22



「殺生丸! 今度は腕…左腕をぶち抜くわよ!」


そう声を上げる女の子が殺生丸さまへ強く引き絞った弓矢を向ける。

彼女…いま間違いなく“左腕”って言ってた。それは殺生丸さまのものじゃない、奈落という人から渡された人間の腕。
もしかしてかごめちゃんはそれに気が付いているの…? そう予感をよぎらせた途端、彼女の口から「見える! 四魂のかけら!!」という声が上がった。その言葉に、私は思わず目を丸くする。

なぜならそれは、あの腕の中に仕込まれているものの名前。腕の繋ぎ目は着物に隠されているし、それ以前に腕の中に仕込まれているというのだから、普通は見えないはずのものだった。だというのに、彼女にははっきり見えているという。

私がそんな信じがたい状況に驚いている間にも、かごめちゃんは殺生丸さまへ向かって容赦なく矢を放ってしまう。それにドキ、と心臓を跳ねさせるけれど、殺生丸さまは音も立てないほど軽々と体を傾けるようにそれをかわしてみせた。


「こ、今度こそ…」
「駄目だかごめ! 逃げろ…」


諦めずにもう一度矢を構え直そうとする女の子へ犬夜叉くんの声が響く。だけど次の瞬間、殺生丸さまが彼女の目の前に迫っていた。音もなく、冷酷に。その姿に私が目を見張るのが早いか、「死ね」と呟くように言った殺生丸さまが右手の毒爪を彼女へ突き込もうとする。

咄嗟に、息を詰まらせた。声を出すこともできなくて、体を強張らせるままに口元を押さえていた。
けれどそんな私の脳裏によぎった最悪の結末は、


「てめえの相手はおれだー!」


突如そう叫んだ犬夜叉くんによって阻止される。彼が瞬く間もないほど素早く殺生丸さまに迫っていて、勢いよく爪を振り下ろしたのだ。
殺生丸さまは間一髪かわしたように見えたけれど、その直後、ビッ、と殺生丸さまの右頬に一筋の傷が走る。


「殺生丸さまっ」


咄嗟に声を上げてしまう。けれどそんな私の心配とは裏腹に、殺生丸さまは変わらず余裕を示す笑みを浮かべていて動じてもいない様子。
その姿に大丈夫、なのかな…と思ってしまいながら見守っていた――その時、背後から突然「風羽っ」と焦りを感じさせるような邪見の声が投げかけられた。それに小さな声を漏らしかけた時、振り返ろうとした私の手首にグ、と握られるような力が加えられる。

たまらず後ずさりそうになった私が目にしたのは、無数の汗を滲ませる弥勒さんの姿だった。


「人間であろうあなたが、なぜ妖怪とともにいるのか事情は分かりませんが…見たところ、あなたとなら少しは話ができそうだ。…聞かせてもらいましょうか、あの毒虫の巣について…」


そう話す弥勒さんは一方の手で邪見の胸ぐらを掴むまま、逃がさないとでも言うように私の手首を掴む手に一層の力を込める。
殺生丸さまたちばかりに気を取られていて、弥勒さんが近付いていることに気が付かなかった。それを悔やむように、怯えるように足を下げてしまう。けれど掴まれた手が私をそこに留めて逃れられない。

それに小さく震えを刻んでしまった時、大きくもがいた邪見が弥勒さんの手を掴みながら「おい貴様っ」と声を上げた。


「それはあの場に居合わせなんだから事情を知らん! 聞きたければわしにせいっ」


かばってくれているのか、邪見がそんな嘘を並べて弥勒さんを睨む。すると弥勒さんはしばらく邪見を見つめたあと、横目で一度私を見やってから静かに解放してくれた。
そしてその目は、再び手元に拘束される邪見へ迫らされる。


「さあ吐きな。毒虫の巣…誰にもらった?」
「何者かは知らぬわ。狒狒の皮を被って顔を隠しておったし…奈落…という名しか…」


邪見がそう答えると、突然弥勒さんの表情が強張った。その剣幕はあまりに深刻そうで、見ているこちらが戸惑ってしまいそうなほど。一体なにかと思えば、弥勒さんの後ろに立つ小さな男の子が言った。


「弥勒が追っている奴じゃな」
「え…」
「そいつはどこにっ!」


弥勒さんが追っている…? その言葉につい小さな声を漏らすと同時に、弥勒さんが血相を変えて邪見を揺するように強く迫った。けれど邪見は「ふっ」と小さく漏らし、そこに胡乱げな笑みを浮かべてみせる。


「知らぬ。それに知ったところで無駄であろう。どうせ貴様は虫の毒をたっぷり吸い込んで、まもなく死ぬのだ」


邪見の慈悲のない言葉に男の子から「あ…」と小さな声がこぼれる。その目が向けられた弥勒さんは眉をひそめて、わずかにその顔を俯かせた。
今の今まで気を張っていたのかもしれない。そう悟ってしまうほど、弥勒さんはその顔に苦痛を滲ませていた。


「苦しいのか弥勒!」
「…悔しいが…私はこれでも…か弱い人間ですからね」


汗を伝わせながら、弥勒さんが弱々しく呟くように言う。それを耳にした邪見は眉間に微かなしわを寄せて、小馬鹿にするような様子で弥勒さんを見やった。


「ふん、ざまあみろ」
「じゃ、邪見っ…」


吐き捨てるように、蔑むように言ってしまう邪見につい咎めるような声色で名前を呼んでしまう。けれど弥勒さんは弱った表情に薄っすらと笑みを浮かべて、無言で邪見を見た――直後、本当に弱っているのかと疑ってしまうほど容赦のない拳が、何度も何度も邪見の頭を殴りつけてしまった。

それはあまりにもあっという間の出来事で、私が呆気に取られている間にもボコボコにされてしまった邪見は「や…八つ当たりじゃ…」なんて声を漏らすほど無残な姿になって伸びきっていた。

まさかこんなにしたたかにやられるなんて思ってもみなかったけれど…いまのは邪見が悪い気もするし、あっという間のことだったから止めるに止められなかった…。とはいえ、ぴくぴくと痙攣する姿があまりにも可哀想で、持っていたハンカチで鼻血を拭いてあげることにした。
同時にそれとなく、横目で弥勒さんの様子を窺ってみる。

邪見をこんな風にした彼は、小さな男の子に寄り添われながら無骨な岩肌に体を横たわらせていた。もしかしたら、かなり毒が回り始めたのかもしれない。そう思えるほど彼の表情は苦しげで、青ざめるその顔にはいくつもの脂汗が滲んでいた。

…どうしよう…このままだときっと弥勒さんが危ない…だけど手元に薬なんてないし、どうすれば…
そう思った時、こちらへ駆けてくる慌ただしい足音に気が付いた。


「七宝ちゃん、無事だった!? えっ…あなた…」
「かごめ、弥勒が…」
「!」


私の姿に気が付いた彼女が驚いた様子でこちらを見たけれど、七宝ちゃんと呼ばれた男の子の声に引かれて弥勒さんへと視線が移された。そして弱った弥勒さんを見た彼女は「ど、どうしよう」と呟いて、背負ってきた大きなリュックから救急箱を取り出し始める。

リュックに、救急箱。この時代にあるはずがないものの数々に私が言葉を失っている間にも、かごめちゃんたちはおろおろと弥勒さんの応急処置をしようとする。

なにか…手伝ってあげた方がいいかな。そう思ったけれど、私が足を踏み出すよりも先に邪見が小さな声で私を呼びつけた。


「今のうちだ風羽…わしを抱えてここを離れろ」
「え…で、でも…」
「早くしろ。気付かれる前にっ」


声を潜めながらも厳しく言うその声に唇を結んで、私は言われた通り邪見を抱え込んだ。そのまま弥勒さんたちの元を離れるように駆け出せば、背後から「あ…」と短い声が上がったのが分かる。けれど邪見に言われたこともあって止まるわけにはいかず、私たちはある程度離れた場所で岩陰に逃げ込むように身を潜めた。

そこに邪見を下ろしてあげれば、彼はチラ、とかごめちゃんたちの方を窺ってその場に深く座り込む。


「よし…法師があの様子ならば、わざわざ追ってくることもあるまい…」
「う、うん…」


はあー、と大きなため息をこぼして言う邪見に俯きがちに返事をする。
本当はあの子とお話がしたかったのだけれど、状況が状況ということもあってやっぱり難しい…。中々思うようにいかない歯痒さに眉を下げながら、膝の上できゅ…と手を握る。

そんな時、何度も地面を破壊するような激しい音が響いてきて、釣られるように顔を上げた。そうして岩陰から顔を覗かせてみれば、見えたのは犬夜叉くんが殺生丸さまに爪を差し向ける姿。けれどそれは殺生丸さまに掠ることもなくて、むしろ、殺生丸さまが振るった毒華爪に体を斬り付けられていた。

