01



白いもやに囲まれる場所に、私は座っていた。なんでこんなところにいるんだろう…そう思ったけれど、そもそも辺りの景色がもやに隠されていて、場所さえよく分からない。

見えるのは、ぼんやりとしたなにか。ぼうっと座ったままの私はそれを見つめることしかできなかったのだけど、ふと、緩やかな風が優しく私に吹き込んできた。それが運んでくれたのは花の香り。もしかしたら、もやの向こうには花畑が広がってるのかもしれない。
それが分かった時、そこに誰かが踏み込んできた。晴れないもやに隠されたその人は、どうやらこちらを見ているみたいだった。まるで、私に会いにきたかのよう。

一体誰なんだろう…。不思議に思った私がようやく口を開こうとした時、どこか遠い場所から、私の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。


「…ちゃん。風羽ちゃん」


トントン、と優しく叩かれる。それに目を開くと、そこには見慣れたいつもの景色が広がっていた。自宅の庭。白いもやも、花畑もない。

そっか…私、縁側で寝ちゃってたんだ…。それをぼんやりした頭で理解して体を起こすと、同時に「目が覚めたかい?」と優しい声がした。その声に振り返ってみると、そこにはおばあちゃんの姿。


「寝てるところごめんね。あたしは買い物に行ってくるから、風羽ちゃんは蔵の掃除を頼めるかい?」
「あ…そっか…今日、蔵のお掃除の日だっけ…」


眠い目をこすりながら部屋の壁に掛かったカレンダーを遠目に見る。今日の日付にぼんやりとする目を凝らせば、しっかりと『蔵掃除』と書いてあった。

――うちは古くからある大きな家で、庭にはいつからあるのかも分からない、これまた大きな蔵がある。我が家ではそこを月に一度、必ずお掃除をする習慣があった。
けれどあそこは暗くて怖くて、私は小さな頃からずっと苦手で仕方がない。だからいつも親代わりであるおばあちゃんが担当してくれていたのだけど、そのおばあちゃんが数日前に腰を悪くしてしまって、今月から私がその役割を担当することになったのだ。

ようやく目が覚めてきたところなのに…同時に、蔵のお掃除への覚悟を強いられてしまった。


「よ…よし。私、頑張るね」
「ありがとうねえ。蔵はあちこち傷んでるから、気を付けるんだよ」
「うん。おばあちゃんもお買い物、気を付けてね」


立ち上がってそう言えば、おばあちゃんはにっこりと笑って頷いてくれた。本当はお買い物も私が行ってあげたいけど…蔵のお掃除に時間が掛かってお買い物まで遅れちゃうと悪いから、仕方なくこのままお願いすることにしよう。

そうして用意をしたおばあちゃんと玄関まで一緒に行き、「行ってらっしゃい」と手を振ってその背中を見送る。おばあちゃんの姿が見えなくなったら、私も玄関に掛けてある蔵の鍵を持って庭へ向かった。


「えっと…」


蔵の前まできては、晴れ渡る空へ振り返る。少しだけ手を持ち上げると、そこに触れる柔らかな風に集中するよう、そっと目を閉じた。少し冷たくて、乾いた風。湿った感触が感じられないことを確認すると、持ち上げていた手を下ろして青空を見つめた。


「よかった…雨は降らないみたい」


今朝の予報で天気が崩れるかも、なんて言っていたから心配したけれど、大丈夫そうだ。これなら書物の天日干しも問題ないはず。そんなことを考えながら、蔵の古い鍵を外して分厚く重たい扉を開いた。

蔵には電気も通っていなくて、灯りはこの入り口から入る光だけ。おかげでお昼でも暗く、奥の方なんかは真夜中のように真っ暗だった。だから怖くて苦手なのだけど、お掃除を任されたからにはしっかりやらなきゃと両手で拳を握る。

そして、すぐ傍の棚から書物を運び出そうと蔵へ踏み込んだ――その時、視界の端でなにかが強く光った気がして、思わずビクッ、と肩を揺らしてしまった。

な、なにかある…けど、蔵に光るようなものなんて、なにもなかったはず…。そう思いながら、恐々ともう一度視線を向けてみれば、外の光を反射するなにかがそこに置かれていた。
どうやら、生き物ではない様子。動かないそれをじっと見つめながら近付いてみると、艶やかな漆塗りの、細い板のようなものだと分かった。けれどそれはただの板なんかじゃない。複数の紙を挟んだような、厚みのあるもの――


「これって…扇子…?」


ピタリと閉じてあるそれを手に取って、見回してみる。古ぼけてはいるけれど、確かに立派な扇子だ。

…でも、なんでこんなところに扇子があるんだろう。普通は蔵に、それもこんな無造作に扇子を置くとは思えない。せめて箱に入れるとかすると思うのだけど…なんて、つい考えてしまう。だけれど、なんでも蔵に押し込んじゃうおばあちゃんのことだ。もしかしたら夏の終わりに扇風機と一緒に放り込んじゃったのかもしれない。

そう思うとなんとなく納得できる気がして、持っていた扇子を元の場所に置き直そうとした――けれどふと、違和感に気が付いた。
おばあちゃん、こんな立派な扇子なんて使ってたっけ。夏頃はいつも扇子を持っているけれど、それはもっと安っぽい、コンパクトな扇子だったような…。

柄を見たら、思い出せるかな。そう思って試しにゆっくり扇子を開いてみると、パラパラパラ…と独特な音が小さく鳴った。そうして大きく広げたそこに描かれる模様は、白地に上品な赤色が二股の線を描く、とてもシンプルなもの。

…やっぱり、見覚えがない。
おばあちゃんが帰ってきたら聞いてみようかな。そう思って扇子を閉じようとしたその瞬間、どうしてかそれがパンッ、と強く乾いた音を響かせて空気に溶けるよう消えてしまった。


「えっ、な、なんで…きゃっ!?」


戸惑いが落ち着く間もなく、突然現れた強風がゴオッ、と音を立てるほどの勢いで私を包み込んだ。それは、ここにあるはずのない白い花びらをいくつも舞わせて、私の体を取り巻くように強く大きく吹き付けてくる。

怖い。なんで。ここは蔵の中なのに、どうしてこんな風が吹くの。咄嗟に巡る思いに、私はただ強張る体をギュッと抱きしめて強く目を瞑った――次の瞬間、どうしてか意識がフ…と遠ざかるような感覚に襲われて、私は成す術もなく、あっという間に意識を手放してしまった。



* * *




「ん…」


冷たい空気に頬を撫でられるような感触に、ようやく意識を取り戻す。と同時に、私の手の下にふさふさとした柔らかさを感じた。少しひんやりとしたこの感触、これはきっと、芝生かなにかの植物だ。蔵の古い板張りの床じゃないことだけは、はっきりと分かる。

――でもどうして。私は蔵にいたはず。
不意によぎったその思いが嫌な予感を迸らせて、私ははっと強く目を覚ました。


「…え…!?」


咄嗟に体を起こして持ち上げた視界。そこに映った景色に、思わず短い声が漏れた。

だって私は自宅の蔵にいたはずで、建物の中にいたはずだった。だというのにどうしてか、私の周囲には、鬱蒼と生い茂る深い森の風景が広がっていた。それに、気を失っている間に日が暮れてしまったのか、辺りは真っ暗で。頭上を見ても天井のない、星が瞬く暗い夜空が広がっている。

どれだけ辺りを見回しても、蔵どころか自宅もなにもかも、私の知っているものがなにひとつ見当たらなかった。


「な、なに…これ…どうなってるの…?」


信じられなくて、わけが分からなくて、何度も辺りを見回してみるけれど景色は変わらない。試しに頬を小さく抓ってみたけれど、夢でもない。はっきりと痛みを感じる、現実だった。

信じがたいけれど、私は突然、どこかも分からない場所に飛ばされてしまったみたいだった。

でも、どうして? なにが原因で、こうなってしまったの。思わず浮かんできたそんな思いに、気を失う前のことを思い返した。
なにか変わったことがあったとすれば、あの扇子。見覚えのない扇子を閉じようとした途端、それが弾けるように消えてしまって…突然、“知らない風”が私を包み込んだ……


「…あの風…一体、なんだったんだろう…」


なにかの意志さえ感じてしまうようなあの時の風を思い出しては、ぎゅ…と体を抱きしめる。あれだけは、普通の風とは違った。そう思えてしまったから、冷や汗が滲んだ。体が、小さくも確かに震えた。

だって、本当に誰かの意志があったというのなら、それは…私をここへ連れてきた、誰かがいるということ――


「っ…!?」


不意に、遠くからガサガサと草木を掻き分ける音が聞こえて肩を跳ねさせてしまう。なにかがいる。恐くて足が震えそうになる。けれど、このままここにいたって、家に帰れない。そう悟った私は行きたくないと震える体を律して、音が聞こえた方へゆっくりと近付いてみることにした。

もしかしたら人がいて、ここがどこなのかを教えてもらえるかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら、けれど念のために気配を押し殺して、音がしたと思われる場所を茂みの陰からこっそりと覗き込んでみた。


「…っ!!」


思わず悲鳴を上げそうになった口を押さえる。これでもかと、目を見張る。

だってそこに、茂みの向こうに、男の人の死体が、転がっていた。それどころか、そのすぐ傍のなにかが、体の大きななにかが、その人に、その死体に、上に、覆い被さって、たべていた。腕を、お腹を、たべていた。
見間違いじゃない。今まさにそこで、動物とも人間ともとれないなにかが、男の人の死体を貪っている。涙が溢れた。恐くて仕方がなくて、呼吸さえできないほど気を張り詰めて、そこから動けずにいた。

あれに聞こえてしまうんじゃないかというほどドクドクと鼓動が激しく鳴り続ける中、あれは大きく舌なめずりをして、緩慢な動きでどこかへと歩き出した。おかげで露わになってしまう死体から目を背けるように強く瞑っては、遠ざかる足音が聞こえなくなるまでそこで震え続けていた。

しばらくすれば、それは完全に消え去って。はっ、はっ…と短く必死に繰り返す呼吸も整わないまま、私はその場から逃げ出すように元の方角へ走っていた。

あれはなに。なんで人をたべていたの。怖い。恐い。こわい。見つかりたくない。死にたくない。早く帰りたい。そんなことばかりが頭の中を巡り、森を抜けようと必死に走っていた、その時だった。木々の向こうに、暗いけれど開けた空間が見える。よく見ればそれは丘のようで、そこからなら辺りを見渡せるかもしれないと思った。そうして森を飛び出そうとしたその時、誰かがその丘を上がっていく姿が見えてビク、と足を止めた。

一瞬、脳裏にあの得体の知れないなにかの姿がよぎったけれど、どうやら違う。それは人のようだった。とても長い銀色の髪を揺らしていて、女の人のよう。だけどその人は遠目に見ても身長が高そうで、体の大きさや歩き方から、きっと男の人なんだって分かった。ただ、その人は赤い模様の入った白い着物を着ていて、右肩に柔らかそうなふわふわとした毛皮と、お腹の辺りに見たこともない鎧のようなものまで着けた、不思議な格好をしていた。

服装は見慣れない、不思議なものだけど、人を見つけられた。そう思いながら木の陰で様子を見ていると、その人の前に、小さな影が忙しなく駆けていく姿も見えた。それは幼い子供くらいのなにか。ここからじゃよく見えないけど、大きな杖のようなものを追いかけているようだった。
けれどそれが止まるとその小さな影も止まって、追いついた髪の長いあの人となにか喋っている様子。かと思えば、また小さな影が走り出す。


(なに、してるんだろう…)


不思議な行動に小さく首を傾げた私はごくりと息を飲んで、ゆっくりとその二人に近付くことにした。どんな人たちなのか分からなくて不安はあるけれど、あんな化け物を見たあとのこと。比べたら、全然平気だった。
それに…ここがどこなのかを、帰り道を、教えてほしい。待ち望んだ人の姿に、私の欲求は止められなかった。

