08



あれからしばらくの間、私は許可をもらって殺生丸さまの袖に掴まったまま小さく縮こまっていた。掴まってもいいですかって聞いた時には、すごく煩わしげな顔をされたけれど。
それでも鬼の揺れに振り落とされないよう殺生丸さまの袖をしっかり握り締めながら、そっと辺りを見回してみた。

辺りの景色は不気味な暗雲が覆い隠してしまっていて、なにも見えそうにない。おかげでいま自分がどこへ向かっているのか、どんな場所を移動しているのかなにも分からないまま。一応邪見に問いかけてはみたのだけど、「じきにつくから大人しく待っておれ」と言われるだけで結局分からないことに変わりはなかった。

…確か私たち、犬夜叉さんに会いに行くんだよね。冷静に考え直してみたけれど、用意されたこの鬼といい、私たちが乗らない牛車といい…人に会いに行くというにはおかしな準備だと思った。
きっと殺生丸さまたちは、なにか良からぬことを考えてるに違いない。そうは感じたけれど、なにをするつもりかなんて怖くて聞くこともできず、ただ大きな一歩を繰り返し踏み出す鬼の揺れに、絶えず顔を青くするばかりだった。

――そんな時、ふと前方の暗雲の切れ間に大きな月が覗いた。どうやらその辺りは晴れているようで、綺麗な満月と紺碧の夜空、そしてそれの前を走る黒塗りの牛車が見えた。遠くてはっきりとは見えなかったけれど、きっとあれは鬼に乗る前に見たあの牛車だ。

そう思った次の瞬間、突然足元の鬼が分厚い暗雲の向こう――あの牛車に向かって、恐ろしい大きな手を差し向けた。


「…っ!?」


バキバキと激しく破壊音を響かせるその光景に言葉を失う。どういうわけか、鬼は三本しかない指で暗雲の向こうの牛車を掴み、なんの躊躇いもなくそれを握り潰してしまった。
粉々になった牛車が崩れ落ちていく。そして鬼の手には、牛車に乗っていた女の人が項垂れるように捕まっていた。

理解の追いつかない光景に震えあがった私が殺生丸さまへ縋りつこうと一層身を寄せた、その時。鬼が暗雲から抜け出していき、ようやく判然とした目下の景色に小さな人影が見えた。遠くてはっきりとは分からないけれど、私より少し幼いくらいの男の子と女の子。よく見れば、男の子の方は殺生丸さまと同じ髪の色をしているようだった。


(もしかして…あの子が、“犬夜叉”…?)


確信はないけれどなんとなくそう感じた瞬間、その男の子は突然弾かれるように私たちの方へ飛び掛かってきた。その表情は怒りに満ちていて、堪らずビク、と肩を揺らしてしまう。
するとその時、邪見がすかさず振るった人頭杖から凄まじい炎を放って、男の子はそれを避けるように空中で大きく体を跳ねさせた。そうして男の子は焦げた地面の傍に着地する。それを眺めていた殺生丸さまが不意に一歩前へ足を踏み出すと、彼は男の子を見下すように見つめたまま「邪見、」と少しばかり咎めるような声を降らせた。


「殺すのは話が済んでからだ」
「へ、へへえっ」
(え…)


いま、“殺す”って言った…?
邪見へ淡々と向けられた殺生丸さまの言葉に耳を疑う。確かに人に会いに行くというにはあまりに物騒な備えだとは思っていたけれど、殺生丸さまは最初から彼を殺すつもりだったの…?
まさかそんなことだとは思いもしなかった私が真偽を窺うように殺生丸さまを見上げた時、真下の犬夜叉くんから怒号に等しい荒い声が上げられた。


「てっ、てめえっ。殺生丸か!?」
「ほお…関心に覚えていたか…この兄の顔を…」
「えっ…!?」


不敵な笑みを浮かべる殺生丸さまから飛び出した言葉に、つい声を上げるほど強く驚いてしまう。おかげでほんの一瞬殺生丸さまに煩わしげに睨まれた気がして、私は慌てて両手で口を押さえながら後ずさった。

けれどそれはあまりに衝撃的で、私は殺生丸さまのすぐ傍で彼と、その弟だという犬夜叉くんを交互に見比べていた。
兄弟、だったんだ…。確かに銀色の髪や金色の瞳が同じで、似ているように思えなくもない。けれど、犬夜叉くんの頭には犬のような耳が生えているようだった。
殺生丸さまにはない、獣の耳。どうして彼だけあんなものが生えているのか分からないけれど、顔立ちも犬夜叉くんの方がずっと幼いし…見れば見るほど、なんだか殺生丸さまとは真逆だと感じられてくる。


「ん…? 人間の女ではないか…」


私がまじまじと犬夜叉くんを見ていた時、ふとなにかに気付いたらしい殺生丸さまがどこか嘲笑うような声を降らせる。どうやら殺生丸さまが見下ろしているのは、犬夜叉くんの背中に隠れる女の子のようだった。

この世界にきて初めて見る、人間の女の子。殺生丸さまに釣られるよう私もその子を見つめてみると、なぜだか彼女の姿に懐かしさを感じるような気がしてくる。なんでだろう…なにか、近しい感覚。それを覚えた私はその子をもっとしっかり見つめるために身を乗り出そうとした――けれど、突如殺生丸さまの白いふわふわの毛が行く手を阻むように視界を遮って、そのまま私を後ろへと追いやってしまった。

気になるのに…前に出るなってことなのかな。どうしても私を留めようとするふわふわの毛にそう感じてしまっては、静かに後ずさりながら殺生丸さまの背後へ収まった。すると目の前の殺生丸さまが胡乱げな笑みを湛えて、私の前に腰を下ろしながら蔑むような声を降らせた。


「犬夜叉よ…貴様は人間とつるんでいるのが誠よく似合う」


そう言うと殺生丸さまは邪見に渡された物々しい鎖を握り締める。それは鬼に捕まるあの女の人に絡められた鎖。それを殺生丸さまが少し引き寄せると、そこに掛かる女の人の首がわずかに持ち上げられた。


「人間などという卑しき生き物を母に持つ半妖…一族の恥晒し者が…」


そう語りかけるように言う殺生丸さまは、女の人の顔を犬夜叉くんへ見せつけるように一層手を引いてみせる。
私はその姿に、言葉に、堪らず言葉を失ってしまっていた。ただほんの少し手を震わせながら、呆然と目の前の背中を見つめることしかできないでいた。

散々聞かされていたから、もう分かっているつもりだった。だけどこうして彼の口から卑下する言葉を聞き、平気でいたぶってしまう姿を見せられて、彼の人間嫌いを真に思い知らされるような感覚に陥ってしまう。

けれどそんな私とは対照的に、顔を歪めた犬夜叉くんはひどく鋭い眼光で殺生丸さまを睨みつけながら指を慣らすように大きく曲げていた。


「殺生丸、てめえ。そんなこと言うためにわざわざ来やがったのか。偉そうな口叩いてやがるが、てめえが言えた義理か? その後ろにいる女…そいつも人間だろ!」
「!」


身を乗り出してまでそう言い放った犬夜叉くんの視線、それは明らかに私に向けられていてビクッ、と体を強張らせてしまった。見つからないなんて、気付かれないなんて思ってはいなかったけれど、こうして私のことを言及されるとは思ってもみなかった。
彼の怒りが、ひどく伝わってくるようだった。

けれど殺生丸さまはなにひとつ動じる様子もなく、それどころかどこかため息交じりの呆れたような声で言い返してしまう。


「うつけ者。貴様と同じにするな。これはただの駒だ」


心底どうでもよさそうに、淡々とそう紡がれる。
それもそのはず、元々殺生丸さまが私の同行を許してくれた理由も、“少しは利用価値がありそう”ということだったのだから。だから分かっていた、そう言われてしまうことくらい。分かっていた、けれど、なぜだか少しだけ――寂しい気がした。

そんな私に気付くはずもなく、殺生丸さまはただ静かに犬夜叉くんへの言葉を続ける。


「父上の墓の在り処…貴様に聞こうと思ってな」
「親父の墓だあ? 知るか、んなもん!」
「そうか…ならば仕方ない。貴様の母が苦しむだけ…」


犬夜叉くんの反論に声色を変えることもなく、殺生丸さまは小さく邪見へ指示を出した。その瞬間、ミシミシとなにかが軋むような音が鳴らされたと同時に、女の人の呻き声のようなものが微かに聞こえてくる。
幸い殺生丸さまの背に隠れている私にはなにをしているのかなんて見えなかったけれど、それでもよくないことをしているということだけは嫌でも分かってしまい、ただ強く耳を塞いでギュッ、と体を強張らせた。

どうしてお墓の場所を聞くために、女の人の苦しげな声が聞こえるの。殺生丸さまは一体なにを考えているの。

耳を塞いだ手の向こうからほんの小さく殺生丸さまたちの声が聞こえる。なにか話しているみたいだけど、この手を離す勇気はなくて。そうしている間にも足元の鬼の腕に一層力が籠って、ほんの微かに、さっきよりも一層嫌な音が鳴らされた気がした。
ゾクリ、と背筋に悪寒が走る。堪らず強く目を瞑った次の瞬間、鬼の体が突然大きく揺れ動いた。


「きゃっ…!?」


突然のことに不意を突かれ、体がグラリと傾くのが分かる。ダメ、落ちる――直感的にそう確信した瞬間、すかさず伸ばされた殺生丸さまの手が私の腕を掴み込んだ。直後、私の身体はそのまま引き込まれると同時に殺生丸さまの脇腹へ抱え込まれ、そこに「かごめ! おふくろ連れて逃げろ!!」という犬夜叉くんの声が響いてくる。

一体なにが起こったのか。目まぐるしく変わる展開に驚きながら辺りを見れば、私たちが乗っていた鬼の手が叩き切るように落とされていて、そこに捕まっていた女の人が地上で女の子に寄り添われているのが分かる。
さっきの大きな揺れは、犬夜叉くんが鬼の手を落としたから…? そんな予想をよぎらせた時、殺生丸さまが私を抱えたまま大きく跳び上がって、


「逃がしはせぬ!!」


そう大きな声を上げた。その言葉に伴うよう、鬼の右手が女の人を叩き潰そうと勢いよく伸ばされる。するとそこへ咄嗟に守りに入った犬夜叉くんの体が鬼の手に強く叩き付けられてしまい、それを見ていた私は思わず息を飲んで目を見張った。体を強張らせた。
声を出すこともできなかったけれど、そんな私とは対照的に、あの女の人は大きく犬夜叉くんを呼んで両手を差し伸べる。その瞬間、両手から光る蓮の花のようなものを現し、散らしてみせた。


「っ!」


途端、視界を白く染めてしまうほどの強い光が放たれて、そこに吸い込まれるような風が勢いよく吹き抜ける。堪らず体を一層強張らせたけれど、私の体は殺生丸さまの腕の中。踏み止まった彼のおかげで吸い込まれることはなく、やがて平穏を取り戻した様子にそっと目を開いてみると、犬夜叉くんや一緒にいた女の子、あの女の人まで跡形もなく姿を消してしまっていた。

一体、どこに…そう唖然とする私とは裏腹に、光を遮っていた腕を下ろした殺生丸さまは、焦りのひとつも感じられないほど落ち着いた様子を見せていた。


「やれやれだ…」
「上手くいっております。殺生丸さま、全てこの邪見にお任せを…」
「つまらぬ芝居に付き合わせおって…」


え…“芝居”…? 思ってもみなかった言葉が聞こえて、つい目を丸くしてしまう。理解が追いつかない私はすぐさま殺生丸さまと邪見を交互に見てみるけれど、二人が嘘を言っている様子は感じられなくて、それが事実なんだって思い知らされてしまった。

今回の計画をなにひとつ教えてもらっていなかったから、私はてっきり本気でやっているものだと思っていた。それがお芝居だと分かるとなんだかすごく安堵するような気分になって、ほっと胸を撫で下ろしかけた、そんな時。


「これで失敗したら…殺すぞ」


不穏な笑みで呟かれる言葉に、思わずピタリと硬直する。血の気が引くような気がした。それは決して私に向けられた言葉ではなかったけれど、その小さな笑みからはとてつもない迫力を感じて。
短い悲鳴を上げながら「お、お任せあれ…」と呟いて後ずさった邪見と同じように、私はただ殺生丸さまの腕の中で縮こまるように固まってしまっていた。


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