殺生丸さま…どんどん犬夜叉くんを追い込んでる…。そう感じてしまいながら避けがたい恐怖に胸をざわつかせた――その瞬間、突然殺生丸さまの鎧がバコ、と鈍い音を立てて砕け散った。


「!」


殺生丸さまと犬夜叉くん、そして私と邪見が予期しなかった出来事に大きく目を見張る。本当に一瞬のことで見落としかけたけれど、殺生丸さまの鎧を砕いたのは、鉄砕牙の変化を解いたのと同じ一本の矢だった。
それに狙撃手を悟って振り返れば、岩陰から次の矢を構えるかごめちゃんの姿が見える。


(あの子の矢…きっと普通のものじゃないんだ)


もしかしたら、私みたいに不思議な力があるのかもしれない。二度も目にした強さにそれを感じては、キュ…と唇を結ぶ。
さっき彼女が近くにきた時、弓矢だけでも壊しておくべきだった。そんな後悔のような思いを抱えながら、今からでも、と風を操ろうと手を持ち上げる。けれど、私がそれをかごめちゃんの手元へ向けようとしたその時、「くらえ!」という犬夜叉くんの声と鈍い音が響いた。はっとしてそちらに振り返れば、犬夜叉くんが殺生丸さまの鎧が壊れた腹部に拳を叩き込んだのが分かる。


「殺生丸さま!」


たまらず彼の名前を叫ぶ。けれど、その殺生丸さまは血を滲ませる口の端を確かに吊り上げていた。


「面倒だ! 女諸共…」


そう吐き捨てるように声を上げた殺生丸さまが突如犬夜叉くんの首を毒の爪で強く掴み込んでしまう。直後、殺生丸さまは彼の体をいとも簡単に勢いよく投げ飛ばしてしまった。
それも、かごめちゃんがいる場所へ向けて――

それに気が付いた私が息を詰まらせると同時、投げられた犬夜叉くんは凄まじい勢いでかごめちゃんに強くぶつけられた。そして二人の体が地表を激しく滑っていく様を、私は呼吸もできないまま見つめていることしかできなかった。

はっ、と、短く息が漏れる。それを皮切りに浅い呼吸を繰り返して、苦しさからか、それともなにか…私は小刻みに体を震わせながら目尻に薄く熱を帯びていた。
そして誘われるように、吸い込まれるように振り返った先で、殺生丸さまが鉄砕牙を体の前へ掲げる姿を見る。


「ここまでだ…」


冷酷にそう告げる彼は、かごめちゃんに手を添える犬夜叉くんを見据えていた。
気を失ったのか、あるいは…――深く目を閉ざしたかごめちゃんから顔を上げた彼は、殺生丸さまを冷たく、鋭く睨視していた。それでも殺生丸さまは顔色ひとつ変えないまま、静かにその足を犬夜叉くんの方へと踏み出す。

その姿が、視界が、歪む。いつしか私の体は小刻みに震えを刻んでいて、短い間隔で呼吸を繰り返すまま、なにもできなくなったようにその場を動けずにいた。

そんな私の姿に気が付いたのか、邪見が眉をひそめながら様子を窺うようにこちらを見上げてくる。


「どうした風羽。お前、顔色が悪いぞ」
「……ごめ…ごめん、なさい……私…まだ…」


まだ、覚悟が足りない。
嫌というほど痛感するその事実に、ボロ、と涙がこぼれ落ちる。

恐くて、こわくて、たまらなかった。向こうで交わされている言葉を聞く余裕もないくらい、震えあがってしまっていた。けれど不意に、風が唸るような震えをこちらへ伝えてくる。それを察知した直後、彼らの方からゴオッ、と大地が破壊されるような轟音が響いてきた。
それに大きく肩を揺らして、体を強張らせる。けれどそのあとは嫌に静かで、私は小さく揺らぐ瞳を恐る恐るそちらへ振り返らせていた。

すると見えたのは、犬夜叉くんが殺生丸さまの左手を抱き込むように抑える姿。きっとさっきの衝撃は殺生丸さまが鉄砕牙を振るおうとしたものだ。そしてそれを、犬夜叉くんが間一髪防いでいる。
それが分かる姿に声を発することもできないまま、ただ鼓動を響かせる胸に押し当てた手を握り締めていた。


「な…なにやってる…走れーーっ!」


突然荒げられる犬夜叉くんの決死の声。それは意識のないかごめちゃんを抱える弥勒さんと七宝くんに向けられたもののようで、彼らは「わ…分かった」と狼狽えるように声を返しながらその足を進め始めた。

