20



あれから私たちは、いつかの日と同じように邪見が連れてきた大きな鬼に乗って海を渡っていた。どうして海を渡るのかと聞いてみたら、犬夜叉くんたちがいる場所への最短ルートみたい。

本当は鬼に乗ることも、それで海を渡ることも怖くて嫌だったけれど、ついさっき殺生丸さまに口答えをして厳しく言われたばかりだったから、今度は鬼に乗りたくないなんてわがままを言えるはずもなくて。大人しく覚悟を決めた私は、今回も殺生丸さまの袖を握らせてもらいながら鬼が歩く大きな揺れにじっと耐えていた。

――そんな中で、嫌でも思い出してしまうのはあの男の人のこと。知るはずもないのに、苛立ちのような不可解な感情を抱いたこと。そして殺生丸さまに言われた、“あの人から私と同じ匂いがした”ということ…
連鎖するように次々と甦ってくるあの時の記憶が、私の頭の中を否応なく支配して仕方がなかった。

どうして私は、あの人にあんな感情を抱いたんだろう。会ったことはないって断言できるし、向こうも、私を知っている様子ではなかった。目が合ったけれど、特に反応もなくてすぐに逸らされたくらい。本当に、知らない様子。

なのにどうして、私はあの人を知っているような感じがするんだろう。
それに殺生丸さまが言っていたこと…あの人と同じ匂いが、私に混ざっているという話。それだって不可解だ。私があの人とずっと一緒にいたというなら分かるけれど、何度も言うように、あの人とは初対面で触れたこともない。私が生きていた時代が違うのだから、シャンプーの匂いだとか、そういうものが同じということもない。

それなのに、無意識に彼へ抱いてしまう感情があって、同じ匂いがするなんて…


(私とあの人は…なにか関係があるの…?)


考えずにはいられない、その可能性。だって、本当に関係がないのなら、こんなにもあの人のことを気に留めるはずがないもの。
そうは思うけれど…やっぱり私が分かる限りでは思い当たることなんてなにもなくて、ただより一層深まる不可解さに俯きながら眉根を寄せてしまっていた。

そんな時――ふと、邪見の言葉が脳裏をよぎった。


「いずれお前の先祖もすぐに見つかるのではないか?」


あの人と会う前、殺生丸さまが腕を試す場所へ向かっていた時に向けられた、その言葉。それは私が臆病で、ご先祖さまも同じような人間だろうから分かりやすいに違いない、という話で上がった言葉だった。けれどどうしてか、それがひとつの可能性として浮上するように、強くはっきりと、脳裏に甦ってしまった。


(あの人が…私のご先祖さまかも知れない…?)


確かめるように、胸中で静かに呟く。もしそれが本当だったとすれば、確かに会ったことがなくても知っているような感覚を抱くかもしれない。同じような匂いだってするかもしれない。
だけど…もしそうだとしても、その人に抱く感情が苛立ちだとか不安だとか、そういう嫌なものだけなんてこと、あるのかな…


「風羽」


不意に、名前を呼ばれる。それに引き戻されるよう、は…と顔を上げてみると、こちらへ顔を向ける殺生丸さまの涼やかな視線が私に注がれていた。


「ずいぶん強く握っていると思えば…また考えていたのか、あの男のことを」


私の表情から読み取ったのか、殺生丸さまは少し怪訝そうな顔をしてそう言う。その言葉で初めて自分の手に力が籠もっていたことを知った私は思わず「あ…」と小さく声を漏らして、しわを刻む殺生丸さまの袖をそっと放した。


「ご、ごめんなさい…どうしても分からないことばかりで、つい…考えてしまって…」


袖を整えるように撫でながら俯きがちに謝罪する。殺生丸さまはそんな私を無言のまま静かに見下ろされていて。まるで私の顔を上げさせるように、もう一度「風羽」と呼び掛けてきた。


「ことが終われば話を聞いてやる。いまは目の前のことに集中していろ」


淡々と、抑揚の少ない声で告げられる言葉。それが少し、意外だった。殺生丸さまならいい加減思考を切り替えろとか、そういう言葉で切り捨ててしまうと思っていたから。話を聞いてもらえるなんて思わなかったから。だから少し、驚いてしまった。

けれどいくら見つめても、殺生丸さまは言葉を覆す様子を見せない。ということは、本当にお話を聞いてくれるのかな。
彼なりの優しさ、と思ってしまっても…いいのかな。

そんなことをこっそり胸のうちに抱えながら、小さく頷いて「はい」と返す。すると殺生丸さまは静かに前へ向き直って、潮風に銀の髪を揺らしていた。


「……」


その横顔を、見つめてしまう。表情や様子は普段と変わらないはずなのに、なのにどうしてか、少しだけその横顔が普段とは違って見えるような気がした。
なにがどう違うのかなんて言い表せられないけれど、なにかが違って見える。それと同時に感じた、私の胸の奥にじんわりと広がる温かさが、そうさせているのかな。

