01



恋って、なんだろう。

キラキラしていて、ふわふわして、甘くて、切なくて。その気持ちを形容する言葉はたくさんあるけれど、生憎私にはどれも経験したことのない、不思議なものだった。少女漫画、恋愛ドラマ、友達の恋バナ。それらは全部傍目から見ても眩しいくらい輝いていて、いつか私もその景色が見えるって信じていた。

――だけど、それはどれだけ経っても見えはしなかった。


“あんたにも分かる日が来るよ”


何度も聞いた言葉。最初こそは信じていたけれど、今ではもう期待も希望も、興味さえ潰えていた。

そんなある日の放課後、目の前には頭を下げる一学年上の先輩の姿。微かに耳に残る“好きなんだ”という言葉。私は今、かっこいいと噂されるこの人から告白をされた。みんなの言う通り、確かにかっこいいかも知れないと思っていた。この人を好きだという人も、これまでに何人か見てきた。

けれど、どうしてだろう。
私の胸の中にはなにもない。

かっこいいかも知れないと思っていたのに、みんなが憧れる先輩から告白されたというのに、自分でも信じられないほど、心が動かない。


「ごめんなさい」


目の前の彼よりも深く、頭を下げた。
私にはあのキラキラとした輝かしい景色が見えない。鮮やかに色付くはずだった世界の色は、いつものくすんだ色。足は固い地面を踏みしめたまま。ふわふわと浮かれるような気持ちもない。まるで感情そのものがすっぽり抜け落ちてしまったかのように、私の鼓動を速くするものはなにひとつなかった。

私に恋は分からない。
虚しさを煽るようにザアと鳴く木々の音だけが、私たちをそっと包み込んでいた。



* * *





「…ん」


ピコン、と鳴った携帯の音に目を覚ます。目を開けてみれば部屋は真っ暗で、軽いお昼寝のつもりが中々寝込んでしまったらしいことが窺える。のそりと体を転がせて携帯を手に取ると、新着メールが一件ありますとの表示が出ていた。友達のマホだ。


『今日は八時からカルナイの特番ね!』


そんな文章の下に『要チェック!』とまで書いてある。いつも通りの様子に私はふっ、と小さく笑ってしまいながら『気が向いたらね』といつも通りのメールを返してあげた。

マホは大のアイドル好きだ。中でもシャイニング事務所のST☆RISHとQUARTET NIGHTが大好きなようで、彼らの出る番組をいつも教えてくれる。けれど私はアイドルとか、そもそも芸能人というものに興味がなくて、彼女が楽しそうに話しているのをいつも聞いているだけ。教えてくれた番組も、家族が見ていればついでに見るといった感じだった。だけどマホはそれを嫌がるわけでもなく、むしろいつも聞いてくれてありがとうとさえ言われたことがあるから、彼女はたぶん聞いてほしいだけなのだと思う。まぁ、私が興味を持ったら、それはそれで喜ぶんだろうけど…。なんて思うもやっぱり気になることはなくて、結局ベッドに転がったまま携帯を触っている。

すると、またもマホからメールが飛んできた。


『そういえば夏休みの課題進んだ? 紗夜のことだからまだやってないんじゃない?』
「む…」


見透かされたようなその言葉に口を曲げながら『失礼な』と返してやる。けれど事実、まだ一ページも手を付けていなかった。だらだらと過ごしていたら夏休みももう中盤。部活もバイトもしていないとはいえ、さすがにこのままでは始業式までに終わらせられる気がしない。


「……仕方ない、やるか」


はあー、とため息をこぼしてしまいながらベッドを降りてスクールバッグを手繰り寄せる。なんだかやけに軽いけど、中身入ってるよね。なんて冗談半分に思いながらバッグを開けて、目を瞬かせた。そこには教科書やノートが数冊あるだけで、夏休みの課題であるプリントやら冊子やら、なにもかも全てがバッグに入っていなかったのだ。


「…あれ…もしかして、忘れた…?」


ぽつりと呟けば段々とそんな気がしてくる。そういえばいつも置き勉していて、夏休み前に課題もそこに突っ込んだような気がしてきた。
しばらくそのままフリーズしてしまっては時計を見やる。時刻は午後八時前。忍び込めば行けるだろうか…。


