15



殺生丸さまから風呂敷をいただいたあの日から旅を再開して、あっという間に一週間ほどがすぎた。この時代に時計やカレンダーはないし、ちゃんと数えていないから正確さには欠けるけれど、きっとそれくらいの時間は過ごしたと思う。
…それでも、私たちの旅にこれといって変わったことはなかった。これまで通り、殺生丸さまが赴くままに足を進めているだけ。私が帰るための方法も分からないし、私にとってはなんの進展もないまま、ずるずると時間だけが過ぎていた。

――それを思い返すように実感していた、夕暮れ時。犬夜叉くんと闘った日以来、私の体力のこともあって夜は必ず足を止めて休むようになった私たちは、今日も休むのに適した場所がないかと探し始めていた。

そんな中で不意に、邪見がなにかに気が付いたように小さく顔を上げる。


「この匂いは…」


そう呟いた邪見がくんくんと辺りの匂いを嗅ぎ始める。なにかあるのかな、と思ってなんとなく殺生丸さまの表情を窺ってみるけれど、彼はいつも通りの様子でなにかに反応するような素振りもない。
…ということは、怪しいものではないのかな。そんなことを考えながら、私も試しに邪見と同じよう辺りの匂いを嗅いでみた。

そうして感じられたのは、微かな異臭。ちょっとくさいようなこの匂い…どこかで嗅いだことがある気がするかも…。そう思っては記憶の中から探ろうとしたのだけれど、私が答えを見つけるよりも先に、ぱっとこちらへ振り返った邪見がその答えを口にした。


「おい風羽。恐らくこの先に風呂があるぞ」
「お風呂?」


教えてくれる邪見の言葉に少しばかり首を傾げてしまう。宿でもあるのかな? なんて思ってしまったけれど、少しの間を空けて、ようやく思い出した。
そうだ、この独特な匂い…これは温泉の硫黄の匂いだ。昔何度かおばあちゃんと温泉に入りにいったことがあって、その時に嗅いだ匂いと同じなんだ。

…思えばこの時代に来てから、良くても川の水で汚れを落とすくらいしかできていないんだっけ…。まともなお風呂なんてもうずいぶんと入れていないし、なにより天然の温泉だなんて…今すぐにでも入りたい…!

そんな気持ちがうずうずと込み上げてきたけれど、ふとよぎった思考に思い出す。そんな寄り道、殺生丸さまが許してくれるのかな…って。それを思ってしまっては、ついちら…と殺生丸さまの表情を窺っていた。

するとそんな私に気が付いたかのように、殺生丸さまの目がこちらへ向けられる。


「……行きたければ好きにするがいい」


しばらく無言で見つめられて、そうとだけ告げられる。と同時に、踵を返して先に歩きだしてしまった。

あ、あれ…好きにしろって言ったのに行っちゃうの…? それとも、私だけ行ってこいってことなのかな…。そう思いながら一応邪見に温泉の方角を聞いてみると、「この先だな」と言った彼が指を差したのは、殺生丸さまが進んでいる方角だった。

…ということは…もしかして殺生丸さま、私に合わせてくださったのかな…? 私まだ“行きたい”って言えていなかったのだけれど、それでも伝わっちゃったのかな。もしそうだとしたら、それだけ表情に出てしまっていたのかも。
そう思うとなんだか少し恥ずかしくなって、なるべく普段通りを意識しながら、きゅ、と唇を小さく結んですぐに殺生丸さまのあとを追いかけた。




――そうしてしばらく歩いたあと、本当に温泉を見つけた私たちはそれの傍で夜を明かすことになった。そこで焚火をこしらえた邪見は「ここで待っているから、早く済ませてこい」と言って温泉がある方に背を向けてくれる。

私が先に入ってもいいのかな…なんて思ってしまうけれど、思い返してみれば殺生丸さまたちが水浴びをするところなんて見たことがない。それでも汚れている感じはしないし、臭ったりもしないんだよね…。
妖怪ってそういうものなのかな。それとも、私が知らないところで汚れを落としたりしているのかな。なんて疑問を抱いていたけれど、いつまでもここでもたもたしていると怒られそうな気がしたから「それじゃ…行ってきます」と一言かけて温泉へ向かうことにした。

数本の木々をすぎて辿り着いた温泉は、月明かりに照らされながら白く幻想的に揺れる湯気を立ち上らせている。その景色にほう…と小さなため息を漏らした私は、焚火から分けてもらった火を温泉の傍に置いて、そこに簡易的な明かりを灯した。
これなら少しの間温泉に浸かっていても暗くならないはず。それに小さく頷いて、そそくさと服を脱いでは乳白色のお湯にゆっくり浸かってみた。


「わ…暖かい…気持ちいい…」


思わずため息混じりの声が漏れてしまう。温かいお湯に浸かれるなんて、何日ぶりだろう。元の時代では当たり前だと思っていたけれど、こちらに来てからはこれが初めてというくらい貴重なことになっていた。それは、お風呂だけじゃない。洗濯も、食事も、なにもかも当たり前にできていたことが、こちらの時代では難しいことばかりだった。

それを体験したいまなら、元の時代は本当に恵まれていたんだって、痛いほどによく分かる。


「……」


――元の、時代。何気なく考えていたその言葉に意識を向けてしまった途端、少しだけ胸が詰まるような感覚を抱いてしまう。

いつしかこちらの生活に慣れてきて、帰る方法が分からないことも相まってずいぶんと時間が過ぎてしまった。こちらの時代にきてから、もうどれだけの日が経ったのかも分からない。それくらい長い間、おばあちゃんを一人きりにしてしまっている。
おばあちゃんになにかあったらどうしよう。私のことを探していたらどうしよう。もし私を捜して事故なんかに遭っていたら、誰も見ていないところで倒れてしまったりしていたら…そんな考えたくもない不安は止めどなく次々に湧き上がってきて、いつしか体を小刻みに震わせる私は、目尻に熱が滲みだす感覚さえ抱き始めていた。

――そんな時、


「風羽」
「!」


唐突に名前を呼ばれて、思わずはっと目を見張った。咄嗟に声がした方へ顔を上げてみれば、近くに備えた焚火の傍に殺生丸さまが立っていた。しかもよく見れば、どうしてかその手には一匹のサルが鷲掴みにされている。


「え…あ、あの…なにが…」
「お前、着物が盗まれていることに気付かなかったのか」


戸惑いと困惑が一気に押し寄せて混乱するままに声を漏らせば、殺生丸さまは怪訝そうな様子でそう返してくる。それに思わず「え?」と口にしてしまいながらもう一度サルを見てみれば、信じられないことにそれは私のブラジャーをしっかりと握りしめていた。


「きゃーーーーっ!? やっ、やだ見ないで…! 見ないでください殺生丸さまっ…!!」


血の気が引くとはこういうことか、と実感してしまうほどさあっと顔を青くしてしまった私は慌てて立ち上がってサルからブラジャーを取り返す。そのまま傍にあった服をすべてかき集めるようにして抱きしめながら後ずされば、殺生丸さまはわずかに眉をひそめて、それでいて呆れるように目を伏せながらため息をこぼされた。


「……風羽」
「うう…な、なんでしょうか…」
「湯に浸かれ。見えるぞ」
「!?」


端的に告げられる言葉に心臓が跳ね上がる。それにはもう声を出すこともできなくて、咄嗟の勢いに任せて殺生丸さまに背を向けながらざぶんとお湯に深く浸かっていた。おかげで服が少し濡れてしまった気がするけれど、いまの私にそれを気にする余裕はなくて。
ただ涙目で、真っ赤にした顔を俯けることしかできなかった。


「青ざめたり赤くなったりと、忙しい奴だな」


背後からため息混じりにそんな声を向けられる。殺生丸さまは何も思わなかったのかもしれないけれど、私にはもう一大事で、ただ恥ずかしさにぷるぷると震えながら「だって…だって…!」とうわごとのように繰り返すことで精一杯だった。
するとそんな私を見兼ねたのか、適当にサルを放ったらしい殺生丸さまが「…のぼせる前に出てこい」とだけを言い残して、邪見が待つ焚火の方へ静かに戻っていった。

対する私はというと、その足音が聞こえなくなってもなおうずくまったままで、恥ずかしさと申し訳なさと、やっぱり大きな恥ずかしさに苛まれるまま、のぼせる寸前まで温泉から出られなかったのであった。






「あ…上がりました…さっきはその、すみませんでした…」


なんとなくぎこちなさを胸に抱えたまま、おずおずと頭を下げながら殺生丸さまの元へ戻って焚火の傍に座り込む。見ると近くには邪見が転がっていて、彼はすでによだれを垂らすほど熟睡しているようだった。
よかった…邪見が起きていたらまたなにを言われるか分からないし、恥ずかしい思いを掘り起こされずに済む…。なんて安堵してしまいながら、なんとなく殺生丸さまの方を見られないまま服を乾かすように焚火に当たり続けていた。

…けれど、その彼の方から「風羽」と呼びかけられてしまう。思わずどき、としながらゆっくり顔を上げてみたのだけれど、向かいの木にもたれ掛かるよう座った殺生丸さまは普段通りの様子のまま、それでいて訝しむような雰囲気を纏いながら私を見ていた。


「お前…なぜ泣いていた」
「え…」


思ってもみなかった言葉を投げかけられて、戸惑うような思いを抱く。ほんの一瞬の間はその言葉が分からなかったのだけれど、徐々に、一人で不安に苛まれている時の感覚が甦ってきて気が付いた。そういえばあの時、止めどなく膨らんでしまう不安に涙を浮かべたかもしれない、と。
そんな時に殺生丸さまが来て、見られてしまったんだ。


「あ、あれはその…大したことではないんです。ただ一人でいたから、ちょっと考えすぎちゃったというか…」


少しだけ恥ずかしくなって、それでいて申し訳なさを覚えながら誤魔化すようにそう言って、小さく笑いかける。これは私の問題だから殺生丸さまにお話ししても仕方がないし…彼もきっと、そんな話をされても困るだけだ。
そう思って詳しいことは言わなかったのだけれど、殺生丸さまはそんな私を見つめるまま、


「元の世に戻れんことを憂いたか」


と、はっきり告げてくる。
それについ目を丸くしてしまった。どうして、なんて声が出そうになった。けれど驚いてしまう私に対して、殺生丸さまは「お前が憂えることなど、それくらいだろう」と当然のように言ってのけてしまう。
そう言われては否定もできなくて。私は申し訳なさを深めながら、焚火に影を揺らす地面へ静かに視線を落としていた。


「殺生丸さまの、言う通りです…その…私、元の時代ではおばちゃんと二人で暮らしていて…一人にしてしまったそのおばあちゃんのことが心配になって…つい、思い詰めてしまったんです」


もう伝わってしまっているのなら、と観念したように正直に話してみる。思えば、殺生丸さまにこのお話をするのは初めてだ。これまでは一緒に行動をしていても、帰り道なんて自分で勝手に捜せと言われていたから、だから詳しい話をする機会なんてなくて、そもそも殺生丸さまには興味のないことだと思って私からお話ししようともしなかった。

だけどいま、殺生丸さまはただ静かに私の話を聞いてくれている。


「帰る方法に心当たりはないのか」


私の様子を見ながら、殺生丸さまはそう問いかけてくる。こうして私のお話に付き合ってくださることは嬉しかったのだけれど、その問いに明るい返事ができなくて、私は肩を落としながら俯きがちに答えた。


「はい…こちらへきたのも、突然風に包まれて気を失って、気が付いたらすでに…という形だったので…手がかりにすべきものが、なにもないんです…」


もう何度も思い返した当時のことを脳裏に甦らせながら、膝の上の両手をきゅ…と握りしめる。

そんな私を、殺生丸さまはしばらくの間言葉もないまま見つめられていた。けれど不意に、その目が深く閉ざされたかと思うと、再び露わにされた瞳はどこか先ほどよりも真剣な、鋭さを持った瞳へ変わる。
そして、その瞳同様に真剣な声色で「風羽」と改めるように呼びかけられた。


「いずれ、再び犬夜叉の元へ行く。そのために代わりとなる左腕を捜すつもりだ。お前が帰るための手段を捜す時間も格段に減るだろう。そのうえ、お前にとってこれまで以上に耐えねばならぬことが増える。…それでもお前はまだ、私についてくるか」


唐突に、それでも至極真面目に問われる。
最初こそは、どうして突然こんなことを聞いてくるのだろうと思った。けれど、すぐに気付かされる。悩んでいるのは、この先のことを考えているのは私だけじゃないと。言葉や表情に出さない人だけれど、殺生丸さまだってきっと色々考えていたんだということを。
そして殺生丸さまはその結論を出して、その時私が帰れないを憂いていたから、こうして改めて私の意志を問いただしているんだ。

そう考えると、より申し訳なさを覚えながら黙り込む。だけど同時に、殺生丸さまが私の気持ちを聞こうとしてくださっていることが少し、嬉しくて。
私は両手をそっと握りしめると、深く頭を下げた。


「未熟な私ですが…精一杯頑張ります。なのでどうか…殺生丸さまのお供を続けさせてください」


頭を下げるままそう答えて、ゆっくりと顔を上げる。
答えは、これしかなかった。というのも、ここで一人見捨てられても、私にはどうすることもできないから。それは初めてこの人たちに出会った時から変わらない理由だった。けれど、それとは別に…殺生丸さまと離れることを、寂しいと思ってしまう自分がいたから。確立した理由もなく、別れたくないなんて思ってしまう自分がいたから、私は迷うことなくこの答えだけを選んでいた。

すると殺生丸さまはしばらく無言のまま私を見つめて。


「お前ならそう言うだろうと思っていた」


と、小さく呟かれた。それにえ、と小さく声を漏らしそうになったのだけれど、殺生丸さまはそれを遮るように私を真っ直ぐ見つめるまま言った。


「先ほどの言葉…後悔するなよ」


その言葉と一緒に、どこか意地悪く、小さな笑みを浮かべられる。

――きっとこの先も、私の想像を易々と超えてしまうような出来事がたくさん起きるに違いない。そう思わされてしまうような彼の笑みにたまらず小さく息を飲んでしまいながら、それでも私は答えを覆すことなく、一層の決意を固めるように「はい」と声を返した。


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