13



「でも、殺生丸さまが傷を負っている時に…なにもできない方が、もっと嫌です…」


瞼を落とした暗闇の世界で風羽の言葉が甦る。あの華奢な手が震えを抑えながら、私の腕を止血しようとした光景が甦る。

目を開けば、微かに差し込む月明かりを浴びながら横たわり眠る、風羽の姿が傍にあった。あの時震えていた手は落ち着きを取り戻し、風羽の顔の前に置かれている。少し手を伸ばせば届くそれに指先を触れさせ、容易く手折れそうなその指を小さく掬い上げた。

――風羽は弱い。人間だから分かり切っていたことだが、これは並の人間に比べても臆病で弱々しい。血を見るだけでも震え上がり顔色を悪くするほどだ。
だというのに、そんな風羽は昨夜、最も苦手とする血を前にしながらも自ら私の手当てを始めた。それも、私に“なにもできない方が嫌だ”と言って。

…おかしな女だ。私は風羽にそう思わせるほどのなにかを施した覚えはないというのに、己の目的のためだけに動けばいいというのに、それでも風羽は私に付き従い、怯えながらも懸命に私に尽くそうとする。

真に、理解できん。


「これから知っていただけると、嬉しいです」


私の思いに応えるように、風羽の言葉が、微笑みが甦る。
その時、眠っているはずの風羽が小さく私の指を握ってきた。その感触に風羽の顔を見るが、それは変わらず目を閉ざし、規則的な寝息を安らかに繰り返すだけ。

どうやら起きたわけではないらしい。それが分かる風羽を見つめ、再び握られる手へと視線を落とした。


「……」


私の指先を包む、頼りない温もり。しばしそれを払うべきかと考えるように眺めていたが、ふと、紺碧深まる空を静かに仰ぎ見た。
夜明けはまだ遠い。空に掛かる高い月にそれを悟っては、再び目の前のそれへ視線を戻す。

そしてそっと輪郭をなぞるように、私の指を放さない華奢な手に親指を滑らせた。



* * *




チチチ、と小鳥の鳴き声が聞こえる。その声に誘われるように目を覚ました私は、ぼんやりと広がる視界に自分の手を捉えてみた。
それは、顔の傍に放られているだけ。なにも握っていなくて、なにかに触れているわけでもない。ただなにも変わりない、私の手だけがそこにあった。


(…夢…かな…)


寝起きのぼうっとした頭で手を見つめるまま、そんなことを思ってしまう。というのも、ついさっきまで、温かいなにかが私の手に触れていた気がしたから。私がなにかを握っていたような、そんな感覚があったから、こうして寝起き一番に確かめていた。
だけどそれは夢だったみたいで、私の手の中にはなにもない。それを実感するように、ぼんやりとしたまま手を緩く握ったり開いたりしていると、


「目が覚めたのか」


という少し小さな声が私の背後から降らされた。この声は殺生丸さまだ。そう直感的に察した途端、昨晩の彼の痛々しい姿がフラッシュバックして。それにはっと目を見張った私は弾かれるように飛び起きると、すぐさま彼の方へと振り返っていた。


「…なにを焦っている」


身を乗り出さんばかりの勢いで見つめる私に、殺生丸さまはわずかに怪訝そうな表情を覗かせながら言う。そんな彼の姿に、私は少し呆けるように目を丸くしてしまった。


「あ、あの…殺生丸さまの怪我が…気になって…」


呆然とするまま、ぽつりぽつりと呟くように答える。果てには自信がなくなるように声が萎んでしまったのだけれど、それもこれも、殺生丸さまの様子が原因だった。

彼は昨晩、瀕死…とまではいかないけれど、それでもかなりの痛手を負っていた。…はず、なのに、いま目の前にいる殺生丸さまはそんな出来事が嘘だったかのように、以前と同じくらい平然とした落ち着きを取り戻しているように見えるのだ。
おかげで私の頭は少し混乱状態。昨晩のことが夢だったのか、それともいまこの状況がまだ夢の中なのか…そんなことを思ってしまうほど、頭の上にたくさんの『?』を浮かべてしまっていた。

――けれど、確かめるように向けた視線の先。彼の着物のお腹や左腕のところには確かに血の染みが残っていて、それを目にした途端、胸の奥でドキ…と小さく嫌な鼓動が響いた。

やっぱり昨晩のことは夢じゃない。それなら…どうして殺生丸さまはこんなに落ち着きを取り戻しているんだろう。そんな疑問を抱いた私はその赤黒い染みを見つめるまま、おずおずと殺生丸さまへ問いかけてみた。


「あの…お体の方は大丈夫ですか…? 顔色は、よくなったように見えるんですけれど…」
「……」


私の問いかけに、殺生丸さまは黙り込んだまましばらくこちらを見つめてくる。かと思うと、不意に目を伏せて「ああ」とだけ短く返してくれた。けれど返事はそれだけで、肝心の傷の状態なんかは一向に見せてくれそうにない。

もしかしたら…血を苦手としている私のために、あえて見せないようにしてくれているのかもしれない。そう考えたのだけれど、見せられないのは却って不安になるというか、悪化しているんじゃ…といらない心配を膨らませてしまう気がして。
この目でしっかり確かめたい、と思ってしまった私は小さく息を飲みながら、殺生丸さまへ懇願するような目を向けた。


「……」


そんな私の視線を感じ取ったのか、もう一度こちらを見た殺生丸さまが無言のまま視線を注いでくる。するとやがて、呆れたように小さくため息をこぼされた。

お、怒られるかな…。そんな心配を胸のうちによぎらせかけた、そんな時。殺生丸さまの右手が左の袖を掴み込むと、それを無造作に深くまくり上げた。


「これで信じる気になったか?」


そうつまらなそうに言い捨てる殺生丸さまの左腕。そこに生々しく見えていたはずの傷口は、どうしてか、たった一晩しか経っていないとは思えないほど綺麗に塞がり始めていた。

ありえない…。だって、治療もできていないのに。そう思ってしまう私は驚きのあまり声を出すことができなくて、戸惑うままにその不思議な傷口を見つめていた。けれど、殺生丸さまはそんな私の視線を遮るように袖を下ろしてしまう。まるで、もう十分だろうと言わんばかりに。

それに我に返るような思いを抱いた私は、隠された左腕から殺生丸さまの顔へと視線を上げて、呆気にとられるような感覚のまま問いかけていた。


「あの、もしかしてそれは…妖怪だから、ですか…?」


自分でも信じられないという気持ちを抱えながら、そう口にする。それは、いつか邪見から聞いたことだった。妖怪は人間よりも頑丈で、さらには傷を負ってもすぐに治るのだという話。

その時は“そうなんだ…?”くらいにしか思っていなかったけれど、いままさにその話の信憑性を裏付けるような光景を見せられては、それも本当だったんだと信じざるを得ない気持ちになってくる。そして、殺生丸さまが目を伏せながら「そうだ」と短く言ってしまう姿に、なんだか感嘆のような、感服のような、不思議な感覚を抱いてしまうような気がした。

…これが、妖怪と人間の違い…。

いままでも力の強さや色んなことでその差を見せつけられていたけれど…このあり得ないくらいの回復速度まで目の当たりにしてしまっては、やっぱりこの二つの種族は決定的なまでに違うんだって思い知らされてしまう。
もちろん、決して同じだとか…近しいものだなんて思ってはいなかった。けれど、それでもどうしてか…少しだけ疎外感のような、見えない壁のようなものを感じてくる。

妖怪は怖いものだって思ってるはずなのに…私、変だな…。

ついそんな風に考えて視線を落としていた時、ふと茂みの向こうから小さな足音が聞こえてきた。それはどうやらこちらへ向かってきている様子。
それに気が付いた私は途端に少しばかりの警戒をした――けれど、なぜだかすぐ傍の殺生丸さまには警戒の様子どころか、特に目立った反応さえない。まるで、気に留めるほどでもないというように。

そんな姿に“もしかして…”と予感をよぎらせた時、近付いてきた足音が茂みをガサガサガサと鳴らしながらすぐそこまで迫った。そして――


「ただいま戻りました、殺生丸さま…ん? なんだ風羽。起きておったのか」


茂みから覗いてくる顔に、そんな声を掛けられる。
そう、足音の正体は邪見だった。殺生丸さまが全然警戒しないからなんとなく予想はできていたのだけれど、実際にその姿を確かめられてようやく肩の力が抜けるような安堵を感じられる。

…そういえば、起きてすぐ殺生丸さまの傷に気を取られていて分からなかったけれど、思えばずっと彼の姿を見ていなかった気がする。一体どこに行っていたんだろう、なんて考えながら邪見に「おはよう」と声をかけると、彼は「うむ」とだけを返してこちらへ歩み寄ってきた。
かと思えば、なにやらたくさん抱え込んだ木の実をころころと転がすように私の前に置いてくる。


「…? 邪見、これは…?」
「近くで見つけたものだ。お前、昨晩からなにも食っておらなんだろう。いくつか採ってきてやったから、これでも食っておけ」


そう話す邪見は昨晩の焚火跡にもう一度火を灯し、懐から取り出したイモリを枝に刺してじっくりと炙り始めた。その姿を見るに、どうやら自分の食糧は別で採ってきている様子。それが分かる彼の姿についぽかんとするよう瞬きを繰り返していると、それに気が付いた邪見が不思議そうな顔を向けてきた。


「どうした。食わんのか?」
「え、あ、えっと…これって…私のために…?」


至極平然とした邪見に戸惑いながら、様子を窺うようにそっと問いかける。
というのも、彼が私のために食べ物を採ってきてくれたことなんてなかったから。こんな風に気を遣ってくれたことなんてなかったから、なんだか信じられなくて、つい確認をしてしまいたくなったのだ。

すると邪見はそんな私の気持ちを察したのか、どこか訝しむように少しだけ目を細めて言う。


「なんだ。わしがお前のために食いものを採ってきてはおかしいのか」
「えっ。そ、そんなことないよっ。ただ少し、びっくりしただけ…」


疑うような邪見の目に慌てた私はすぐさま思ったままに弁解する。そうして「ごめんね」と謝るのを、邪見は変わらず半眼で見つめるままに聞いていた。

けれどその目が逸らされた時。どこか気まずそうな、気恥ずかしそうな、少し落ち着かない様子を見せる邪見がくちばしをより尖らせるようにして言ってきた。


「ま、まあ、お前がそのような反応をするのも無理はない。わしも…お前のことを少し、誤解しておったようだからな」


ごにょごにょと口籠るようにそう呟く邪見。その声があまりにも小さくて、よく聞き取れなかった私が「え…?」と声を返しながら首を傾げたら、邪見は途端に私の方へ振り返ってまくし立てるよう声を上げた。


「す、少しはお前のことを見直してやろうと思ったと言っておるのだっ。お前はただ怯えてばかりかと思っておったが…昨晩の様子を見るに、時には恐怖に向き合う覚悟があるのだと分かったからなっ。それだけだ!」


そう言い切るなり、ぷいっ、と顔を背けられる。

きっと邪見は、私が苦手な血を我慢して殺生丸さまの腕に応急処置を施した時のことを言っているのだと思う。理由がそれだけなのかは分からないけれど…そんな予想外の言葉を向けられた私は、言葉を返す余裕もないくらい驚いて。ただ呆然とするように、邪見の方を見ていることしかできなかった。
それが不満だったのか、少し照れくさそうにほんのりと赤くなった邪見が食いかかるよう振り返ってくる。


「な、なんとか言ったらどうなのだっ」
「えっあ、えと…あ、ありがとうっ…?」
「なぜ自信なさげに言う! そこははっきり言えばよいであろうがっ」
「ご、ごめんっ! ありがとうございますっ…!」


照れも忘れてぎゃんぎゃんと怒鳴ってくる邪見に戸惑うまま慌てて頭を下げる。な、なんだか褒めてくれているのか怒られているのか分からなくなっちゃったけれど…邪見は腕を組みながら「それでよい」なんて言っていて、ちょっとだけ満足そうだった。

納得、してくれたのかな…? そんな様子にほっと一息ついては、彼がくれた目の前の木の実に視線を落とす。それは私の手のひらに収まるくらいのサイズの、特に変哲もない木の実のよう。種類はよく分からなかったけれど、恐る恐る試しに小さく齧ってみたら少し酸っぱくて、けれどほんのり甘くてとても優しい味がした。


(…邪見…わざわざ私のためにこれを捜してきてくれたのかな)


もしそうだとしたら、初めてのこと。そう考えてしまうと、なんだか邪見が少しばかり優しくなってくれた気がしてくる。いままでは睨まれたり素っ気なく突き放すような態度をとられてばかりだったのに、いま目の前の彼は態度こそ偉そうでも、私のことをちゃんと気にかけてくれているように感じられたから。

本人も“少しは見直してやろうと思った”って言っていたし…変わったと思うのは、気のせいじゃないのかな。私、ちょっとは認めてもらえたのかな…。


(…じゃあ、殺生丸さまは…?)


ふと、そんな疑問を抱いてしまう。邪見が優しくしてくれたから、もしかして…なんて考えてしまうのはよくないと思うけれど、それでも、少しばかり期待をしてしまう私がいる。
だって、昨晩は初めて名前を呼んでもらえたくらいだし…

なんてことを考えながら、殺生丸さまの様子を窺おうとした――そんな時、不意に伸ばされた白い手が私の顔の傍を、そこにある髪を撫でるよう緩やかに触れてきた。


「えっ」


突然のことに思わず短い声が漏れる。体が固まる。確かめるようにその手の向こうへ視線を向けてみると、どうしてか私を見つめる殺生丸さまが、ただ無言のまま私の髪を撫でている様子がはっきりと見てとれた。
その手に何度も小さく撫で下ろされる感触が、髪越しに耳へと伝わってくる。


「ん、うっ…あ…あの…殺生丸、さま…っ?」


時折耳に直接触れるのがくすぐったくて、きゅっ…と身を縮こませながら彼の名前を呼び掛けた。なにをしているんですかって、尋ねるように。すると殺生丸さまはもう一度私の髪を優しく押さえるように小さく撫でて、ついには、そこを緩く摘まむように持ち上げた。


「目覚めた時から髪が乱れている。無様だから直しておけ」


微かにため息交じりで呆れたように告げられる言葉。それにえ、と声を漏らしては、放されたそこを確かめるように触れてみた。すると確かに分かる、跳ねたりくしゃくしゃに乱れているひどい寝癖。
まさかこんなにひどい寝癖がついていたとは思いもせず、途端にかああっ、と顔へ熱を登らせた私は「いっ、いますぐ整えてきますっ」と言い残し、すぐさま邪見を引っ張って全力で川を捜しに走りだした。


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