19



胸がざわつく。心臓がドクドクと早鐘を打つ。無意識のうちに木の陰へ身を潜めるようにしながら、私はすぐ傍に感じる知らない男の人の気配に感情を揺さぶられていた。


「犬夜叉めの兄…殺生丸さまでございましょう?」


男の人が控えめに、穏やかな口調で殺生丸さまへ言う。私がその声に一層のざわつきを覚えてしまう中、殺生丸さまはそれほど気にした様子もなく、けれどどこか警戒の色を垣間見せながら「…なんだ貴様?」と端的に問われた。
すると男の人はそれへ、


「あなたさま同様、犬夜叉を憎む者…この腕、お使いくだされ」


と、声色を変えることもなく淡々と返す。けれど、それにすぐさま「ん〜!?」と訝しむような声を返したのは、先ほどまで殺生丸さまの足元にくっつくよう怯えていたはずの邪見だった。


「ふざけるな貴様。それは人間の腕ではないかっ」
「いかにも…これは人間の腕に、四魂のかけらを仕込んだもの」
「四魂のかけらを?」


不意に、聞き慣れない単語が飛び交う。“四魂のかけら”というそれがどんなものなのか分からないけれど、それを仕込んでいると聞いた途端に邪見の否定的な態度がほんの少しだけ緩んだ気がした。…ということは、四魂のかけらはそれだけ特別なもの…なのかな。
大きくざわつく胸のうちでそう考えていると、木に遮られて姿の見えない男の人が殺生丸さまを説得するように言葉を続けた。


「人間の腕を用いれば…犬夜叉の持つ妖刀鉄砕牙を掴むこともできましょう」
「!」


その一言に、殺生丸さまが初めて明確な反応を見せた。
その理由は私でも分かる。鉄砕牙は、殺生丸さまがずっと探し求めていた刀。結界に拒まれて、触れることさえままならなかったもの。それを、あの腕を使うだけで掴めるようになるというのだから…。


「鉄砕牙は人間を守る刀と聞き及びまする。本来、あなたさまのような完璧な妖怪には扱えぬ刀だと…」
「ふっ、貴様。犬夜叉が憎いと抜かしおったな。犬夜叉を殺すために、この私を使おうというのか」
「御意」
「きっ、貴様、なんと恐れ多い…」


殺生丸さまを敬う様子を見せながらも遠慮のない姿勢に邪見がまた怒りを露わにするよう声を上げる。

邪見の言う通りだ。ただ、私はそれとは別の…言いようのない不信感のようなものを男の人に抱いていた。こんな人なんて知らないのに、いいように利用されるだけだって、関わると碌なことがないって否定的な思いが次々と溢れ出してくる。
絶対に反対だった。今すぐにでもこの人から離れるべきだって、強く訴えかけるように殺生丸さまを見つめた。けれど、殺生丸さまはその彼に視線を向け続けるまま、


「面白い、その腕もらってやろう」


と、挑戦的な笑みさえ浮かべて言い切られた。途端に邪見から「せっ、殺生丸さまっ」と声が上がる。私はそんな彼と同じ思いのまま、声を出すこともできずにぎゅう…と手に力を込めていた。ただ縋るように、言いようのない焦りに瞳を揺らしていた。

それでも殺生丸さまの言葉は覆らず、話を進めようとする男の人は木の向こうで「それともうひとつ…」と言いながらまたもなにかを差し出したようだった。殺生丸さまと邪見の視線がわずかに動いて、それへ向けられる。


「犬夜叉とともに、若い法師が一緒にいるはず。そやつは…あるいは犬夜叉より面倒かもしれませぬ。この巣を…必ず役に立つはずでございます」
「貴様の名を聞いておこうか」


言いながら、殺生丸さまが男の人へ歩みを寄せる。そして伸ばされたその手に丸い蜂の巣のようなものが渡った、その時――


「奈落……と申します」


ドクリ、鼓動が響く。心臓を鷲掴みにされたような、それでいてお腹の底から煮えくり返る怒りような、憎しみのような得も言われない感覚を抱いて。私はひどくざわつく胸を抑え込みながら、よろめくように木に寄りかかった。

どうして、どうして知りもしない男の人にこれほどの感情を抱いてしまうんだろう。それも苛立ちや、恐怖といった複雑な感情。
分からないのに、まるでそれに体を蝕まれるような錯覚を抱いて。殺生丸さまが男の人へ「奈落か。覚えておこう」と微かな笑みを浮かべるのを横目に、私は彼らに背を向けていた。ドクドクとうるさい胸を押さえて、へたり込むようにその場へ腰を落とす。震える手をギュウ、と握りしめる。

どう治めればいいか分からないこの感情に小さく唇を噛んだその時、木の向こうで踵を返すような微かな音が聞こえた。


「!」


目が、合った。私たちに背を向けて去ろうとするその人の、白い狒狒の毛皮の下に垣間見えた目と。心臓が痛いほどの鼓動をもう一度響かせた途端、全身が総毛立つような気がした。
けれど男の人の目はすぐに逸らされて、彼は森の深い闇へと溶けるように消えていく。私は目が離せなくなってしまったかのようにその後ろ姿を見つめたまま、ただ強く袖を握り締めていた。