「…よし、行こう」


思い立ったが吉日。パン、と手を叩いてはすぐさま自室を出た。そのまま階段を駆け降りようとしたけど、ふと足が止まる。というのも、夏休み中の学校でなにかあると聞いていたような気がしたから。だけどその肝心のなにかが思い出せない。クラスメイトがずいぶん盛り上がっていた気がするけど…。
しばらく考え込んだけどやっぱり思い出せず、まぁいいかと切り捨ててはお母さんに事情を説明して自宅をあとにした。



* * *




夜の学校は不気味だ。そう思いながらもお構いなく裏門を乗り越えて、難なく校舎内へ忍び込むことに成功した。真っ暗な廊下には非常灯や消化器のランプだけがぼんやり浮かんでいる。だけど灯りはそれだけじゃなくて。窓の向こうのグラウンドにも眩しいくらいの明かりが灯っていることに気付いては、つい足を止めて目を凝らしていた。
やけに明るい光。その周りには何台かの車と、まばらに立つ複数の人影が見える。少し遠くて分かりにくいけど、なにやら大きなカメラとマイクもある気がする。


(あ、そうだ…)


それらを見て、ようやく思い出した。そういえば夏休みの間、うちの学校でドラマの撮影があるって噂があったんだ。どこから嗅ぎつけたのかは知らないけど、それを言い出した子たちはずいぶん盛り上がっていたのを覚えている。おかげで先生から説教じみた声で“忍び込むような馬鹿なことはするなよ”、とクラス全体に釘を刺されたっけ。
…それなのに忍び込んだなんて、バレたら相当怒られるに決まっている。ここはさっさと課題を回収して、見つからないうちに帰っちゃおう。

身を低く屈めながら小走りで廊下を駆けて行って、ようやく自分の教室に辿り着いた。扉を目の前にして鍵のことを思い出したけれど、幸い鍵は掛かっていないようで薄っすらと扉が開いている。そうとなれば話は早い。さっさと忍び込んで課題を回収しよう、と思ったその時――


(! 誰かいる…)


教室内に立つ人影にドキ、と心臓が跳ねるような錯覚を覚えて隠れてしまう。よく見えなかったけど、確かに誰かがいた。誰だろう…警備員とかだったら面倒だな。そう思って窓からこっそり覗き込んでみれば、暗くてよく分からないけれど、警備員らしいシルエットが見えてしまった。

ダメだ…完全にアウトだ。見つかったら間違いなく不法侵入者として厳しく咎められるやつだ。つい最悪な結末を予想してしまっては顔をしかめてしまう。
仕方ない。今日は大人しく帰って、明日また明るいうちに出直そう…。そう考えては、物音を立てないようにそっと来た道を戻ろうとした――そんな時。無慈悲にも携帯がピコン、と大きな音を響かせた。


(! しまった…マナーモードにしてな――)


大きな音に肩を跳ね上げた途端、触れそうなほど近くにあった扉がガラッ、と音を立てるほど強く開かれた。そしてそこには、さっき教室内に見つけた警備員の姿。


「君、こんなところでなにしてるの?」


低いトーンで問われる。あぁ、これはもう誤魔化すことなんてできない。そう思うと私はまともに警備員を見ることもできず、ただ気まずさを表すように視線を落としてしまっていた。


「す…すみません…教室に、忘れ物をして…」
「…ここの生徒?」
「はい…」


まるで咎めるような声色に大人しくしぼんでしまう。これは補導コースかもしれない…私はただ課題取りにきただけなのに。
なんて考えてうな垂れていれば、突然その人が「ぷっ、」と小さく噴き出した。かと思いきやあははは、と声を上げて笑い出して。突然のことに状況が飲み込めず呆然とする私に、その人は笑ったままひらひらと手を振ってみせてきた。


「いやぁ、驚かせてごめんね。ぼく本当は警備員じゃないんだ。どう? 迫真の演技だったでしょ?」
「え、演技…? でもその格好…」
「そういう役なんだ。今度のドラマの、」


ね。そう言って下ろした帽子の下に、茶色の癖毛が覗く。同時にパチン、と可愛らしくウィンクをするその目は、薄暗くても分かるほどぱっちりとした垂れ目――
そう、芸能人に興味のない私でも分かってしまうこの人は、テレビの中にいるはずの人だった。


「あなたは確か…シャイニング事務所の…」
「うんうん」
「シャイニング事務所の…えっと……だ、誰か」
「そうそ…って、えぇっ!? そこまで出たのに、ぼくちんの名前出てこない!?」
「あ…ごめんなさい。私アイドルとかそういうのに興味なくて…」


…って、アイドルに言うのも失礼か。そう思うも口にしてしまったことは取り消せず、オーバーなリアクションに戸惑いながらもう一度すみませんと軽く頭を下げた。するとその人は困ったように笑いながら「これでも有名になったと思ってたんだけどなぁ…」なんて言って頬を掻いた。
なんか、申し訳ないことをしてしまった気がする…。そう思いながらまた謝ろうとすると、その人はもう一度帽子を被って、少し流すような目つきをして私を見据えてきた。


「ぼくは寿嶺二。見たことない?」


きっと思い出させてくれようとしているんだろう、まるで撮影のようにアイドルらしくキメて見せてくれた。とはいえ、その格好でなにをしても警備員にしか見えないのだけど…なるほど、この人が寿嶺二さん…。


「マホ…いや、友達から聞いたことはあります」
「えっ。そ、それだけ…!? 目の前にアイドルがいたら、もっとこう、えぇー!? とか、うそー!? とか、驚くもんじゃないの!?」
「い、いえ、私本当に詳しくないので…」


本当に困惑しているらしいその姿に私まで釣られそうになりながら首を振れば、呆気にとられたかのようにぱちくりと何度も瞬かれた。…もしかしたらこの人は、私がドラマの撮影見たさに忍び込んだのだと思っているのかもしれない。ドラマの出演者のファンだと。だけど私は誰が出るのか、どんな人がいるのかも分からないし、そもそも誰かに会いに来たわけではない。


「えっと、すみません。私、忘れ物を取りにきただけなので、これで…」


警備員じゃないのなら怖いものはない。むしろここでアイドルと一緒にいるところを見つかった方がまずい気がして、寿さんに軽く謝りながらその横をすり抜けようとした。
その時、やけに視線を感じる気がした。それでも構わず自分の席へ向かおうとしたけれど、突然パシ、と小さな音を立てて腕を掴まれた。


「え…」


そんな小さな声が漏れるのが早いか、私の体は呆気なく寿さんに引っ張り込まれていた。息がかかるほど間近にある、寿さんの顔。腰に回された、しっかりとした腕。突然のことでなにが起こったのか分からなかったけど、文字通り目と鼻の先で私を真っ直ぐ見つめる寿さんに、私は目を逸らすことなく真っ直ぐに問いかけた。


「あの…なんですか、これ」


少し、怪訝な顔をしてしまったかもしれない。そう思う私とは対照的に、寿さんはどこかほんの少しだけ驚いたような、呆気にとられるような顔を見せて、「こういうことされても、ドキドキしない?」と問いかけてきた。

真意が、分からない。理解が追いつかなかったけれど、私は迷わず「はい」と答えて、少しばかり眉根を寄せてしまう。…思えばアイドルらしいことをしてくれたのだから、嘘でもドキドキすると答えた方が良かったのかも知れない。そう思うも今さら覆すこともできず、ただなにがしたいのか分からない目の前の寿さんをまじまじと見つめていた。

すると彼は変わらず私を見つめたまましばらく黙り込んで。やがて腕を緩めて呆気なく解放してくれた。結局、なにがしたかったんだろう。分からないまま彼を見上げていれば、突然茶化すようにぱっと可愛らしい笑みを浮かべてきた。


「ごめんね。アイドルに興味ないって言うから、本当かどうか試したくなっちゃった」
「はぁ…」


なんでそんなこと…と思ってしまいながらも、早く帰りたい私は「もういいですか」とだけ言い残して席に向かった。今度は引き留められることはなく、ようやく辿り着いた自分の席に手を突いては椅子を引き、机の中を覗き込んだ。やっぱり、課題置きっぱなし。
自分のズボラ具合に呆れつつ、机から課題を取り出してバッグに詰め込んでいると、不意に寿さんが「ねぇ、」と声を掛けてきた。なんだか、やけに絡んでくるな。ついそんなことを思ってしまいながら振り返ってみれば、


「君は好きな人、いる?」


なにを思ったか、そんなことを聞いてきた。


「…いえ。そういうの、よく分からないんで…」


なんでそんなことを聞くんだろう。堪らず疑問を抱くも、素直に答えて椅子を戻す。椅子の足が床を擦る音がやけに響く。私を見つめる寿さんはなにを考えているんだろう。放っておけばいいのに、なんで私に構うんだろう。撮影に戻らなくていいんだろうか。思うことはたくさんあったけれど、とにかく私がさっさと帰ればいいかと考えて「それじゃ…失礼しました」と軽く頭を下げながらもう一度彼の横をすり抜けた。けれど、廊下へ踏み出したところで「待って」と引き止められて。まだなにかあるんだろうか、ついそんな思いを抱いてしまいながら振り返ると、どうしてか、彼の手に見覚えのある携帯が握られていた。


「え…それって、私の…」


どうして、その思いですぐにポケットを触ったけどその感触はなく、驚くままに丸くした目を寿さんに向けた。いつの間に取られていたのか、全然気付かなかった。でもどうして私の携帯を? 不審なその行為に堪らず眉をひそめたけれど、彼はにこやかに微笑んだままこちらに歩み寄ってきて、あっさりと私の手の中に携帯を置いた。


「君は、“好き”を知りたい?」
「え…」


携帯が手に触れると同時に向けられた問い。その言葉も、それを口にする意味も分からなくて。それってどういうことですか、そう口にしようとした時、下げかけた手は寿さんの大きな手に包み込まれるよう握りしめられた。


「ぼくが君に、好きを教えてあげる」


ぽつり、呟くように降らされた言葉。その意味が分からないまま、声を出すことも忘れて寿さんの顔を見上げた。だけど寿さんは静かにウィンクを残して、そのまま廊下を歩き出す。それからの彼は私に一度も振り返ることはなく、突き当りの角を曲がってあっという間に見えなくなってしまった。


(…どういう、こと…?)


“好きを教えてあげる”? 寿さんが、私に? どうして有名なあの人が、たまたま出会っただけの私に、そんなことを…?

次々と芽生えてくる疑問に眉をひそめたまま、寿さんが消えた曲がり角を呆然と見つめる。それしかできなかった。だけど不意に、携帯がピコン、と間の抜けた音を立てて。釣られるように画面へ視線を落としてみれば、見慣れた受信画面に見慣れない名前――『寿嶺二』が並んでいた。


『これからよろしくね、紗夜ちゃん』
「え…」


メールの本文には、さっきのやり取りに続くような言葉。間違いない、これはさっきまで目の前にいた寿さんからのメールだ。だけど、なんで寿さんが私のアドレスと名前を? 一度も教えていないはずなのに…。そう思い困惑しながら画面を見つめていると、もう一件のメールが届いた。それは同じく寿さんからで、本文には『教科書やノートはちゃんと持って帰った方がいいよ☆』と茶化すような口調で綴られていた。すると私は今しがた感じていた戸惑いや困惑を忘れたように、すぐさま『余計なお世話です』と返事をしていた。


「……」


しまった、つい返してしまった。ふと冷静になるも、時すでに遅し。メールにはしっかりと返信済みのマークがついてしまっていた。

どうか間違いであってほしい。そう願うようにもう一度差出人の名前を確認するけれど、そこにはくっきりと『寿嶺二』の三文字があった。それは本来出会うはずもなかった、けれどさっきまで私の目の前にいた、“アイドル”の名前。それを噛み締めるように頭の中で反芻させるけど、いくら考えても訳が分からない、非現実的な時間のように思えてならなかった。


「寿さん…そこまでして、ファンを増やしたいのかな…」


ついそう呟いた声は、静かな校舎によく響いて消えた。


back
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -