06



ゴトン…と舟に響く音で目を覚ます。ゆっくり体を起こしてみれば、舟が頭から突っ込むようにして岸につけられているのが分かった。どうやらここで降りるみたいで、先頭に座っていた殺生丸さまが腰を上げている。

――あのあと結局、漕ぐのが遅いという理由で邪見と交代したのだけど、それが夜中ということもあって、私は知らず知らずのうちに眠ってしまっていたみたい。
それをようやく把握しながら寝起きでぼんやりする目をこすっていると、舟が少し揺れた。殺生丸さまが岸に上がられたからだ。その揺れが怖くて私は少し体を強張らせながらじっとしていたのだけど、それを見兼ねたのか、後ろにいた邪見が私を追い越すように隣をすり抜けていった。


「ほれ。ぼんやりしてないでお前も早く降りろ」
「う…うん…」


去り際に呆れたような表情を向けて言う邪見に小さく頷く。すると彼はぴょん、と跳ねるように舟を降りて、舟を一層揺らした。邪見の小さな体でも舟はしっかり揺れて、私はつい舟底に手を突くほど縮こまってしまう。
まだぼんやりしている頭でも、やっぱり怖いものは怖い。むしろ寝起きのふわふわとした感覚のせいで余計不安定に感じて、ほんの小さく体を震わせていた。

…だけど、いつまでもここで動けずにいると、それはそれで怒られてしまう。そう考えた私はこれ以上揺らさないように、恐々と立ち上がってみた。足は普段以上に覚束ない。それでもゆっくりと足を踏み出して、そんな足取りのまま、私も岸へ上がろうとした――のだけど…


「え、わ、わ…」


ぐらり、大きく後ろへ傾いてしまう体に目を丸くする。舟に残されたのは私だけで、一点に体重を注がれた舟は大きく揺れるし、そこにいるのは足取りの覚束ない私。体制を立て直す余裕もなく、呆気なくバランスを崩した私は無様にもバシャンッ、と大きな音を立てて川に落ちてしまった。


「っ…!!」


ひどく冷たい水が一気に私の体を包み込む。息ができない。体温が奪われる。その感覚に小さい頃の経験を思い出してしまっては、ゾクリと体が大きな震えを刻んだ――その時だった。
ザバ、と大きな音が私を包むと同時に、一気に空気が流れ込んでくる。咄嗟に大きく息を吸い込んではむせて、何度も咳き込みながらも薄っすらと開いた目で、私の腕を掴み上げるそれを見た。


「なにがしたい」
「せ…しょう、ま…さま…」


ごほごほと咳き込みながらなんとか絞り出した声にその人は呆れの目を向けてくる。ついでにあとから歩み寄ってきた邪見にも「どんくさいのー。水浴びなんぞしている場合ではないのだぞ」と怒られたけれど、私だって水に落ちたくて落ちたわけじゃない。むしろ落ちたくなかったくらいだもの。
そうは思うけれど、咳き込むうえに濡れた体が冷たい空気に一層ひどく冷やされて、カタカタと震えてしまう私は反論どころではなかった。おまけにくしゃみまでしてしまえば、邪見が煩わしげに顔を歪めたのが分かる。


「まったく手のかかる奴だ。仕方がない、火を焚いてやるからしばし待て」


大きなため息をこぼしながらも邪見はすぐに駆けていってくれた。なんだかんだと悪態を突きながらも、最近はずいぶん気にかけてくれるようになった気がする…
なんてことを思ってしまっていると、私の腕を掴んでいたはずの殺生丸さまの手が突然、私の腰へ巻き付くように回された。


「ひゃっ…!? せっ、殺生丸さま、なにを…」
「うるさい、大人しくしていろ」
「で…でも、こんな…」
「それ以上口答えすれば、また水の中に落とすぞ」


淡々と述べられた言葉に血の気が引くような感覚を覚えて、咄嗟にきゅっと口を結んでは、そのまま項垂れるように体を小さくさせた。邪見をあっさり沈めてしまった人だもの、逆らえば本当にまた水の中へ落とされかねない。
それだけは絶対にごめんだと思って従っていれば、殺生丸さまは私を小脇に抱えるように軽々と持ち上げてしまった。まさかの体勢に驚いて、少し苦しくて、恥ずかしくて。思わず抵抗してしまいそうになったけれど、小さな身動ぎにさえ鋭い目を向けられてしまったから、私は蛇に睨まれた蛙のように縮こまっていた。

すると木に囲まれた開けた場所で邪見が集めた枝に炎を放ってくれているのが見えて。殺生丸さまはその傍まで行くと、そこに私をぼて、と放るように落とされた。

殺生丸さま…時折こうやって助けてくださるけれど、扱いが絶妙に雑だから、優しいのかどうかまだよく分からない…。そうは思ってしまうけれど、手を貸してくださったことには素直に頭を下げて「あ、ありがとうございます…」とお礼を言った。
すると殺生丸さまはしばらく呆れたような目で私を見て、やがて静かに踵を返した。


(え…?)


