24



暗い。なにも見えない、黒い世界。私はそこで、息を切らしながら必死に走り続けていた。
まるでなにかから逃げるように。
何度振り返ってもなにも見えないのに、なにかが私を追っているような気がして足が止められない。足音も、声も、なにも聞こえないのに。なにも見えないのに、なにかがいるような気がする。

苦しい。つらい。嫌。誰か助けて。私を自由にして。そう願うようにしながら必死の思いで走り続けていた時、不意に、胸にズキッ、と強い痛みが走った。まるで心臓を握り締められたような、形容しがたい痛み。それに足を取られるよう崩れ落ちて膝を突いてしまうと、同時にジャラ、という物々しい音が響いた。

浅い呼吸を繰り返しながら見下ろしたのは、一本の鎖。それはどうしてか私の胸から伸びていて、私の後ろ、黒に塗り潰される暗闇の奥に続いていた。

こんなもの、なかったはずなのに。どうして。なに、これは。戸惑うままに胸から伸びるそれに触れれば、ずっと後ろの方でジャラ…と鎖が動く音が聞こえてくる。

たまらず振り返ったそこはやっぱり暗闇のまま。だけれど、その向こうから。ゆっくりと、白い影が輪郭を浮かび上がらせてくる。それが形を成していくに伴って、ジャラ…ジャラ…と鎖が鳴る。
息が苦しくなる。震えが大きくなる。瞳を揺らすまま、徐々に近付いてくるその影を見つめていた。

すると、やがてそこに浮かび上がったのは、あの男の人だった。

――“奈落”。瞬時に脳裏へ名前が甦ると、締め上げられたように喉がきつく閉まる。見ていたくなんてないのに、目を離せないその姿。その手に、鈍く黒光りする一本の鎖が握られていた。それは間違いなく、私の胸へと続く鎖。

それを絶えず鳴らしながら、いつしかその姿は、私の目の前へと迫っていた。右手にまとめられた鎖の塊が、静かに持ち上げられる。ひどく浅い呼吸が一層乱れる。大きく揺れる瞳で見つめるそれは、無骨な手にじっくりと包み込まれていく。まるで見せつけるように、握られていく――


「風羽」


不意に呼ばれる自分の名前に、はっ、と大きく目を開いた。そこは暗闇なんかじゃない。見えたのは、古い木製の天井。朽ちて抜けてしまったのか、穴を開けたそこには清々しいほどの青空が小さく覗いている。

なにが、起こったの。なにも分からないまま静かに視線を滑らせれば、すぐ傍に、こちらを見つめる男の人の姿があった。けれどそれは、あの人ではない。


「せ…しょ…ま、る…さま…」
「どうした。ひどくうなされていたが、良からぬ夢でも見ていたのか」
「ゆ、め…」


私を見下ろすまま告げる殺生丸さまの言葉に、小さな声が口を突いて出る。脱力するように視線を落としながら思い返すのは、つい先ほどまでの光景。
つらく苦しい、二度と味わいたくはないできごと。あれは夢だったの…? 夢と言うには妙にリアルで、苦しさの余韻さえ残っていると感じてしまうほど不気味だったのだけれど…でも…“あの人”はここにはいないし、辺りは暗闇じゃない。あの呪縛のような鎖だって、見当たらない。

ということは…殺生丸さまの言う通り、ただの夢…だったのかな…。

現実味はない、けれど夢とも断言できないような違和感を抱きながら小さく手を握り締める。すると不意に、天井に開いた穴の傍にチチチチ…と鳴きながら飛んでくる二羽の雀が止まった。それに釣られるように天井へ視線を移せば、雀たちはちょんちょんと歩いてすぐに飛んでいってしまう。

その姿を見届けていた私は、ようやく落ち着きを取り戻したように我に返って、隣に佇む殺生丸さまへ顔を向け直した。


「あの、殺生丸さま…ここは、どこですか…? どうしてこんなところに…」
「近くに見つけたあばら家だ。お前が気を失って、ここで目覚めるのを待っていた」


そう紡がれる言葉に、は…と少し目を丸くする。そうだ…私あの時、気を失ったんだ…。そう思い出すことはできても、どうして気を失うことになったのかが分からない。確かあの人に接近されて、感情が昂るようにすごく苦しくなったような気はするのだけれど…

