03



視界を白い真綿に覆い隠されたような感覚の中、ほのかな甘い香りを感じた。
これは…前に夢で感じた、花の香り…? 夢だというのにはっきりと覚えているそれに、辺りを見回してみる。相変わらず景色はなにも見えないけれど、風が運ぶ匂いは以前と同じだった。

あの時の夢の続きかな…そう思ったけれど、あの時見た人影が、どこにも見当たらない。それどころかなんだか胸が苦しくて、徐々に、ジワ…と胸を中心にひどい熱が広がった。
体を蝕むような、苦しい熱。それは次第に強くなって、大きく広がり始めて――


「!」


はっと、大きく目を見張った。そこに広がるのは、まばらに木が並ぶ野原。視界ははっきりとしていて、辺りを見回しても花なんて見当たらなかった。それに日も昇り切っていなくて、辺りはまだ薄暗い。そんな中、パチパチと小さな音を鳴らす焚き火だけが不規則に揺れている。


(夢…だよね…?)


辺りの景色を何度も見回しながら、それを実感する。けれど、胸に広がったあの熱――あれはどうしてかひどく現実的で、いまも少しばかり、胸に苦しさが残っているような気さえしてくるようだった。
堪らず胸を擦るけれど、特に異常は感じられない。ただ少し、鼓動が早まっているだけ。もしかしたら、昨晩体調を崩してしまったから、あんな苦しい夢を見てしまったのかも。

なんて考えては、そっと立ち上がる。寝ている間にすごく汗を掻いたみたいで気持ち悪くて、少しでも洗いたいと思った。だから邪見に言付けて水を捜しにいこうと考えたのだけれど、その邪見は焚火の向こうでだらしなく仰向けに転がっていて、鼻提灯まで膨らませているようだった。

どうやら、完全に爆睡しているみたい。そう思わされる姿についくすりと笑ってしまったけれど、思えばこの状況、彼に言付けることができないのだった。それを遅れて把握しては、すぐに辺りを見回してみる。
邪見が寝ているなら殺生丸さまに伝えておかないと。そう思ったのだけど、向こうに見つけた殺生丸さまは焚火に当たるでもなく、少し離れた場所で一人静かに目を伏せていた。

あれ…も、もしかして、殺生丸さまも寝てる…? 少し遠めに見ているからはっきりとは分からないけれど、しばらく見つめても動く様子がない。ということは、彼もまだ寝ているのかも…。
そう思うとどちらにも声を掛けるのはなんだか申し訳ない気がして、私はその場に立ち尽くすように少し考え込んでみた。


(…すぐに戻れば…大丈夫かな…?)


眠る二人を何度か交互に見つめて、そう考える。言付けるためだけに起こすのも悪いし、すぐに戻ればまだ眠ってくれているかもしれない。そう思って、私は音を立てないよう静かに足を踏み出した。

幸い日が昇り始めているから、辺りもそんなに暗くない。それに安心すると、きょろきょろと辺りに視線を巡らせながら真っ直ぐ歩き続けた。


「あ、あった…!」


視線を留めたのは、サラサラと微かな音を立てて流れる透き通った川。近くに川がなかったらどうしようかと思ったけれど、そう遠くない場所に見つけられて安心した。
ほっと安堵のため息をつく私は、すぐに川へ駆け寄って傍にしゃがみ込む。両手を水に浸けると結構冷たくて、火照った私にはちょうどいいくらいだった。

両手で掬い取った水を口に含んで、喉を潤す。冷たい水が体を通る感じがして、少し寒い気もしたけれど、心地よかった。それにはあ、と小さく息を吐いては顔を洗って、ポケットに入れていたハンカチを水に浸ける。そうして首回りや腕、簡単に拭けそうなところを擦るように拭っていった。

これだけでもずいぶんすっきりしたような気がする。まだ体はほんのり温かい気がするけれど、ふらつくこともないし、昨晩からの体調不良も落ち着いたみたい。


「よし」


頑張らなきゃ。そう心の中で唱えて、両手をぐ、と握りしめる。
本当はもう少しゆっくりしていたいけれど、遅くなって殺生丸さまたちが目を覚ましたら私を置いて行ってしまうかもしれない。それだけは絶対に避けたくて、すぐに立ち上がった私はスカートを簡単にはたき、ここまできた道を真っ直ぐに引き返し始めた。