そんな思いにぼうっとしてしまう。するとその時、不意に殺生丸さまから「あそこだ」という声が落とされた。それにはっとして振り返ると、殺生丸さまの視線の先に港町のような小さな村が見える。どうやら犬夜叉くんはあの村にいるみたい。

それが分かると鬼はその港に足を踏み入れて、その拍子に傍らの多重塔を無慈悲にも押し潰してしまった。その衝撃音と大きな揺れに私がビク、と縮こまると同時、村の一番奥――大きなお屋敷から、犬夜叉くんたちが慌てた様子で飛び出してきた。
そこにはあの女の子の姿もあって、他にも見たことのない法師のような恰好をした男の人と、ふわふわの尻尾を持つ小さな子供のような姿まで見える。

あの二人は新しい仲間…なのかな。そう思ってしまうけれど、なにより気になったのは、あの女の子の姿だった。


(え…あ、あれって…セーラー服…?)


この時代にあるはずのない制服、それを当たり前のように着ている女の子に思わず目を疑ってしまう。

確か以前は着ていなかったはず…そう思って初めて彼女を見た時のことを思い返してみるけれど、あの時は確かにセーラー服なんて着ていなかったと思う。けれど、おぼろげではあるけれど、あの子は以前、私の時代にあるような洋服を着ていたような気がする…
うん、きっとそうだ。あの時は気に止めている余裕がなかったけれど、それでも確かに懐かしさのような、近しい感覚を抱いていたもの。

…ということは…あの女の子は私と同じ境遇の人…?

私がそんな淡い期待のような思いを抱いている間にも、鬼は容赦なく村の中へ踏み入って犬夜叉くんたちへと接近していく。すると殺生丸さまの姿に気が付いた犬夜叉くんが驚いたような表情で「殺生丸…!」と声を上げた。

その時だった。鬼の足が止められるや否や、殺生丸さまが突然立ち上がってその身をフワ…と軽く宙へ投げ出したのは。

それを追うように身を乗り出して殺生丸さまを見つめれば、彼は瞬く間に犬夜叉くんの目と鼻の先に降り立っていた。
それは本当に一瞬の出来事。おかげで不意を突かれた犬夜叉くんはぎく、と大きく体を強張らせて、すぐさま大きく跳び退った。それと同時に、「きゃ〜っ」と声を上げた女の子と小さな子が真っ先に逃げ出して、男の人も戸惑うようにそれに続いていくのが見える。

けれど殺生丸さまはそれに目もくれないで、犬夜叉くんを見据えたままつまらなそうに言い捨てた。


「ふん…相変わらず動きが鈍いな犬夜叉」
「殺生丸! なにしに来やがった!」
「つまらんことを聞くな。貴様の腰の鉄砕牙に用がある」
「てめえ…性懲りもなく」


距離があって聞こえづらいけれど、二人が対立するようにそんな言葉を交わしているのがかろうじて聞き取れる。
するとその時、岩陰に身を潜める三人が殺生丸さまたちからこちらへ視線を移したことに気が付いた。さすがに遠くて会話は聞こえないけれど、私たちの方を見てなにかを話しているような、そんなそぶり。

一体なにを話しているんだろう…。なんだか気が引けた私は後ずさって、鬼の陰に隠れようとした。
だけどその時、殺生丸さまたちの声が聞こえたかと思うと、突然ドガ、という激しい破壊音が響いてくる。それに驚いて二人を見下ろせば刀を抜いた犬夜叉くんがそれを地面に叩き付けていて、対する殺生丸さまは軽々身をかわして犬夜叉くんの後ろの方にスタ…と降り立つ姿が見てとれた。


「ふん、思った通り…犬夜叉貴様…全く鉄砕牙を使いこなしておらんな」
「なっ! なんだとお!? ふざけんなてめえ!」


殺生丸さまの言葉に強く声を荒げた犬夜叉くんが鉄砕牙を掲げながら殺生丸さまへ襲い掛かる。けれどそれが目前に迫ったその瞬間、殺生丸さまは顔色ひとつ変えることもなく、鉄砕牙を掲げる犬夜叉くんの右手首を押さえ込むように掴んでみせた。


