCMが流れている。…ということはもしかして、カメラに写っていない今だからこそ、メールを送ってきた? でも、今まで音沙汰なんてなかったのに…?

理解の追いつかない状況に疑心が漂うのを感じながら、私はそっとメールを開いてみた。


『久しぶり〜☆ すぐに連絡できなくてごめんね。いま絶賛生放送中の番組に出てるんだけど、紗夜ちゃんは見てくれてる?』


画面に綴られるのは軽い口調のそんな文章。やっぱり、カメラに映っていないこの間にメールをしてきたんだ――と確信を抱くような思いに至ると同時、漂っていた疑心も大きく膨らんだ。

これを送ってきた『寿嶺二』は、本当に、本物の寿嶺二なんだろうか。

それは現実味がなさすぎるがゆえに考えてしまった可能性。顔の見えないメールならいくらでも偽ることができるし、もしかしたらこの数日音沙汰がなかったのも、本物だと信じさせるためのタイミングを窺っていた可能性だってある。
生放送の寿さんの行動に合わせてメールを送り、彼を装うなんてことは、きっと誰にでもできてしまうだろうから。

そう思うなら放っておけばいい。だというのに私は相手を試すよう、それでも率直な返事を打ち込んでいた。


『たまたまですが見てます。でも、あなたがテレビに映っている本物の寿さんだとは信じていません』


そう返信してしばらくCMは続いていたけれど、メール相手の『寿嶺二』から返る言葉はなかった。
やっぱり偽物だったんだろうか。騙すのを諦めたか、それとも次の策でも考えているんだろうか。なんて考えていた時、飲料水のCMが終わると同時に番組が再開した。そこに映るのはCM前と同じようにアナウンサーと並ぶ寿さんの姿。当然その手に携帯なんてなく、代わりに一本のマイクが握られていた。

CM前と変わった様子はない。ということは、やっぱりメール相手は偽物で間違いないだろう。そう思った時、用意されたステージへ移動する寿さんが空いた片手をポケットへ入れて、数秒と経たないうちに抜いてしまった。

…なんだったんだろう、今の。ポケットに手を入れたわけじゃなくて、裾を直しただけだったとか?
あまりにさりげなく短い間の動作にそう考えてしまう私の手の中で、突然携帯がピコン、と軽い音を鳴らした。


『ぼくのことしっかり見ててね。本物だって証拠、見せてあげる』


紗夜ちゃんに向けるよ。

間をあけて、最後に綴られたそんな言葉。それに視線をなぞらせて、私はもう一度テレビの中の寿さんへ顔を上げた。
もしかして、さっきポケットに手を入れたように見えたのは…これを送信するため…? 確証こそないけれど、そう感じてしまうようなタイミングに目を疑う。

それじゃこのメールの相手は、本物の寿さんだというのだろうか。疑うようにテレビを見つめれば、寿さんがステージ中央で足を止めた。そしてどこかで聴いたことのあるイントロが流れ始めて、観客がわあっと沸き立つ。ほどなくして寿さんが歌い始め、観客が聞き惚れるように彼を見つめていた。

その姿に、この人は確かにアイドルなんだって、否応なく思い知らされた。
それと同時に、もし本当にこのメールが寿さん本人のものだったら…という思いがよぎる。メールに綴られていた最後の一文、『紗夜ちゃんに向けるよ』っていうのは一体どういう意味なんだろう。漫画なんかでよくある、“君に捧げて歌うよ”とか、そういうことなんだろうか。

なんだか判然としない、曖昧なその言葉に眉をひそめる。そのままテーブルに腕を乗せるようにしてテレビを見つめていると、不意にキッチンから顔を出したお母さんが不思議そうな顔を向けてきた。


「あら、ご飯も食べずに集中して珍しい。…寿くん? あんた寿くん好きだっけ?」
「別に、集中してたわけじゃないよ。“いつもの”だから、なんとなく見てただけ」
「いつもの? あぁ、マホちゃんね」


説明するように言えばお母さんはあっさり納得した様子で「あの子も相変わらずね〜」なんて言いながら隣に座った。
事情を話せるわけもなくて適当に誤魔化したけれど、マホのおかげでなんとか疑われずに済んだらしい。それを確信しては私も我に返るよう手を合わせて夕食に手を付け始めた。

しばらくして、メロディが鳴り止むと同時に寿さんが『センキュー!』とポーズを決めた。途端、曲が始まった時より強く大きく、観客が沸き上がる。それは寿さんのパフォーマンスの終了を意味するものだったけれど、私は誰にも気付かれないほど小さく首を傾げていた。

私に向けると言う割に、特に気になるものがなかった気がする。やっぱり、“歌を捧げる”といったことだったんだろうか。なんて考えながらご飯を口に運んでいると、控えていたアナウンサーが観客と同じように拍手をしながらステージ上の寿さんに並んだ。


『ありがとうございました! さすが寿さん、格好よかったですね〜!』
『お。やっぱりそう〜? ぼくちんの隠し切れない格好よさ、溢れ出ちゃった〜?』


先ほどまでのクールに決めていたステージとは一変、おちゃらけたように言う寿さんがてへ、と舌を出す。すると途端に会場が温かい笑いに包まるのが分かった。
なんというか、切り替えの早い人だな。別人のように振る舞えてしまう彼にそれを感じていると、アナウンサーと寿さんに動きがあった。どうやらメインセットの方へ移動するらしい。カメラが切り替わり、引きで映される二人がステージの短い階段を降り始めた――その時。