それを思い返すように考えていると、その様子が表情に出てしまっていたのか、私を見ていた殺生丸さまが言い聞かせるように話してくれた。


「あの時、お前の中の妖気が溢れ出すのを感じた。だが…その様子だとお前の意思ではなかったようだな」
「は…はい…私はただ、感情の制御が効かないような感覚で、いっぱいいっぱいでした……その、妖気が溢れ出したことと気を失ったことは、関係があるんでしょうか…?」


なにも分からないまま戸惑う私とは違って、全てを知っているかのように話してしまう殺生丸さまに縋るよう問いかける。すると殺生丸さまは私の質問に迷いなく「それは恐らく、お前が人間だからだ」と言い切った。


「お前は人間でありながら妖気を持っているが、本来人間は妖気を持たぬもの。妖気がお前の意思に反して制御できぬほど暴走したことに体が耐えられず気を失ったのだろう」


トン、と鋭い爪の先を私の胸の中央に当てて語られる言葉。それは初めてのことばかりですぐに理解することも飲み込むこともできなかったけれど、なんだか殺生丸さまの言葉は不思議と納得することができて、静かにそれを受け入れていた。

でも…殺生丸さまのお話だと、まるで私の中の妖気は別の誰かのもののように思えてしまう気がする。私の体は人間そのものだけれど、そこにはあるはずのない妖気が宿っているというのだから。この妖気が私のものなら、普通は体も妖気に適応したものであるはず…

じゃあもし仮に、妖気が誰か別の人のものだとしたら――
この妖気は、一体だれの…?

そう考えた時、不意に、“あの人”の姿が脳裏に甦った。殺生丸さまは私の中の匂いがあの人と同じだと言っていたし、あの人も、私の妖気を妙だと言って気にしていた…

まさか、私の中の妖気は…あの人のもの、ということ…?

考えたくないことほど勝手に、それも強引に結びつくように“可能性”を形作ってしまう。考えたくないのに、それ以外の可能性が掻き消されるように浮かばなくなってしまう。
まるでこれが正解だと、押し付けられるように。

それを思っては鼓動が早まっていくような感覚を抱いて。静かに握りしめた手が、徐々に震えを刻み始めていく。あの人の姿が、脳裏に焼き付いたように離れない。そのせいか、瞳まで揺らぎ始めて、胸の奥の感情が――妖気が、小波を立てるようにざわついていく。

――するとその時、殺生丸さまの手が、まるで震えを抑え込むように私の手を握ってきた。


「あの男のことを考えたか…奴はここにはおらん。無駄に考えるのはよせ」
「…あ……ご、ごめんなさい…」


手を握り締められる感触と殺生丸さまの咎めるような声。それで我に返った私は、小さく謝罪するとまた視線を落とした。

だめ…考えたくないはずなのに、一度思い出してしまうと苛立ちのような不可解な感情が膨らんで、深みにはまってしまう。逃げたいのに、逃げられない。そんな感覚があって、余計に塞ぎ込んでしまいそうになる。

自分でも分からない、制御できないこの現象に小さく眉をひそめていると、殺生丸さまが私を見つめるまま問いかけてきた。


「あの男のことになるとひどく取り乱すようだが…本当に心当たりはないのか」
「…はい…私も、何度も考えたんですけれど…全然…」


視線を床の繋ぎ目に投げるまま、ぽつりぽつりと呟くように言葉を紡ぐ。殺生丸さまはそんな私を変わらず見つめていて、「そうか」とだけ短く返してくれた。

――すると不意に、殺生丸さまの手が、指先が私の手のひらをなぞるように滑らされる。その微かな感触がくすぐったくて、つい驚いてしまった私はびく、と肩を揺らしてしまった。けれど殺生丸さまは構わず、なにかを確かめるように私の手を緩く握るようにしながら撫でる。

かと思えば、その手がふと離れていった。
な、なんだったんだろう、いまの…。そう思ってしまいながら殺生丸さまの表情を窺おうと視線を上げた時、その視界に、離れていったはずの彼の手が映った。どうしてかそれは彼の元へ戻るのではなくて、私の顔へと近付けられている。そのことに気が付いたと同時、その手は私の前髪をかき上げるようにして額に触れてきた。

途端に、ひんやりとした感触が額全体を覆ってしまう。それがなんだか気持ちよかったのだけれど、そこは普段、人に触れられることのない場所。そんなところをぴたりと覆うように触られていることがなんだか恥ずかしくて、私は戸惑うままに泳ぎそうになる瞳で今度こそ殺生丸さまのお顔を見上げた。


「あ、あの…殺生丸さま…? これは…」
「手が熱いと思えば…熱があったのか」
「え…」


ぽつり、と呟くように落とされた言葉に少し目を丸くする。全然実感がなかったから、まさかそんな…という思いだったのだけれど、念のため、自分でも首を触って体温を確かめてみた。
彼曰く、手も熱いみたいだからそれほどはっきりとは分からない。けれど、それでも確かに少し暖かいような気がした。

思えばこのところ、あの人と出会ったり犬夜叉くんたちが殺されそうになるところに立て続けに居合わせていて、ずっと緊張しっぱなしだったような気がする。そこに妖気の暴走が加わって、体に負担が掛かって…そうして、ようやく落ち着ける状況になったから、ずっと続いていた緊張が一気にほどけたのかも。そのせいで、熱が出てしまったのかも。

そう考えると合点がいくような気がして、少し火照っているような頬に触れる。すると手を下げられた殺生丸さまが私を見下ろすまま、ほんの小さなため息をこぼされた。


「治るまで安静にしていろ。食いものは邪見に用意させる」


呆れたように告げられる言葉に少し驚いてしまう。まさか私の体調不良に足を止めていてくださるとは思わなかったから。以前より気にかけてくださるようにはなったけれど、それでも、少しずつでも旅を続けるかと思っていたから。

だからこそ、なんだか申し訳なくなってしまって、慌てた私はすぐに否定するよう「い、いえ、」と声を上げた。


「大丈夫です。わたし、歩けます。だから、これ以上足止めしてしまうのは…」
「言うことを聞け。無理をしてまた倒れられる方が面倒だ」


体を起こそうとした途端、どこか厳しさを孕んだ声ではっきりと言われてたじろいでしまう。殺生丸さまの言うことも確かに一理あって、これ以上食い下がることはできないと思った私は、小さく「ご、ごめんなさい…」と謝りながら、起こしかけた体を大人しく横たわらせた。

――するとそんな時、覚えのある小さな足音が近付いてくる気がして。それに気が付いたと同時、出入り口の方から「んん?」という声が聞こえてきた。


「ようやく目覚めたか風羽! まったく、四日も眠りこけるなどどういった神経をしておるのだお前は!」
「え゙…よっ、四日…!?」


ようやく邪見の姿を見られたと思うと同時に、聞こえてきた信じがたい言葉に目を丸くしてしまう。思わず確かめるように殺生丸さまの方へ視線を移したけれど、横目に私を見た彼は否定しなくて。むしろ肯定しているようにさえ見えるその目にさあー…と顔を青くした私は、弾かれるよう咄嗟に体を飛び起こした。


「や、やっぱり私、頑張ります…! 頑張って歩きます…!!」


必死になってそう言いながら立ち上がろうとした途端、殺生丸さまが静かに立ち上がる。それに気を取られるように彼の姿を目で追うと、私に背を向けた殺生丸さまは出入り口の方へ向かっていく。すると突然、「余計なことを言うな」という言葉とともに邪見の顔に殺生丸さまの足がめり込んでしまった。

それに驚いて硬直してしまっていると、邪見から足を離した殺生丸さまが「風羽」と私を呼びながらこちらへと振り返ってくる。


「いま私に眠らされるか自ら眠る、どちらがいいか選ばせてやる」


唐突に投げかけられる、選択肢。別に爪を構えているとかそんなことはなにひとつないのに、それを口にする殺生丸さまの目がなんだかとても恐ろしい気がして。


「じ、じぶんの力で、眠らせていただきます…」


震え上がった私は硬直するまま弱々しく呟いて、そっとお布団に包まるしかなかったのだった。


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