全て同じに見える景色の中、迷わないようにと本当に真っ直ぐ歩いてきた道を辿れば、無事に覚えのある焚火が見えてくる。ゆらゆらと不規則に揺れる焚火の元まで辿り着くと、その傍に転がっている邪見がまだぐっすりと眠っているのが分かった。相変わらず大きな鼻提灯を膨らませながらいびきを掻いていて、よく見たらよだれまで垂らしている。

そんな姿にまたも小さく笑ってしまって。仕方がないから、さっき洗ってきたハンカチでそっと拭いてあげた、そんな時だった。


「一人でどこへ行っていた?」
「! 殺生丸さま…」


不意に掛けられた声にびっくりして振り返ってみれば、向こうで座っていたはずの殺生丸さまが、私のすぐ後ろに立っていた。

ま、また気配を感じなかった…本当にびっくりするから、少しくらい足音を立ててほしい…なんて、そんなことを思ってしまったけれど、それよりも気になるのは、いま投げかけられた言葉。
“どこへ行っていた”って…まるで私がここを離れていたことを知っているみたいな言葉だった。ということはもしかして、殺生丸さまはあの時から起きていたの…?

全然気が付かなかった私はただ戸惑うように目を瞬かせて、「えっと…」と口にしながら、いま通ってきた道を小さく指差してみる。


「少し水分補給なんかをしたくて、そこの川まで…」
「それは勝手にするがいい。だが、あまり貴様一人で出歩かぬことだな。人間である貴様など、容易く喰われるぞ」


素っ気なく、どこか呆れたように言い捨てられる。その言葉にゾッとしてしまった私はすぐに頭を下げて、「ご、ごめんなさい…」と謝っていた。けれど、殺生丸さまはそれに言及はすることはなくて。代わりに、「…昨夜、」と別の話を切り出された。


「貴様に聞きそびれたのだが…貴様はなぜ、風を操ることができる?」


はっきり、真正面から問いかけられた言葉にほんの小さく心臓が跳ねる。昨夜聞きそびれた、ということは、寝てしまう前に聞こえたあの言葉がきっとそれだ。それを思い出すと、私はゆっくりと殺生丸さまの瞳を見上げた。対する彼の金の瞳も、ただ真っ直ぐに私へ向けられている。
まるで、私の答えを待つように。

…分かっていた。私が風を操ることを見抜いた二人には、いつか話をしないといけないんだろうって。けれど、あまり人に話すことではないよとおばあちゃんに教えられて育ってきたから、いざ話そうとするとどう切り出せばいいのか分からない。信じてもらえるかも、分からないし…。

そう思って中々言い出す勇気が持てずにいると、殺生丸さまには私が言い渋っているように見えたのか、その顔に小さく、不穏な笑みを浮かべられた。


「どうした? この私にも言えぬことか?」
「えっ、ち、違いますっ。 私にも、はっきりとは分からないんです…! その…物心がついた頃にはできたというか…」


殺生丸さまの得も言われぬ威圧に驚いた私は、慌てて思ったままの言葉を口にしていた。すると当然、殺生丸さまは「その言葉、嘘ではないだろうな?」と疑いの目を向けてくる。
やっぱり怪しまれてる…だけど、これは本当のこと。これ以上怪しまれてしまわないように、なんとか気持ちを落ち着かせた私はしっかりと、その言葉に頷いた。


「小さい頃…何気なく風の向きを変えてみたくなって、ごっこ遊びのように、誘導するような手振りをしたことがあるんです。それが、最初でした。それからは風を吹かせたり、風を読んだり…当たり前のようにできるから…私はむしろ、これが普通なんだって、そう思っていました…」


言いながら、証明するように手を揺らしてそよ風を呼び込んでみる。殺生丸さまの銀色の髪が、白い着物が、ゆったりと小さく揺れる。
しばらくしてそれを止めると、静かに私を見つめていた殺生丸さまが小さくもはっきりと問いかけてきた。


「あの時…私の爪を妨げた風も、意図的にしたものか?」
「あれは……あれは本当に、無意識で…初めてなんです、あれだけは…」


答えながら、当時のことを思い返した。あの時…殺生丸さまに爪を振り下ろされた時、まるで盾になるように私を守ってくれた風。あんなものは今までに感じたことがなかった。もちろん、自分で出したこともない。
今まで殺されそうな状況になったことがないから、分からないのも仕方がない。けれど、それでもあの風はやっぱり特殊に感じられて。まるで、この世界にきたからできたような、そんな気さえ、したようだった。

自分の手のひらに視線を落としたまま、一人考え込む。すると同じく黙り込んでいた殺生丸さまが、腕を組むように両袖の中へ通しながら言った。


「やはりただの人間より、多少は使い道がありそうだな」


端的に向けられる言葉に、え、と顔を上げる。
そうだ、同行を許してくれた時にも言われたけれど…使い道って、どういうことなんだろう。風が操れることを確認したあとでのこれだもの、なにかに力を使わされるに違いない。そこまでは嫌でも分かってしまうのだけど、一体なにをさせられるのか想像もできなくて、殺生丸さまが身を翻す拍子に薄く浮かべた不穏な笑みに、私はついブルリと身震いをしてしまった。

この人たちについて行けば助かるかもしれないと希望を抱いていたのに、希望は所詮希望だって、そう思い知らされた気がする…。どんな無茶をさせられるのか分からなくて不安だし、殺生丸さまがなにを考えているかなんて、私には分かるはずもない。

きっとロクな目には合わない。そう感じられるはずなのに、それでも、なんだか私の胸の奥深くで、ほんのりと温かい気持ちが膨らんでいるような気がした。

それは不思議だけど、納得できる気もする。
というのも、きっと私が…私のこの力が、拒絶されなかったから。いままで誰にも信じてもらえなくて、奇異の目さえ向けられたことのある“普通じゃない”力を、受け入れてくれたように感じられたから。

それは、私の勝手な思い込みかもしれない。それでもなんだか嬉しい気がして、噛み締めるように実感すると、それがまたむず痒くて。つい、口元が小さく緩んでしまいそうだった。


「…なーにを気色の悪い顔しておる、この馬鹿者」
「わっ!? じゃ、邪見…起きてたの…!?」


寝ていると思っていた邪見から突然声を掛けられて、大袈裟なくらい跳ね上がってしまった。
た、確かに少しだらしない顔はしちゃったかもしれないけど…いくらなんでも、気色悪いはひどいと思う…。というか、起きてたなら言ってほしい。なんて思いながら、私は緩む口元をそっと手で覆い隠した。

すると邪見はじとー、と細めた目で私を見据えて、ついにはため息交じりの呆れた声を向けてくる。


「傍でそれほど喋られれば、寝られるものも寝られんわい。こちとら貴様のようなグズを連れて歩いて疲れとるのだ。睡眠くらいゆっくりとらせんか」
「ご…ごめん…」


ぐちぐちと止めどなく小言を向けられて、最早縮こまるように項垂れて謝るしかなくなってしまう。

邪見は私を毛嫌いしすぎじゃないかな…と思ってしまうのだけど、私も無理を言って同行させてもらっている身。文句なんて言えるはずもなくて、ここはもう一度謝って、潔く離れておこうと思った――のだけど、私が腰を上げるよりも先に、こちらへ近付いてきた足が邪見の頭をげしっ、と蹴り飛ばしてしまった。

え…?
え? い、いま…なにが起こったの?

あまりにも突然のことに頭が追い付かず、呆然としたまま邪見を蹴ったその人を見上げた。それは邪見へ呆れたように冷ややかな目を向ける、殺生丸さま。ううん、殺生丸さまだということはすぐに分かった。でも、どうして邪見が蹴られたのか…


「いつまで寝ている。さっさと起きろ」
「は、はひ、ただいまっ…」


え…そ、それだけ…?
起きるのが遅いと、頭を蹴られるの…?

あまりの扱いに目を瞬かせてしまったけれど、蹴られた邪見はそれほど驚いた様子もなく、すぐに起き上がっていた。その慣れた様子に、この理不尽な暴力が日常茶飯事なんだって思い知らされて、思わず少しだけ後ずさりそうになった。

相手が邪見だからなのか、そうじゃないのかは分からないけど、殺生丸さまの気に障ることだけはしないように気を付けよう…そう強く、胸に誓った瞬間だった。


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