そのままフワ…と跳び上がってどこかへ行ってしまう姿に目を丸くする。説明もなにもされず、取り残されてしまった。

あれ…も、もしかして私…お手を煩わせてばっかりで、愛想を尽かされたのかな…み、見捨てられた…? まさかとは思いながらもそんな考えがよぎって、少しばかり焦りながら振り返った。けれどそこには、元から付き従っている邪見の姿も残されている。
…ということは、見捨てられたわけじゃない…よね? そう思いながら邪見を見つめていれば、焚き火をいじっていた彼は私の様子に気が付いたみたいで、私とは対照的なまでに落ち着いた様子のまま「案ずるな」と言い切った。


「殺生丸さまは準備に向かわれたのだ」
「じゅ、準備…? って、なんの…」
「なんのって…ああ、そういえばお前は眠っておったな。明日の夜更け、犬夜叉のところへ行くぞ」


そう言った彼は自分が食べるためのヤモリを串に刺して焚き火に当て始める。今までに何度か見たけれどそれには中々慣れず顔を引きつらせてしまう中、私は知らない間に決められていた事柄に小さく首を捻った。

確か殺生丸さまは犬夜叉って人のことをすごく嫌っていたみたいだったけど、結局会いに行くことにしたんだ。でも…そのための準備ってなんだろう。私の世界で言う、菓子折りを持っていくようなことかな? なんて思ったけれど、あの殺生丸さまがわざわざ嫌っている相手にそんなことをするとは思えない。

じゃあなにを…そう邪見に問いかけてみようとした時、早くも戻ってきた殺生丸さまがフワリと降り立った。かと思えばこちらへ歩み寄ってきながら、真っ直ぐ私を見つめてくる。


「脱げ」
「脱っ…!?」


突然思わぬ言葉が飛び出してきたものだから思い切り目を見張ってしまった。まさか殺生丸さまがそんなことを言うなんて思ってもみなかったのだけど、それって…そういうこと…!? 私がなんでもするって言ったから…!?

ぐるぐると混乱する頭で考えても思考なんてまとまらず、一歩一歩迫ってくる殺生丸さまから後ずさりそうになる。けれど殺生丸さまはそんな私の腕を強引に掴んで止めてしまった。
思わず大きく跳ねた心臓は、殺生丸さまに聞こえてしまいそうなほどドキドキと音を立てる。注がれる視線と爆発しそうな心臓に耐え切れなくなった私は、咄嗟にぎゅうっ…と強く目を瞑った。

…けれど、向けられた殺生丸さまの声はひどく呆れたような、ため息交じりの声だった。


「これに着替えろと言っている。いつまでも濡れた着物でうろつかれるのは気に食わん」
「え、わっ」


予想から遥かに外れた言葉に目を丸くした途端、殺生丸さまは私の顔に向かってなにかをバサリと投げてきた。少し驚きながら呆然とそれを見下ろしてみれば、なにやら鮮やかで綺麗な着物がそこにあった。

脱げって…そ、そういうことだったんだ…。しばらくしてようやくその意味を理解した途端、顔から火が出そうなくらいかあっと熱が昇ってくる。抱えられる時といい、なんだか私だけ変に勘違いしてばっかりで恥ずかしい。すっごく恥ずかしい。

恥ずかしさのあまり顔も上げられなくなった私が着物に顔を押し付けるようにうずくまっていると「なにをしとるのだ…」と呆れた様子の邪見の声が聞こえてくる。けれど色々と勘違いしていたなんて言えるはずもなく、私は小さな声で「な…なんでもない…」と言い返すことで精一杯だった。








それからしばらくして、着慣れない着物に袖を通した私は焚き火の傍でちょこんと座っていた。

着物なんて滅多に着る機会がないから邪見に手伝ってもらったのだけど、さすが着物が主流の時代に生きる人…もとい、妖怪。意外ながら、すごく手際が良かった。
もちろん「こんなものも着られんのか」なんて小言を言われたけれど、それでも邪見を指名したのは私。殺生丸さまに教わるなんて恐れ多いし、なによりもあんな勘違いをしたばかりで恥ずかしくて、とてもお願いできるような状態じゃなかった。

だからどうにかこうにか邪見に教わって着てみたのだけど、それを見た彼は、


「ようやくらしくなったではないか。ふむ…お前を身代わりに使えんものか」


なんて言ってきた。身代わりの意味が分からなかったけれど、私がそれを尋ねる前に殺生丸さまが「それでは代わりにならん」と言い捨ててしまったから聞くことができなかった。なんだかよく分からないけれど、私では役不足らしい。なんとなく肩を落としそうになる私を尻目に、確かにと納得したらしい邪見は傍に置いていた人頭杖を拾い上げた。


「それでは、わたくしめは予定通り準備を進めて参りまする」
「早く行け」
「い、行ってらっしゃい…?」


いつも通り厳しい声を向ける殺生丸さまに続いて、分からないままに見送ってあげる。すると邪見はその小さな足で跳ねるように木々の向こうへ走っていった。
その手には私が着ている着物と一緒に持って来られた、豪華な着物たち。それを持ってどこへ行くんだろうと思っていたけれど、ふと張り詰めるような静寂に包まれていることに気が付いては、目をぱちくりと瞬かせた。