もしかして…犬夜叉くんはみんなを逃がそうと…?
私が遅れて状況を悟ったその時、抑え込まれる殺生丸さまが空いた右手に模様を走らせてその指をバキ…と鳴らした。


「バカが…敵に背中を晒すとは!」
「!」
「っ!」


咄嗟に目を瞑って顔を逸らすのと同時に、ドス、という鈍くも凄まじい音が確かに響かされたのを聞く。

いや、いや…だめ…目を、向けられない。目を逸らすなんてしていちゃ駄目なのに…覚悟を決めなきゃ、だめなのに…
私にはまだ、耐えられない。


「泣かせるな…仲間を救うために時を稼いだつもりか…」
「なんだよ殺生丸おめえ…気付いてねえのか」
「! 貴様…」


犬夜叉くんの言葉に殺生丸さまがなにかを悟ったように声色を険しくした次の瞬間――バキバキと骨を折り千切るような嫌な音が響き渡った。咄嗟に持ち上げて見張った目に、鮮血の飛沫が映る。糸を引くように赤を伸ばした犬夜叉くんは殺生丸さまから距離をとって、鉄砕牙の柄に残る左手をぐように取り払ってみせた。


「おれの鉄砕牙(かたな)…返してもらったぜ!」


まるで怒鳴るような強い声でそう宣言する犬夜叉くんの姿。それに目を丸くして立ち尽くしていると、同じように顔を覗かせた邪見が愕然とした様子を見せた。


「い、いかん! 左手を取られては…殺生丸さまは鉄砕牙に触れることができん!」
「あ…」


邪見の言葉で思い出す。そういえば鉄砕牙は妖怪には使えない刀…殺生丸さま自身の手では握ることさえ拒まれてしまうものだ。それを騙すための借りものの腕がなくなってしまっては、もう鉄砕牙を手にする手段がない。

殺生丸さまは…どうするんだろう…。不安を抱えるように彼を見つめた時、その眼前で突然犬夜叉くんの体がガク、と崩れ落ちた。すると彼は片膝を突いて、両手で握る鉄砕牙を構えた体勢のまま、動かなくなってしまう。
鉄砕牙に隠れる顔は深く俯けられていて、表情が窺えない。私がそれに眉をひそめると同時、邪見がそそくさと犬夜叉くんの方へ駆けていった。


「殺生丸さま、犬夜叉の奴め気を失って…」
「それ以上前に出るな」
「は?」


邪見の声を遮るように降らされた忠告。それに邪見が足を踏み出しながら振り返ったその時――犬夜叉くんが鉄砕牙を強く握りしめるのに伴って、邪見へ激しい衝撃波が襲い掛かった。


「で!」
「じゃっ邪見っ!」


跳び上がる邪見の姿に肝を冷やした私は慌てて彼の元へ駆け寄った。けれどあっという間に静けさが戻ったそこで邪見はひっくり返っていて、なんとか間一髪というところで攻撃を免れたのが分かる。


「な゙っ…な゙ん゙で…刀を振ってもいないのに…」


裾を刻まれた足を震わせながら、邪見が同じように震えた声を漏らす。
邪見の言う通り…思い返せば、さっき犬夜叉くんは鉄砕牙を強く握っただけで、振る素振りなんてしていなかった。それどころか、その手以外に動きなんてひとつもなかったはず。
それなのに、どうしてあんな衝撃波が走ったんだろう…。不可解な現象を前に私が眉をひそめながら小さく後ずさってしまう中、殺生丸さまはなにかを考えているかのように黙り込んだまま犬夜叉くんを見据えていた。

――けれど、それは突然終わりを告げてクル、と踵を返される。


「帰るぞ邪見、風羽。鉄砕牙を我が手にできぬ以上長居は無用だ」
「あっ、そうですか。そうですねっ」


ホッ、とため息を漏らしてしまう邪見がどこか嬉しそうにその背を追う。「ほれ、行くぞ風羽」という言葉を私に向けて。私はそれに躊躇いながらも小さく頷いて、チラ…とかごめちゃんの方を見た。

彼女はいまにも泣き出しそうなほど気を張った表情で、真っ直ぐ犬夜叉くんを見ていた。けれど、一瞬だけ、目が合う。それに私は小さく唇を結んで、殺生丸さまが大きく広げる白い毛に乗せられて地面を離れた。

お話なんて、できるはずがない。自分にそう言い聞かせるように胸のうちで呟いたあと、遠ざかる彼女から犬夜叉くんの名前を叫ぶ声が響いた。

それに胸が締め付けられるような言い表しがたい思いを抱いてしまった私は、朝日に照らされて輝く白い毛並みを静かに見つめていた。


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