「太刀筋が丸見えだ…大きな刀に振り回されおって…」


振りほどこうと力を込める犬夜叉くんへ殺生丸さまが呆れたように言う。殺生丸さまの手は犬夜叉くんの腕を放すことなく、さらにはその手の甲に三本線の模様を走らせた。途端、掴まれる犬夜叉くんの腕が変色して彼の表情は苦痛に歪む。

毒だ。殺生丸さまの毒で犬夜叉くんの腕を溶かそうとしている。それに私が息を飲んでしまうのとは対照的に、殺生丸さまは涼しい顔のまま苦しむ犬夜叉くんを見据えていた。


「刀を手放さんと腕が溶け落ちるぞ」
「くっ…そうなる前に…」


言いながら犬夜叉くんが両手で鉄砕牙を握り直す。その姿に殺生丸さまがわずかながら目を丸くした。


「てめえの方が真っ二つだ!」


そう叫んだ犬夜叉くんが殺生丸さまごと鉄砕牙を押し返すように駆け出してみせる。けれど殺生丸さまに大きく動じる様子はなくて、小さくなにか呟いたかと思うと突然その身をバッ、と高く跳び上がらせた。
直後、尾であるもこもこの毛を手にして勢いよく犬夜叉くんへと放つ。すると凄まじい勢いで迫った尾は犬夜叉くんの手を打ち払って、弾いた鉄砕牙を遠く地面へと突き立ててしまった。


「ちくしょう!」


途端に犬夜叉くんが声を荒げながら鉄砕牙へ駆け出す。けれどそれより早く鉄砕牙の元へ降り立った殺生丸さまがあの左手で鉄砕牙の柄をグッ、と握りしめた。
その瞬間、駆け寄ってくる犬夜叉くんを振り払うように強く勢いよく鉄砕牙を振るってみせる。


「教えてやろう犬夜叉。鉄砕牙の真の威力を…」


そう告げる殺生丸さまが体の前へ持ち上げる鉄砕牙は、犬夜叉くんが使っていた時と同じように白く大きな妖刀の姿になっていた。
そこに、妖怪を拒絶する結界は見えない。人間の腕なら、本当に鉄砕牙が使えてしまうんだ。その事実に驚く私と同様に、殺生丸さまの眼前の犬夜叉くんも目を疑うよう愕然と目を見張っていた。

その時、


「邪見!」
「はいっ殺生丸さま。ただいま、山の妖怪、精霊どもを追い出しまする」


殺生丸さまがこちらへ声を上げたかと思えば、邪見が待ってましたと言わんばかりにすぐさま応答する。彼らには通じているようだけれど、なにをするのか聞かされていない私には今からなにが起ころうとしているのか分からなくて。
戸惑うままに邪見の方へ振り返ってみると、彼もまた私へ振り返りながら忠告のような声を向けてきた。


「風羽。振り落とされぬよう鬼の髪にでも掴まっておれ」
「え…?」


邪見の言葉の意味が分からなくて思わず小さな声を漏らしてしまう。けれど邪見はそのまま鬼に指示を下して、それを傍の山へと向き直らせた。それと同時に、その大きな腕が高く持ち上げられる。

一体、なにを。そんな思いを抱えながら、言われた通りに鬼の髪を強く握りしめる。するとその腕は容赦なく振り下ろされて、目の前の大きな山を潰さんばかりに叩き込んだ。その激しい揺れに振り落とされそうになりながら、それでも精一杯耐えていた時、どうしてか山から大きくざわつく気配が漂い始める――

次の瞬間、山の中から数え切れないほど多くの妖怪や精霊たちが、我先にと逃げ出すよう一斉に溢れ出した。


「よいか犬夜叉。一振りだ…一振りで百匹の妖怪をなぎ倒す!」


殺生丸さまがそう声を張り上げると同時、ゴッ、と風が唸るほどの勢いで鉄砕牙が振り切られた――その直後、私たちの眼前で群を成していた無数の妖怪たちが突然爆ぜるように切り刻まれる。それだけじゃない、妖怪を跡形もなく消し去ったその一撃は、私たちの目の前の山まで容易く消し飛ばしてしまった。


「…………」


声が、出なかった。息が苦しかった。いま目の前で起きたことの全てが飲み込めなくて、私はただ無骨な岩肌を晒す無残な山の残骸を見つめることしかできなかった。

やがてその視線をゆっくりと滑らせたそこで、殺生丸さまは犬夜叉くんへ向き直る。今しがた山ごと妖怪たちを消し飛ばした、鉄砕牙を向けて。


「待たせたな犬夜叉。次は貴様の番だ」


無慈悲に告げられる言葉。それは私の胸の奥を冷やし、犬夜叉くんの顔を悔しげに歪めさせた。


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