「…風羽。風羽っ」
「っ!」


突然肩に触れられて弾かれるように振り返る。するとそんな私に驚いた顔をする邪見がいて、私の様子を見るなりとても訝しげな表情を浮かべていた。


「どうした、そのような顔をして…すごい汗だぞ」
「え…あ…」


そう言われて、初めて気が付いた。額にいくつもの汗の玉が浮かんで、それが頬を伝っていたことに。同時に確かめるよう握っていた手をそっと開いてみたら、ひどく手汗で濡れていて、手のひらには少しばかりの爪の痕が残っていた。
そんなに力を込めていたなんて、気が付かなかった…。全然自覚がなくて、小さく震える手をただ驚くように見つめる。するとそんな私の様子を殺生丸さまも見ていたようで、静かに歩み寄ってきた彼はどこか意外そうな様子で私を見下ろしてきた。


「…お前がそのような顔を見せるとはな。お前は、あの男を知っているのか」
「いえ…知りません…知らない、はずなんです…なのに…どうしてか…嫌な感情が湧き上がってきて…」


思い出そうとしても、やっぱりあんな人は分からない。声を聞いた覚えもない。けれどあの人を思うと苛立ちのような、憎しみのような、そんな感情だけは甦ってきて仕方がなかった。関わるべきじゃないって、本能が警鐘を鳴らし続けている。
それに小さく顔を歪めては抑えられず、私はすぐに殺生丸さまへ懇願するよう顔を上げた。


「殺生丸さまっ、お願いです…あんな人と関わることはやめてください。絶対…よくないことが起こるって、そう思うんです…」


言いながら、確信のなさに声を小さくして俯いてしまう。私だって説得力がないことは分かっている。けれどどうしても考え直してほしくて、私はじっと頭を下げたまま殺生丸さまの答えを待った。


「ならば、なにが起こる?」
「え…?」
「あれと関わった末になにが起こるか、具体的に言ってみろ」


抑揚の少ない、けれどはっきりと問い詰めるような言葉を向けられて思わず声が詰まる。思わず目を泳がせてしまう私は戸惑い、「…それ、は……」としか声を絞り出すことができなかった。それ以上の言葉が見つからなくて、言いよどむように黙り込んでしまった。
確信も根拠も、なにもない。ただ直感的に関わっちゃダメだと思っただけ。だから納得させられる答えなんてあるはずもなくて、私は深く俯くままに口を閉ざすことしかできなかった。

そんな私に呆れたのか、殺生丸さまは微かにため息のような空気を漏らして私を見やった。


「確証がなければ手を引く道理もないだろう。それともお前は、この私が奴の手駒にされるとでも言いたいのか?」
「ちっ、違います…!」
「ならば、大人しく従っていろ」


どこか咎めるように言い捨てられる。まるで、否定は許さないというように。それを耳にしてはこれ以上食い下がることなんてできるはずがなくて、「行くぞ」と短く言う殺生丸さまが踵を返す姿をただ見つめていることしかできなかった。

彼が言った通り、殺生丸さまが手駒にされることはないって分かっている。けれどやっぱり胸の奥にわだかまりを残す不安は消えてくれなくて、ただ唇を硬く結んだままそっと立ち上がった。




――それからというもの、私たちはすぐに犬夜叉くんたちの元へ向かうことになって、殺生丸さまの命令を受けた邪見がまた移動用の鬼を捜してくると駆けて行った。

気持ちを切り替えなくちゃいけない。そう思うけれど、どうしても消えない不安を感じるまま遠くなっていく邪見の後ろ姿を見つめる。同じように彼を見ていた殺生丸さまは、踵を返されてしまった。それでも私は視線を逸らさないまま、その小さな姿を見つめ続けた。

足を止めてくれないかなって。どちらでもいいから、考え直してくれないかなって、願うように考えていた。けれどそんな思いは届かず、邪見の姿はあっという間に見えなくなる。小さなその影が消えてしまった茂みの向こうを見つめて、私はただ胸のざわつきを堪えるように着物の裾を握り締めた。
そんな時だった。


「お前は本当にあの男を知らんのか」


殺生丸さまが、唐突にそんなことを言い出した。その言葉を不思議に思って振り返っても、殺生丸さまの表情から真意は汲み取れない。
私は知らないって言ったのに…一体、どういうことなんだろう…そう疑問を抱いた私が確かめるように殺生丸さまを見つめていれば、彼は視線を外してどこか遠くを見やりながら口を開いた。


「あの男から…わずかにお前と同じ匂いを感じた。いや…」


お前に混ざる匂いを…か。

そう呟くように言われて、私はその言葉を理解できないまま立ち尽くしていた。視線の先の殺生丸さまに、冗談を言っている様子なんてない。じゃあ本当に、あの人から同じ匂いを感じたということ…?
でも、私に“混ざる”匂いってどういうこと…?

なにも分からない。分からないけれど、それを詳しく聞こうとは思えなくて。ただあの人と同じだというのはとても嫌だと、胸のうちの不安を徐々に膨らませてしまうばかりだった。


back
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -