17
「風羽」
低い声が、私を呼ぶ。心地よささえ覚えてしまうようなその声に返事をしたつもりだったのだけれど、それは声として発せられていないようだった。それが分かったのは、もう一度名前を呼ばれた時のこと。
「風羽。起きろ」
「…ふぁ…」
もう一度返事をしてみれば、今度はとても腑抜けた自分の声が聞こえた。“はい”って言ったつもりだったのだけど…おかしいな…。そう考えるうちに段々と意識が判然としてきて、私はぱち…と目を開いた。
白んだ光が霞む視界にそっと挿し込んでくる。その眩しさに、私は“いま”ようやく目を覚ましたんだ、ということを自覚した。
感覚的にはもうとっくに起きていたと思っていたのだけど…どうやらそれは夢現のことだったみたい。ぼんやりする頭でそれを理解して顔を上げれば、殺生丸さまが私の方を静かに見下ろしていた。
ただ…どうしてか。その距離が、やけに近いような気がする。
「いつまでそうしている」
どこか少しだけ不機嫌そうな、訝しむような声色でそんなことを呟かれる。
“いつまでそうしている”…?
まだぼんやりする私にはその言葉の意味がよく分からなくて、ただぼうっと殺生丸さまを見上げることしかできていなかった。けれどその時、私の腕の中でなにかが少しばかり動いたのを感じて。それに釣られるように、ゆるゆると視線をそちらへ向けてみた。
見えたのは、白い着物。私のものではない、覚えのある着物だった。おかげで“まさか”という思いがよぎった私は、着物の先を辿るようにゆっくり顔を上げていく。そして、それを纏う殺生丸さまの怪訝そうな目と、もう一度しっかり、視線を絡ませた。
「!?」
ようやく状況を把握した私は大きく目を見張って、ばっ、と勢いよく両手を上げた。思わずぴゃっ、て変な声が上がりそうになった。
一応把握はできたけれど、全然分からない現状。それに混乱するよう固まる私の目の前で、殺生丸さまは呆れに目を伏せながら右の袖を引っ張るように着物を正されていた。
「風羽」
不意の呼びつけに背筋が伸びる。咄嗟に「はっ、はいっ」という声は返せたけれど、少し上擦ってしまった。それでも殺生丸さまはそれを気にしていないように、静かに開いた目を滑らせるよう私へ向けてくる。
「手を握るくらいは許したが、腕に抱きついても良いなどと言ったつもりはないぞ」
抑揚少なく、告げられる言葉。それに――私の行動を暴露してしまうようなその言葉に、私の中のなにかが弾けた気がした。
中でも、恥ずかしさと焦りと、申し訳なさ。それらが一気に込み上げてきたのを実感した私は、言葉にならない声を漏らしながら慌てて土下座をするようにびたっ、と頭を下げていた。
「ごっ…ごめんなさい…!! 全然そんなつもりはなかったんです…! けれど、その、寝ている時の記憶がなくて…わっ、わざとではなくて…えとっあの、その…ご、ごごごめんなさい…!」
弁解しようとするけれど慌てすぎて纏まらない言葉を垂れ流しながら、私はただ必死に深く頭を下げ続けた。おでこを地面に擦りつけてしまうくらい、必死に。
それでも殺生丸さまはなにも言われなかったのだけれど、やがて、
「…もう良い。頭を上げろ。無様だぞ」
と呆れるように呟かれた。
無様、という言葉に少しぐさりと来たけれど、こうなったそもそもの原因である私は「は、はい…」と声を漏らすしかなくて、恐る恐る顔を上げた。少しだけ痛むおでこから、砂粒がぽろぽろと落ちる。それを払うように小さくおでこを摩りながら、私はそっと殺生丸さまの様子を静かに窺っていた。
怒ってはいない、みたいだけれど…不快な思いをさせてしまったかな…。
――でも…それならどうして、殺生丸さまはもっと早くに私を起こさなかったんだろう。着物のしわを見た感じだと、私が抱き着いてしまってすぐに起こされたようには思えないのだけれど…。
それに、起こさなくても、邪魔なら振り払ってしまうことだってできたはずなのに。
こぼされるため息とは対照的とも思える事実に、少しだけそんな疑問を抱いてしまう。
それこそ、寝ている邪見を平気で蹴り起こしてしまうような殺生丸さまだもの。私が寝ていてもお構いなく叩き起してしまいそうなのに…。
やっぱり、素直じゃないお人…なのかな。
そんなことを考えながら殺生丸さまを見つめていると、その視線に気が付かれたのか、“なんだ”と言わんばかりの目がもう一度こちらへ向けられる。それにはっとして慌てた私は「な、なんでもないですっ」と手を振るうと、すぐさま頭の中の余計な思考もばたばたと掻き消したのだった。
――そうして行動を再開すること、数時間。殺生丸さまが感じ取った妖気を辿って見つけた妖怪は、呆気なく彼の手によって命を閉ざされてしまった。そしてその妖怪の腕を拾った殺生丸さまは私たちへ「そこにいろ」とだけを言い残して、一人どこかへ行ってしまう。
一体どこに行くんだろう…と思っていたけれど、言われた通りに待っていたら、殺生丸さまは思いのほか早く戻ってこられた。だけれど、その左腕――そこにくっつけている妖怪の腕が、先ほどまでとは打って変わったようにボロボロに崩れて歪んでいて、思わず「きゃっ…」と小さく悲鳴を漏らしてしまった。
「せ、殺生丸さま…それは…」
「試してみたが、存外脆かったようだな」
思わず身を縮めてしまう私とは対照的に、その左腕を持ち上げる殺生丸さまは涼しい顔のままそれを見据えられる。その腕の四本しかない指はあらぬ方向に曲がっていたり欠けていたりして、白い骨が覗くくらい見るも無残な姿になっていた。
た、試したって言っていたけれど、一体なにをしたんだろう…。それに…くっつけた腕があんなことになって、殺生丸さまは痛くないのかな…。
はたから見ている私はそんなことを思ってしまうけれど、殺生丸さまはというと全然気にする様子もなくて、平然と左腕をもぎ取っていた。
「いずれマシなものが見つかるだろうと思っていたが…想定以上に使えんものばかりだな」
そうぼやきながら殺生丸さまは適当に妖怪の腕を捨ててしまう。かと思えば「邪見」と呼び掛けて、すぐさま返事をする彼へ静かに視線を向けた。
「貴様も代わりの腕を捜してこい」
「え゙」
唐突な命令に邪見からどこか嫌そうな声が漏れる。それもそのはず…だって、殺生丸さまに釣り合う妖怪を捜して、それを倒さなければいけないのだから。
私には絶対に無理だし…邪見も強い妖怪には結構及び腰になっていたりするから、きっと行きたくないはず…。そう感じてしまいながら邪見を見ていると、彼は額に汗をにじませて立ち尽くしていた。
もしかして、どうにか免れられないか考えてるのかな…そう思った時、邪見を見ていた殺生丸さまがわずかに目を細めた気がした。
途端、びくっ、と肩を跳ね上げた邪見が「はっ、はひっ」と上ずった声を上げて、すぐさま姿勢を正してみせる。
「この邪見、必ずや殺生丸さまに相応しい腕を捜してまいります!」
必死な様子でそう宣言すると、邪見は慌ただしく踵を返してあっという間にどこかへと走っていってしまった。
あの様子で本当に大丈夫なのかな…そう思ってしまうけれど、それを見届けた殺生丸さまは構わず私へ「行くぞ」と声を投げかけてきて、そのまま迷いもなく歩きだしてしまった。
全然気にしていない様子…。もしかして…殺生丸さまは意外と邪見のことを信頼しているのかな。これまでだって色んなことを任せていたし、その間はいつも彼の成否に心配する様子もなかったし…。
それを思うと、邪見って見かけや性格によらず、あの殺生丸さまの信頼を勝ち取れるくらいにはしっかり者なんだなって、改めるように実感してしまった。
……それに比べて、私はいまのところなにも任されたことがない。信頼がない、というのはあるのだろうけれど、“なんでもします”って言ってついてきたのにこれでは、なんだか申し訳なくなってくる。
それに…私もなにか、殺生丸さまのお役に立つことがしたい。
「あ、あの、殺生丸さま。私も、妖怪を捜してきましょうか…?」
いまお手伝いができることと言えばこれしかない。そう思って尋ねてみたのだけれど、殺生丸さまはそんな私を横目に捉えて、
「貴様では返り討ちに遭うのが関の山だぞ」
と当然のように言い捨てられた。もちろんそれは事実で、私はその反論の余地のなさに「う…」と小さな声を漏らして口をつぐんでしまう。
あんな提案をしておいてなんだけれど、もちろん私じゃ妖怪と闘えないことは理解していた。けれど、風を操ったりなんかで少しはなにかできるかもしれないし、捜すだけならなんとかなるかもしれないと思ったから尋ねてみた、というのに…こうもはっきりと言い切られてしまうと、自分の無力さを痛感して肩を落としてしまう。
でも…いまは代わりの左腕を――妖怪を捜すことしか目立った目的がない。他にお役に立てそうなことも、私にできそうなことも思いつかなくて、私はなにかないかと辺りをきょろきょろと見回してみた。
そんな時、ふと思いつく。
私ひとりがダメでも、邪見のサポートならできるかも、と。
「殺生丸さまっ。邪見のサポート…じゃなくて、お手伝いならどうでしょうかっ? それなら私にもなにかできる、かも…」
名案だ、と思ったそれをすぐに殺生丸さまへ伝えてみるけれど、最後まで言い切る前に語尾が弱々しく小さくなってしまった。
というのも、殺生丸さまが足を止めて私に向き直るよう振り返ってきたのだ。それに加えて、なんだか見定めるような、少し厳しげな目。それに見つめられてつい萎縮してしまった私は、たじろくように足を止めて立ち尽くしてしまっていた。
すると殺生丸さまは、その表情にどこか呆れの色を滲ませながら問いかけてくる。
「邪見の姿はもう見えんが、あれがどこへ行ったか分かっているのか?」
「え…」
殺生丸さまに言われて、振り返る。確かに木々が生い茂るこの風景の中に邪見の姿はもう見えなくて、辺りは同じような景色だけ。彼を見送った場所からも離れてしまったし、いまでは彼がどの方角へ進んだのかも分からないほど、なにひとつ情報が残っていない状態だった。
それを思い知るように実感しては、少し気まずさを覚えて小さく唇を結んでしまう。
「ご…ごめんなさい…分かりません…」
素直にそう言いながら、うな垂れるように小さく頭を下げる。すると殺生丸さまは分かり切っていたという様子を見せて、「ならば大人しくついてこい」と言い捨てながら再び足を進め始めてしまった。
――結局、私は殺生丸さまの言うとおり、大人しく後ろについて歩くしかないみたい。ということは、私は今回もお役に立てないのかな…。私がもう少し強かったら違ったのかな…。ついそんなことを考えてしまいながら邪見を見送った場所へ振り返る。
その時、どん、と軽くなにかにぶつかった。それに慌てて前を向けば、目の前には殺生丸さまの背中。どうやら立ち止まっていたみたいで、それに気が付かずにぶつかってしまった私はすぐに謝ろうとした。
けれど、それよりも先に殺生丸さまの口が開かれる。
「お前は、それほど私と離れたいのか」
振り返り、真っ直ぐ視線を注いでくる金の瞳が問う。けれどその言葉があまりに予想外すぎて、私は思わず「えっ」という声を漏らすほど戸惑い、その瞳を見つめ返すまますぐさま懸命に頭を働かせた。
ど、どうして殺生丸さまは突然そんなことを言い出したんだろう…。私、そんな勘違いをされるようなこと言っちゃったかな…?
これまでのことを思い返してみても心当たりがなくて、私はただ困惑するままに殺生丸さまを見上げていた。すると彼は変わらず私を見つめて、抑揚の少ない声で言う。
「敵いもせん妖怪を捜しに行くと言い、邪見を手伝いに行くと言い…加えて、先ほどから忙しなく理由を捜しているだろう。それほど、私とともにいるのが嫌か」
淡々と、それでも問い質すように並べられる言葉に呆然とした。そんなつもりなんてなかったのに、なんだかとんでもないくらいの誤解を生んでしまっていたようで、それをようやく理解した私は「ちっ、違います!」と大きな声を上げるほど慌てて弁解した。
「誤解です…! 私はただ、邪見みたいになにかお役に立てないかと思っただけで…殺生丸さまと離れたいだなんてそんなこと、ちっとも思っていませんっ。で、できることなら、殺生丸さまとは離れたくないくらいですっ!」
慌てるままに咄嗟に弁解するよう言葉を並べ立てる。と、同時に、殺生丸さまがほんの少し目を丸くされた。その反応に、今度は私が目を丸くして、え、と漏らしそうになる。
…わ、私いま…なんだかとってもおかしなことを口走ってしまった気がする…!
「あっ…ああああのっ、ごめんなさいっ、違うんですっ…! そんなことが言いたかったわけじゃなくて、その、離れたくないっていうのも、頼りにさせていただいてるっていう意味でっ、決して下心みたいな変なことではなく…えっとそうじゃなくて、えっと、えっと…あの…う……わ、忘れてください…」
すぐにちゃんと真意を伝えようとしたけれど、変なことを口走ってしまった羞恥心と焦りと色んな感情がごちゃ混ぜになってしまって、なにを言いたいかも分からなくなった私は最終的に顔を覆いながら深く俯くことしかできなかった。
本当に恥ずかしい…こんなことを言いたかったわけじゃないのに…。結局ちゃんと伝えられたのかも分からないし、もう穴があったら入ってしまいたい…埋もれてしまいたい…。
そんなことを考えながら恥ずかしさに一人縮こまっていると、不意に、殺生丸さまがフ、と小さく息を漏らした気がした。
「取り乱しすぎだ。本気にするな」
そう口にする殺生丸さまの口元が、少しだけ弧を描かれている。
どうしてだろう。殺生丸さまが笑っているところを見るのは初めてじゃないはずなのに、その表情を見た途端、なぜだかすごく顔が熱くなってしまうような気がした。
――けれど、ふと我に返る。いま向けられた、“本気にするな”という言葉。それがすごく、引っかかってしまったから。
「も…もしかして殺生丸さま…私をからかったんですか…!?」
「ふっ。どうだろうな」
驚く私に対して、小さく笑みをこぼす殺生丸さまはそう言いながら踵を返してしまう。そのまま何事もなかったかのように歩きだしてしまう後ろ姿があまりにも私と対照的で、私はかわかわれたこと、一人焦って取り乱したことに恥ずかしさを爆発させてしまいそうになった。
「殺生丸さまの意地悪っ…」
こんな風にからかう人だなんて、聞いてない。
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