そっと森を抜けて、二人のあとを辿るように丘を歩いていく。そんな時、ふと見えた傍の景色に目を疑った。
暗くてはっきりとは見えないけれど、下に広がる景色には、なにもなかった。そう、なにも。ビルも住宅も、道路も街灯もなにもかも。まるで山奥の田舎か、未開の地にでも来てしまったんじゃないかと、そう思ってしまうほど、人工物がなにひとつ見当たらなかった。

一体、どういうこと…? そんな思いがよぎった刹那、突然向こうから獣の唸り声のようなものが聞こえた気がした。


「なぜ獣が墓守を!? 殺生丸さま、やはりここです。ここに間違いありませぬ!」


獣の声のあとにそんな声まで響いてくる。いまの声はあの小さい子の声なのかな…。傍にあった岩の陰に隠れて、それを確かめるように目を凝らしてみる。
すると、大きな石を組み上げて作った祠のようなものの前に、何匹もの狼が立ちはだかっているのが見えた。それはあの二人をとても警戒しているようで、みんな鋭い牙を覗かせている。けれど怖くないのか、男の人がそちらへ足を踏み出して「牙か…」と低い声で呟いた。


「私は牙を求めている…その牙を得れば、より強大な力の主に己を変えられるのだ」


狼に語り掛けるように言葉を紡ぎだす男の人。その人の言葉は意味こそ理解できなかったけれど、とても強い思いを秘めているような気がして、つい耳を傾けていた。


「どうやらまだ私は…己の力だけでは物足りぬという未熟な甘えがあるらしい…これは不安なのか? いや、これは単なる限度を知らぬ…力への猛進。牙が…私はその牙が欲しい」


男の人の首がわずかに持ち上がる。直後、周りの狼たちが一斉に男の人へ飛び掛かって、思わず見ている私が体を強張らせてしまいそうになった――その時だった。目にも止まらぬ速さで振るわれた手が、襲い掛かったはずの狼を全て、呆気なく蹴散らしてしまったのは。

咄嗟に両手で口を押えてしまった私とは対照的に、その人は何食わぬ顔で振り返って「邪見。人頭杖を」と呼び掛けていた。すると返事をした小さなあの子が杖を手に組み上げられた石をよじ登って、その上に設えられた小さな木製の祠を蹴り壊していた。見ている私は、そんな罰当たりなこと…と思ってしまうけれど、その子は平然と足でそこを掃い、持っていた大きな杖をそこに突き立ててみせる。

よく見ればその杖は、おじいさんと女の人の顔が付いた不気味なもの。それで一体なにをするんだろう、と思っていると、突然小さく顔を上げた女の人の顔がキイイィィ、と不気味な悲鳴を上げた。思わず驚いて、引っ込むように岩陰に隠れてしまう。


「なんと…おなごの面が鳴きましてございます。ここはお捜しの墓ではないということでしょうか…」


そっと覗き直してみると、杖の顔を見上げながら肩を落とすあの子がそう言った。それは間違いなくあの男の人に向けられたものなのだろうけど、その人の姿はいつの間にか消えていて――


「え…きゃあっ!」


突然凄まじい音を立てて目の前の岩が破壊される。咄嗟に後ずさったことで怪我は免れたけれど、いまの一撃は間違いなく私を狙っていた。
だって、ほんの一瞬で私の目の前に現れたあの男の人が、金色の瞳に明確な殺意を宿して、私を見下ろしている。


「貴様、ここでなにをしている?」


今しがた振るわれたと思われる鋭い爪を月明かりに光らせて、男の人は言う。カタカタと震える体を抑えられない私は、声さえまともに出せないまま、ただ本能が促すままに後ずさろうとした。

――けれど、突然伸ばされた手が私の首を捕らえて、私はその場から逃げ出すことも後ずさることも、なにもできなくなってしまった。


「答えろ。貴様は何者だ? 私たちを追い、なにをしようとしていた」


感情のない冷ややかな金色の目が、私を真っ直ぐに見つめて言う。けれど気管を圧迫される私はうまく声を出せず、ただひゅるひゅると細い息を吐くのが精一杯だった。

怖い。恐い。こわい。そればかりが頭を巡って涙が滲んでくる。死にたくない。そうは思うけれど、恐怖に体が竦んで、この人の手を引き剥がそうともできなかった。どうして、私はただ、帰り道を聞きたかっただけなのに。声にも出せないその言葉を胸のうちにこぼした――その時、静かに目を細めた男の人が私の首を放してくれた。