「……」
「……」


そういえば邪見がいなくなったということは…私、殺生丸さまと二人きりだ。それを意識した途端なんだかとても緊張してしまって、私は縮こまるように焚き火の傍で固まっていた。
邪見はいつ帰ってくるんだろう。いつまでこうしていればいいのかな。殺生丸さまと二人でいるのが嫌というわけではないけれど、まだ彼のことがよく知れていないからか、変にかしこまってしまう。なにを話せばいいのかも分からないし、そもそも話しかけることすら、いいのかどうか…


「…っくしゅ!」


考えてばかりいたら、思い切りくしゃみをしてしまった。それに続いてブルリと体に震えを走らせて、自分の体を抱きしめるように摩る。殺生丸さまのおかげで服は着替えられたけど、タオルなんかがないから、髪がまだ濡れたままだ。おかげで焚火に当たっていても中々温まらなくて、鼻をぐすぐすと鳴らした。


「まだ冷えるのか」


不意に殺生丸さまから投げかけられた声に、少しだけ驚いた。まさか殺生丸さまから私に話を振ってくれるとは思わなかったし、その言葉がなんとなく気遣うようなものだったから、ちょっと意外だって、そう思ってしまった。

小さく振り返った私は「はい…」と呟くように返事をして彼を見つめてみる。すると殺生丸さまはしばらくなにかを考えるように黙り込むと、やがてもう一度私を見て右手をトン、と地面に触れさせた。


「こっちに来い」
「えっ…」


ごく自然と、いつも通りの声色で向けられた声に目を丸くする。

わ、私もしかして…隣に来いって言われてる…? 聞き間違い、かな…。
今まで改まって傍に呼ばれることなんてなかったものだから呆気に取られてしまったのだけど、私がいつまでも固まっているからか殺生丸さまは「早くしろ」と急かしてくる。やっぱり聞き間違いでもなんでもなかったみたい。それに戸惑ってしまいながら、それでもそろそろと立ち上がった私は殺生丸さまの近くに移動した。
…けれど、微妙に距離を保ったせいか、殺生丸さまは訝しむような顔で私を見てくる。


「そこではない。もっと寄れと言っている」
「でも……い、いえっ、お邪魔します…!」


渋った瞬間細められた目に身を震わせた私は慌てて距離を詰めた。そうして呼ばれるがままに私が辿り着いたのは、殺生丸さまの右隣。
どうしてこんなことに…。意図的にこれほど近付いたことがなくて、ただでさえ緊張していた私の心臓は痛いくらいドキドキと忙しなく鼓動を響かせる。

言うなれば、借りてきた猫。そんな状態で一層縮こまっていると、なにか柔らかくて温かいものが私を包み込んだ。え、と顔を上げてみれば、それが殺生丸さまの右肩に掛かっていた白いふわふわの毛だと分かる。どうしてかそれは大きく広がって、私をすっぽりと覆ってしまっていた。


「あ、あの…殺生丸さま…これは…」
「風邪をひかれるのは面倒だ。温まるまでそこにいろ」


こちらを見ることもなく言い捨てられた、優しい言葉。それは確かに、すぐ傍にいる殺生丸さまから向けられたものだった。まさか殺生丸さまがこんなにはっきりと私を気遣ってくれるなんて思いもしなくて、いつまで経ってもおろおろと戸惑いを隠せずにいた。けれどそれが鬱陶しかったのか、殺生丸さまは少しだけ低い声を向けてくる。


「煩わしい。大人しくしろ」
「ひゃっ」


まるで意思を持っているかのようにキュ、と締め付けてくるふわふわの毛に短い声が出てしまう。くすぐったくてついつい身動ぎしそうになったけれど、それはまた怒られそうな気がして、私はその柔らかい感触に努めて大人しく身を委ねてみた。
すると、さっきまでの寒さが嘘みたいに溶けてなくなっていく。

いつも気持ちよさそうだな、なんて思って見ていたけど…これは思っていた以上に心地いい。ふわふわしていて、温かくて、優しくて…気が付けば、私はあっという間にうつらうつらと舟を漕いでしまっていた。

ここで寝てしまったら、怒られちゃうかな…そうは思うも、夢の中に片足を突っ込んでしまっている私は今さら立ち上がることもできず、そのままふわふわの毛に身を預けた。

これ…抱きしめたらもっと気持ちいいんだろうな…抱きしめたい…なんて、ぼんやりと考えながら夢現に手を伸ばそうとした途端、


「不用意に撫でたら殺すぞ」


と、こちらを見てもいない殺生丸さまが端的に告げられた。それには堪らず石化するようにピシ…と固まってしまう。
触ろうとなんてしてません。気のせいです。そう言い訳するように心の中で謝りながら、伸ばそうとした手をすすす…と引っ込めたのだった。


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