寿さんがほんの一瞬、カメラに向けてウィンクをした。気のせいかと思うほど、一瞬。

それくらいさりげなく短い動作に思わず見間違いかなと思いかけたのだけど、それに気付いたらしい観客が黄色い声を上げていたから、どうやらそれが私の見間違いではなかったのだと思い知る。

…だけど、なんであんなタイミングで?
パフォーマンスにしては変なタイミングだなと思ってしまうようなそれに疑問を抱かざるを得ない。だけど寿さんの口からそのウィンクについて語られることはなく、誰にも触れられないまま番組はスムーズに進行してエンディングを迎えていた。








――それから一時間。自室に戻った私はあれ以来連絡のない携帯を置いてベッドに転がっていた。なんとなく手持無沙汰に感じて漫画を開いてみたけれど、なにやら内容が頭に入ってこない。それはたぶん、曖昧な彼の言葉が気に掛かっているからだ。

結局寿さんはなにで証明したつもりだったのだろう。歌? 仕草? それともまさか…あのウィンク?
分からないままぼんやりと漫画の表面に目を滑らせていると、不意に軽快な受信音が鳴った。それはなんとなく、相手が分かった気がして。手に取った携帯を開いてみれば、画面には思った通りの名前が表示されていた。


『どう? 気付いてくれた? ぼくのウィンク。紗夜ちゃんに届け〜って思いながらしたんだよ』


開いたメールにはそんな言葉が綴られている。“気付いてくれた”? “ウィンク”…? …ということはあの一瞬のウィンク、本当にあれが私に向けられたものだったってこと?
可能性を考えはしていたものの、予想とはどこか違う彼のアピールになんだか呆気にとられそうになる。なんというか、分かりづらいアピールだ。そう感じてしまった私はカチカチと小さな音を立てながら返事を打ち込んだ。


『私に向けるって、あのウィンクのことだったんですね。気付きましたけど、てっきりただのパフォーマンスかと思いました』


率直に、思ったままの言葉を送り返す。するとほどなくして『ガーン! 気付いてもらえなかったなんて、れいちゃんショックっ!』と、なんとも大袈裟な様子が伝わってくる文章が送られてきた。

そうは言われても、仕方ない。なんせ私はアイドルに無頓着で全然分からないし、あれがパフォーマンスかそうじゃないかを見分ける目も持っていない。だから『すみません』と素直に返してみたら、返事はすぐに送られてきた。


『謝らなくていいんだよ。それよりぼくが本物の寿嶺二だってこと、信じてくれた?』


そう綴られる文言に、思わず手を止めた。そうだ、深く考えずに返事をしてしまっているけれど、相手がまだ誰なのかははっきりしていない。証拠だというあのウィンクもさりげなくて気付きにくいものだったとはいえ、気付ける人は気付いていた行動だ。それを証拠として認めてしまうのは、まだ早い気がする。

そう思ってしまっては携帯を握ったまま、指を動かせずにいた。メールに視線を落としたまま、返信画面すら開けずにいた。
どう返すべきだろう、むしろ、もう返さないでおくべきだろうか。そう考えてしまいながら親指を電源ボタンへ滑らせようとした、そんな時。不意に画面が切り替わって『受信中』のアニメーションが表示された。直後、軽快な受信音と同時に新着メールが表示される。


『まだ信じられなかったら、これもあげちゃう!』


私の返事を待たずして送られてきたメールにはそんな言葉と添付ファイルが一つ。なにやら画像らしいそれを恐る恐る開いてみれば、画面いっぱいに寿さんの姿が映し出された。どうやらそれは自分で撮ったようで、あの番組の名前と『寿嶺二さま』と書かれた紙が貼られるドアの前に立つ寿さんがこちらを覗き込んでいる。
このドア、いわゆる楽屋だ。しかも意図して映したのか、寿さんの腕に見える時計が二分ほど前の時間を差している。

それは、本人にしか撮れない写真。それを思い知らされる数々の要素に目を瞬かせてしまっては、私は呆然とするようにその写真を見つめていた。
つい一時間ほど前にテレビで見たものとなんら変わりない姿。特徴的なその茶色い癖毛は、あの夜に見たそれと同じ。それを実感するように彼の姿を眺めていた私は、静かにそれを閉じて返信画面を開いた。


『分かりました。本物だって信じます』


頭では理解していながら、未だに実感が沸かないままメールを送信する。そんな私とは対照的に、寿さんはテレビで見るのと同じ雰囲気を感じさせる文面で返事をくれた。


『ありがと! それじゃ信じてもらえたところで、改めてこれからよろしくね☆』


無邪気な、子供のような雰囲気。それを文字からでさえ感じてしまいながら、ただ淡々と『よろしくお願いします』と返事を打った。


「……」


…“よろしくお願いします”って、なに。平然とやり取りを続けて、さらにはそれを続けてもいい返事をしてしまった私自身の行動に遅れて呆然とする。けれど、それはもう送信してしまったあとのこと。いまさら取り消すことのできないことを理解してしまった私は返信済みマークの付いたメールをただ見つめて。やがて、パタンと音を立てるように携帯を閉じた。


「…面倒なことになりそうだと思ったら、きっぱりお別れしよう」


先のことを考えるのに面倒くささを覚えた私は、投げやりな思考に任せて携帯をベッドの端に放ったのだった。


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