たすかった。

そう思いかけた刹那、音もなく持ち上げられた右手が、なんの躊躇いもなく私へ振り下ろされた。それは、あの狼たちを一撃で薙ぎ払ってしまった爪――


「いやっ!!」


月明かりを浴びて光の弧を描いた爪が私に迫ったその瞬間、咄嗟に強く目を瞑った私のすぐ傍で強く風が鳴いた気がした。その前にも後にも、切り裂かれるような痛みはなにひとつ感じられない。そんな違和感に堪らずそっと目を開いてみると、どうしてか、男の人が驚いた様子で私を見下ろしていた。


「貴様…今なにをした」
「え…」


ひどく眉をひそめて問うてくる男の人の言葉に声を漏らしてしまう。なにをした、と言われても、私はただ迫る爪に怯えてしまっただけ。抵抗する暇も、逃げる暇もなにもなかったから、ただ体を強張らせてしまっただけだった。

私は、なんて答えたらいいの。ただ戸惑うままに、大きく揺れる瞳を男の人へ向けていれば、いつの間にかこちらに駆けつけてきていたらしいあの小さな子が強く身を乗り出してきた。


「風を操るなど怪しい奴っ。貴様、ただの人間ではないな!?」
「! う、そ…」


とても警戒した様子で杖を構えるその姿に愕然とする。この子、遠目ではよく分からなかったけれど、子供じゃない。ううん、それどころか、人間でもない。
くちばしのように尖った口に、丸くて大きな黄色い目玉、深緑色の肌をしたこの子は河童のような…俗にいう、妖怪のような姿をしていた。そんなものが着物を着て、烏帽子を被って、歩いている。生きている。

あまりの驚きに声を出すことも忘れて呆然としていると、それは「答えろ女!」ともう一度強く言ってきた。それによってようやくはっと我に返った私は動揺し、視線を泳がせた。

答えなきゃ。私はただの人間。それは間違いないのだから、言い切ってもいいはず。だけど、この人たちには“風を操れる”ことを見破られてしまった。普通の人なら気が付くことがない、その力を。
そんな人たちに、私はただの人間ですと言って、信じてもらえるの…? そんな不安がよぎって、どう答えるべきかと口籠るように黙り込んでしまった。

するとそんな私が煩わしく思えたのか、訝しげに私を見つめていた男の人が小さく呟くように問いかけてきた。


「“それ”は、貴様の力か?」
「……」


問い直されて、しばらく黙り込んでしまいながら。それでも私は確かに、はいと、呟くように言いながら頷いた。すると私を見下ろしていた男の人は突然目の前まで歩み寄ってきて、ビク、と肩を揺らす私の顔を強引に持ち上げた。

満月のような輝きを持った二つの瞳が、私を映す。まるで心を吸い込まれたようにその瞳を見つめていたけれど、私を眺めていた男の人はやがて「それでも…ただの人間か」と呟いた。その言葉の意味がよく分からなくて、少しばかり疑問を抱きかけたのだけど、それは首筋にチクリと走った痛みによって掻き消されてしまった。


「もう一度問おう。貴様はここでなにをしていた? 答えによっては貴様の首が飛ぶぞ」


不穏な笑みを浮かべて言うその言葉に偽りは感じられない。現に私の首には鋭利な爪が食い込まされている。下手なことを言えばきっと、すぐにこの手を引かれ、私は死んでしまう。今度こそ、必ず。

それを思うと、体の芯から震えてしまって仕方がなかった。素直に言えばいいはずなのに、もしそれで理不尽に殺されてしまったら…という思いがよぎって言葉にできない。
いやだ、死にたくない。でも嘘なんてつけるはずがない。頭が回らない。どうしよう、どうすれば、そればかり考えてしまうと、男の人の爪が答えを急かすようにグ…と押し込まれた。


「かっ…帰り道、を…教えて…ほし、くて…っ」


気が付けば、無意識のうちにそんな声を漏らしていた。首に食い込まされる痛みと、今にも殺されそうな恐怖に耐えられなかった。
大きくなる震えもそのままに男の人の反応を待っていると、その人は表情を変えることもなく「帰り道?」と呟くように問いかけてくる。爪を食い込まされる私はそれに頷くこともできず。ただ小さな声だけで肯定して、震える声をなんとか絞り出すように男の人へ説明した。


「蔵の…お掃除を、して、いたら…きゅ、急に、森にいて…不安で…歩いていたら、あなたたちを、見つ、けて…だ、だから…あとを…」
「……」


ただ私の目を見つめる男の人が歪む。ああ、涙が…恐くて仕方なくて、どうしても死にたくなくて、勝手に涙が滲んでくる。けれど声を上げて泣くことなんてできるはずもなく、ただ静かに体を震わせながら、信じてという思いを込めた目で、男の人の金の瞳を見つめ返していた。

それは、たった数秒のことなのかもしれない。けれど私にとっては無限に等しいほど長く感じられて、あまりの緊張に喉が張り付くような感覚さえ抱いていた。それでも男の人から目を逸らさず、じっとその“答え”を待ち続けた。


「……」


ふと、その金の目が伏せられる。かと思えば、食い込んでいた爪がツ、と痕を残すような感覚を置いて離れていった。立ち上がる男の人を追うように顔を持ち上げてみれば、その人は再び私を見下ろしてくる。


「貴様の帰り道など知らん。死にたくなければ、一人でうろつかぬことだな」


それだけを言い残すと男の人は踵を返して「行くぞ。邪見」と呼びかけた。

どうやら私は、殺されずに済んだらしい。けれど、こんな場所にたった一人で残されてしまうことの意味を遅れて理解した私は、ゾッとする悪寒が背筋を駆け上ると同時に「ま、待ってください!」と声を上げていた。すると男の人もあの子も足を止めて、顔だけを振り返らせてくる。ただ静かに、私を見つめてくる。
なにを考えているのかも読み取れないその瞳にたじろぎながら、それでも私はぎゅ、と手を握りしめて、深く頭を下げた。


「な、なんでもします…! 必ずお礼もします…だから、帰り道が分かるまでの間…ど、同行、させてくださいっ…お願いしますっ…!」


自分でもなにを言ってるんだろうって、そう思った。けれどこんな得体の知れない場所に、人をたべるような化け物がいる場所に一人で残されてしまうのはあまりに心細く、不安で。例え相手が自分を殺そうとした人であろうと、誰かと一緒にいたい、そう思ってしまった。
無理は、承知の上。簡単に認めてもらえるはずがないと分かっているけれど、それでも一縷の望みに縋りたかった。

すると途端に、あの邪見と呼ばれた子が「貴様っ」と声を荒げてきた。


「人間風情が殺生丸さまと同行したいだと!? ふざけるな! たまたま生かしてもらったくらいで図に乗りおって、なにを抜け抜けと…」
「好きにしろ」


止めどなく声を荒げる彼の言葉を遮ったのは、あの男の人だった。まさかそれほど簡単に許しをもらえるとは思っていなかった私が思わず顔を上げてしまうと、あの子も同じように驚いた顔で男の人を見上げていた。


「せ、殺生丸さま…!? このような人間の小娘をお連れになるというのですか!?」
「私は好きにしろと言っただけだ。そのうえこの女は、ただの人間よりは多少利用価値がある」


愕然とするあの子とは対照的に、男の人は淡々とした様子でそう言いのけてしまう。利用価値、という言葉には少しだけ不安を覚えてしまったけれど、なんでもすると言ったのは私だ。同行を許してもらえるなら、覚悟を決めなきゃ。そう思って自分の手を包むように握りしめたその時、男の人がふっ、と小さく笑った。


「使えなければ雑魚どもの餌にすれば良い」


そう告げる男の人の表情に浮かんだそれは、意地の悪い笑みだと、私を試そうとしているのだと嫌でも感じてしまった。

一体なにをさせられてしまうんだろう。思わず身震いさえしてしまいながら息を飲んだ私は、こうしてなにも分からないまま、この男の人――殺生丸さまの従者として、不思議なこの世界を歩き出したのだった。


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