12



「ばっ、ばかな…犬夜叉はともかく、殺生丸さまにすら抜けなんだ鉄砕牙を…なぜ人間の小娘が…」


大きく目を見張る邪見が震えそうなほど愕然とした声を漏らす。その言葉の通り、犬夜叉くんの連れの女の子は殺生丸さまにも犬夜叉くんにも抜けなかったあの古い刀を易々と抜いてしまったのだ。
おかげで私たちは目を疑うように彼女を見つめていて、その子自身も驚いた様子で刀を見つめ、呆然とこちらに顔を向けてくる。

あの子が戸惑っているのは一目瞭然だった。それと同じように、私もどう反応すればいいのか困ってしまいそうになったのだけれど、その時、突然向こうから「よそ見してんじゃねーっ」という犬夜叉くんの大きな声が聞こえて激しい破壊音が響かされた。その音に私が思わず大きく肩を揺らしてしまって振り返るも、そこにはすでに殺生丸さまの姿がない。気が付けば彼は、あの一瞬の間に女の子へ迫っていた。


「貴様何者だ。なぜ鉄砕牙が抜けた…?」


殺生丸さまが低く、女の子へ問いかける。その声はいままでにないほど怒気を孕んでいるような気がして、離れた場所の私でさえゾクリとするほどのものだった。だけどそれを向けられた女の子は全然怯える様子もなく、「こ、来ないで、斬るわよ!」と果敢な声を上げながら抜いた刀を殺生丸さまに向けている。


「殺生丸手を出すな! その女は関係ねえ!!」
「そうもいかんだろう。貴様の連れなら尚更だ」


大きな声を上げた犬夜叉くんが駆けだすのと同時に殺生丸さまのしなやかな指が曲げられる。途端に、悪寒が走った。殺生丸さまの瞳が冷たく細められて、なにやら不穏な気配がその右手に纏われた気がしたのだ。

だめ、やめて。思わず発してしまいそうになったその思いが口に昇る間もなく、殺生丸さまの右手は女の子へ素早く突き出されてしまう。


「我が毒華爪にて消滅せよ」
「!!」


ジュッ、と大きな音が響く。見張った私の目に、猛毒を浴びせられる女の子が映る。思わず両手で口元を覆ってしまうほど息を詰まらせた私の視線の先で、瞬く間に溶かされた大きな骨が女の子の姿を隠すように覆い尽くしてしまった。
すぐに駆け付けた犬夜叉くんが溶けた骨の中へ手を突っ込んだけれど、彼は痛みに顔を歪めてその手をすぐに抜いてしまう。それほどまでに、強い毒。

あの子は私と同じ人間だった。人間が、あんなものを正面から浴びせられて、助かるはずがない。


「つまらん。ただの女だったのか」


液状の骨から刀だけを覗かせて、ピクリとも動かない彼女に目を向けることもなく。ただ静かにそう言い捨ててしまう殺生丸さまは、もう興味も失せたと言わんばかりに女の子から顔を背けた。

そんな彼と、目が合った。その時殺生丸さまは私を見てわずかに眉をひそめたけれど、その理由もなにも口にすることはなかった。ただ静かに、私からも目を背けてしまう。それに対して私はというと、その時ようやく自分の手が微かに震えていることに気が付いて、まるで殺生丸さまから隠すようにその手を後ろへ追いやっていた。

見られた、かな…そんな思いをよぎらせた――次の瞬間、犬夜叉くんから突然弾かれるように怒号が上がった。


「殺生丸ーー!」
「うるさい、貴様も消えろ」


襲い掛かる犬夜叉くんに、殺生丸さまも毒の爪を構えて迎え討とうとする。だけどその犬夜叉くんはいままでにないほど速くて、ほんの一瞬目を丸くした殺生丸さまの鳩尾へ容赦なく拳を叩き入れてしまった。
初めて、攻撃が届いた。


「な、なんで、さっきまで掠りもしなかったのに」


私と同じように驚く邪見が声を上げる。だけど当の殺生丸さまは涼しい顔のまま、鎧が崩れ落ちるのも目に留めないで余裕そうに犬夜叉くんを見据えていた。


「どうした犬夜叉。たかが人間の女のことで…」
「てめえ…次は腹わた引き摺り出してやる」


バキ、と音が鳴るほど指をしならせる犬夜叉くんが強く殺生丸さまを睨みつける。犬夜叉くんにとってあの女の子が仲間だからなのか、それともそれ以上の関係だからなのか…詳しいことは分からないけれど、あの子が襲われたことで犬夜叉くんがこれ以上ないほどひどく怒っているのは誰から見ても明白だった。

…そう、だよね…目の前で殺されたんだもの…。それを思い出すと途端に手の震えが大きくなって、堪えるようにギュ…と握りしめた。と同時に、横目で彼女が埋もれた場所を見てしまう。
見たって恐怖心が煽られるだけだ、すぐに後悔するだけ。そう分かっているのに目を向けてしまったそこで突然、唯一姿を見せている刀が微かにもギギ…と揺れ動いた。


「きゃっ!? う、動いた…!?」
「え゙!?」
「!」


思わず声を上げてしまった私と同時に、同じ場所を見ていた犬夜叉くんが目を丸くする。それは殺生丸さまも邪見も同じで、見間違いではないその現象に、みんなが揃って目を向けた――その時だった。


「ぶはっ、死ぬかと思った」


突然液状の骨の中からガバ、と起き上がった女の子がそんな声を上げる。それは幽霊ではなく、どう見ても生きている生身の姿。そんなあり得ない光景に私が呆然としてしまっていると、同じく驚いた様子の犬夜叉くんが「な゙っ…」と短い声を漏らして彼女を見ていた。
けれど女の子はそんな私たちに構うことなく、犬夜叉くんの元へ歩み寄ってはビッ、と殺生丸さまへ刀を突きつけてみせる。


「あんた! あたしまで本気でやったわね。たっぷり反省させてやるから、覚悟しなさいよ!」


女の子は殺生丸さまへ勇ましくそう言いやると、持っていた刀をあっさりと犬夜叉くんへ手渡してしまう。

あ、あの子…あんな毒を浴びたのに平気な顔してる…それどころか、怪我のひとつもないみたい。ど、どうして…? あの子も人間、なんだよね…?


「そうか…刀の結界に守られたのか…」


私が立ち尽くしたまま疑問ばかりを抱えていると、殺生丸さまがなにかを悟ったように呟いた。刀の結界って…殺生丸さまを弾いた、あの光? あれが女の子を守ったの…?

また新たに不思議な現象を目の当たりにして狼狽えてしまう中、不意にあの姿の見えない小さななにかの声が大きく響かされた。


「犬夜叉さま、躊躇うことはない。殺生丸さまのお体にて、鉄砕牙の試し斬りなさいませ!」


“殺生丸さまで試し斬り”…? なんだか不穏な言葉に眉をひそめてしまったその時、「ふっ、ようもほざいた…」なんて声が聞こえてひどい悪寒に体を震わせた。
慌てて振り返ったそこには、目を赤く染めた殺生丸さまの姿。その周囲には得も言われない気配が漂っていて、殺生丸さまの髪や着物が大きく揺らめき始めた。


「貴様如き半妖に鉄砕牙が使いこなせるかどうか…この殺生丸が見届けてくれるわ」


殺生丸さまが嘲笑うようにそう言い放った途端、彼の長い髪がさらに長く伸びながらなびき、着物が質感を変えて大きく広がっていく。
明らかに只事ではない、それを感じ取ると「い、いかんっ」と声を上げた邪見が私の袖を強く引っ張ってきた。


「風羽、いますぐ安全な場所へ逃げるのだ!」
「えっな、なんで…」
「いいから早くしろっ!」


なにが起こっているのかも分からないまま、顔色を変えた邪見の勢いに圧されてすぐさまその場を駆けだした。そして刀が刺さっていた台座の後ろへ逃げ込んでは、再び殺生丸さまの姿を窺う。

するとそこにいたのは私の知っている殺生丸さまではなく、白く長い毛並みをした大きな化け犬だった。


「え…!? あ、あれってもしかして…殺生丸さま、なの…!?」
「そうだ。あれこそ殺生丸さまの真のお姿…」


私と一緒に影を潜めながら邪見が教えてくれる、けれど、その言葉を理解するにはずいぶん時間が必要だった。
だって私が知っている殺生丸さまは、ところどころが違っていてもほとんど人間のような姿をしていたから。だからいま犬夜叉くんたちの前に立ちはだかる、私たちの何倍も大きな体をした白い化け犬が殺生丸さまだなんて言われても、そう簡単に信じられるはずがなかった。

確かに言われてみれば、額や頬の模様…それと、肩に掛かっていたもふもふの毛が彼の面影を残しているように見えなくはない。けれど共通点なんて本当にそれくらいで、それ以外はなにもかもが違っていた。
だというのに邪見や犬夜叉くんといった殺生丸さまを知っている人たちは、当たり前のようにこの光景を受け入れているよう。


(本当に…妖怪なんだ…)


初めて見るその姿に、つい考えを改めるような思いを抱いてしまう。もちろんいままでも信じていなかったわけじゃない。けれど、やっぱりこうして人間離れした姿を見せられると、どうしてもそんな思いがよぎってしまって仕方がなかった。

そんな私の視線の先で、犬夜叉くんがあの刀を手に突然殺生丸さまへと跳び掛かった。だけどその刀は刃こぼれしたボロボロの錆び刀。そんなものを叩き付けても当然ダメージはなくて、犬夜叉くんが刀の無力さに戸惑っている隙に殺生丸さまが容赦なく鋭い牙で襲い掛かっていた。


「ね、ねえ邪見…殺生丸さまは本当に犬夜叉くんを殺す気なのかな…」
「はあ? なにをいまさら」
「だって、兄弟で殺し合うなんて…」
「兄弟で殺し合うことのなにがおかしい。ましてや殺生丸さまは犬夜叉のことなど、弟だと認めてはおらんのだぞ。こうなることは当然であろう」


説得に近い邪見の言葉になにも言い返せなくなってしまう。確かに、この時代なら兄弟で殺し合うことも不思議じゃないのかもしれない。戦ばかりの時代なのだし…。
でも…それでも、同じ父親を持つ者同士が、そのお父さんのお墓で殺し合うなんて、あまりにも酷すぎるんじゃないかと思ってしまった。

犬夜叉くんも、殺生丸さまを殺すつもりなのかな…そんな不安がよぎって目を向けてみると、溶けて固まった骨の陰に隠れる女の子の元へ訪れていた彼が殺生丸さまの方へ歩いていく姿が見えた。まるで覚悟を決めたような表情。
…ということはやっぱり、彼も一緒なんだ…。それを思ってしまうと嫌な予感に胸が苦しくなる。

そんな時不意に、邪見が台座の影から飛び出していった。かと思えば殺生丸さまに向かって、


「殺生丸さまー、犬夜叉如き半妖なんぞ頭から喰ってしまいなされ〜」


と声を上げた――その瞬間、突然大きな塊が投げつけられて「お゙ゔっ」という声が響く。いきなりのことに驚いてそれが飛んできた方角を見てみれば、女の子が「負けないわよっ」と言って邪見を睨みつけていた。
あの子が骨の塊を投げたみたいだけど…ど、どうしよう。潰された邪見を助けにいくべきかな…と悩みながら足を踏み出そうとした途端、女の子の目が警戒するようにこちらを向いて、慌てた私は台座の装飾に隠れてしまった。

――その時だった。ダン、という大きな音が聞こえて、直後に肉と骨を断ち切るような嫌な音が響かされたのは。


「!!」


息が詰まった。目を疑った。けれど目の前の光景は現実で、左腕を真っ二つに斬り裂かれた殺生丸さまがそのまま腕を断ち切られ、大量の血を噴き出しながら地面に沈んでしまっていた。

うそ。どうして。殺生丸さまが、腕が、そんな、あの刀は斬れないはずじゃ…

目の前が真っ白になりそうで、呼吸が苦しくて。なにも分からないまま震える視界で捉えたのは、錆び刀なんかじゃない、白い牙のような大きな刀身に変わった鉄砕牙を握る犬夜叉くんだった。

ほんの一瞬目を離した隙に変わり果てた刀。誰もがそれを見つめている中、止めどなく血を流す殺生丸さまがその体を起こし始めていた。
殺生丸さまは諦めていない。私がそれを悟った瞬間、殺生丸さまは勢いよく犬夜叉くんへ牙を剥いた。


「殺生丸! これで終わりだ!!」


犬夜叉くんの声が響く。彼が構えて駆けだすのが見える。スローモーションのようにゆっくりと流れていく景色の中、悲鳴に近い声を上げた私もまた駆け出していた。足が重い、うまく動かない。いやだ、いや、やめて。その刀を振らないで。早く、はやく、彼を止めなきゃ。このままじゃ、殺生丸さまが、殺生丸さまが……

意識ばかりが逸って体が追い付かない私の目の前で、鈍くも凄まじい音が響かされた。伸ばした手は、これっぽっちも届いていなかった。指の先まで強く、強く伸ばしたのに、届かなかった。


「殺生丸さま!!」


刀を振り切られた勢いに圧されて、殺生丸さまの体は壁を突き破ってしまった。

落ちる――その三文字が頭をよぎった瞬間女の子が「待って!」と声を上げた気がしたけれど、私は一切の躊躇なく殺生丸さまを追って飛び降りていた。伸ばした手は、今度こそ、彼の白い毛を掴んだ。
その時、頭上で微かに邪見の声が聞こえた気がしたけれど、彼が追ってきているか確かめる余裕は、いまの私にはなかった。

やがて、痛いくらいの青空が、不思議な光に遮られて見えなくなった。



* * *




気が付いた時には浮遊感が消えていて、私たちを包んでいた不思議な光もなくなっていた。殺生丸さまが意図的にこの場所を選んだのかは分からないけれど、辺りには薄暗い森のような風景が広がっている。傍には邪見が、泣きそうな顔を地面にこすり付けるように頭を垂れていた。

それに気が付いた時ふと、握り締めているのが柔らかい毛ではなくて、着物の冷たい感触になっていることにはっとした。
戻っている、殺生丸さまの体が。だけど、戻っているのは彼の姿だけ。そこに、彼の左腕はなかった。あまりに目まぐるしい出来事だったから夢だと思いたかったけれど、確かに失われた殺生丸さまの左腕が、斬り付けられた胸が、流れる血が、現実だと。夢ではなかったのだと、嫌というほど私に知らしめていた。


「せっしょう…」


口を突いて出た声は、すぐに小さく萎んだ。顔を覗き込むと目を伏せられていて、眠っているわけじゃないと分かっていても、声を掛けちゃ、邪魔をしちゃいけないと思った。

静かにしていよう。ただ、止血くらいはしておかなきゃ…そう思ったけれど、手元には救急箱もなにもない。あるものは邪見が持ってきてくれていた私の洋服と、それを包む風呂敷。一番使えそうなものは風呂敷だけど、これで止血なんてできるのかな…。
やったこともない応急処置に不安がよぎる。けれどもたもたしてもいられなくて、すぐに風呂敷を広げた私はそれを細く持ち、殺生丸さまの表情を窺った。


「殺生丸さま…ごめんなさい…少し、きつく縛ります…」


そう言うと殺生丸さまの瞳が露わになった。もう赤くない、いつもの金の瞳。それが静かに、まるで“構うな”とでも言うように私を見た。けれど私は返事も聞かないまま殺生丸さまの左腕に風呂敷を回して、傷の少し上で強く縛り付けた。

とりあえず、これでひとまずの止血は大丈夫だと思う。あとは血を拭いたりしたいのだけど、近くに川なんかはないのかな…。そう思って立ち上がろうとした時、グ、と袖が張り詰めた。


「え…殺生丸さま…?」
「……また、一人で出歩くつもりか…」


眉をひそめたまま、低い声でそう問いかけられる。また、という言葉に、かつて一人でいた私が襲われかけたあの時のことが脳裏をよぎった。


「あの、ハンカチを濡らしたくて…川を…」
「せ、殺生丸さまっ。この邪見めがともに…」
「良い。お前らの手など借りずとも、じきに治る…」


殺生丸さまがこんな状況だからか、珍しく邪見が私に手を貸してくれようとしたのだけれど、それは呆気なく制されてしまった。さらには反論も許さないかのように、“大人しくしていろ”とでも言うように見つめられたため、袖を放されてからも躊躇いに動くことができなかった。

押し切って川を捜しに行けばいい。そんな思いもよぎったけれど、それでもし万が一私がまた襲われるようなことになってしまったら、それこそ一層の迷惑をかけてしまうだけだということも分かっていた。だからこそ足を踏み出すことができないまま、もどかしい思いに小さく唇を結んで。やがて渋々観念するように、殺生丸さまの傍へ腰を下ろすことにした。

それでも、せめて傷に触れないところの血くらいは拭っておくべきだよね…。そう思って握り締めたハンカチをそっと殺生丸さまの左腕に近付けるけれど、それは不意に向けられた殺生丸さまの問いに止められてしまった。


「怖くはないのか…」
「え…?」
「お前は、血が苦手だっただろう…」


疲労感を露わにしながら気だるげに、それでもしかと言葉を紡がれる。突然のことになにを言い出すんだろうと思ってしまったけれど、確かに、殺生丸さまが言ったことは正しかった。私は血を見るのが苦手で、この世界にきてからずっとそれに震えてばかりいる。いつ見ても、何度見ても、血は怖くて仕方がない。

――だけど…それもいまだけは、この時だけは我慢ができた。


「本当は、苦手です…でも、殺生丸さまが傷を負っている時に…なにもできない方が、もっと嫌です…」
「……」


着物に滲む血を見つめながら、声を絞り出すようにして答える。考えないようにしていたのに、問われたことで意識してしまって、手が小さく震えてきた。それに気が付いてはすぐに抑えるようにハンカチを握り締めて、思考を手当の方へと切り替えるべく、殺生丸さまの腕や胸にハンカチを宛てがった。

殺生丸さまはそんな私を黙ったまま見据えていたのだけど、視線はそのままに、だけどいつかのことを思い出すように小さく呟きだした。


「あの時…人間の女に手を出した時も、お前はそのように震え…怯えていたな…」


ポツリ、ポツリと、こぼすように語られる言葉に手が止まる。隠したつもりだったけれど、やっぱり見られていたんだ。しかも殺生丸さまはそれを、覚えていた。
顔色を窺うように小さく顔を上げると、殺生丸さまはやっぱり私を見たまま、それでもようやく私と目を合わせられる。“そうだろう”と、問いかけてくるような瞳が私を見つめる。それに言い得ない気まずさを感じては、無意識のうちに目を逸らしてしまっていた。


「た、確かにあの時…私は…怖いって、思いました…」


言い辛い言葉をなんとか紡ぎ出すけれど、殺生丸さまの顔色はなにひとつ変わらない。まるで知っていたと、当然だと言わんばかりに、私から視線を外してしまった。


「でも…違うんです」


咄嗟に弱々しくもはっきりと言い切れば、殺生丸さまの瞳がもう一度私に向いてくれる。どこか怪訝な色をしたその瞳を見つめたまま、私は赤く染まったハンカチを握り締めて言った。


「私は臆病なので、殺生丸さまの行動に怯えてしまうこともあります…でもそれは…殺生丸さまが怖いわけじゃないんです。殺生丸さまのことは、頼もしく思っています。…それに、この関係は一時的なものかもしれないけれど…それでも、私はもう、殺生丸さまの従者です。主が強いことは、決して悪いことではありません。安心していい証拠だって…そう思えます」


自分で話しながら、なんて都合がいいんだろうと思ってしまう。けれどその気持ちに偽りはなくて、ただ信じてほしいと、この気持ちが伝わってほしいと願いながら殺生丸さまを見つめ続けた。
もしかしたら、また“甘い”って怒られてしまうかもしれない。そんな予感を抱えるまま殺生丸さまの瞳を捉えていると、彼は固く口を閉ざしたまま、感情の読み取れない表情で同様に私を見つめていた。

――その時、


「…風羽…といったか…」
「え…」


不意に、殺生丸さまの口から私の名前が紡がれる。思わず耳を疑った。どうして突然、私の名前が出てくるんだろうって。いままで呼ばれたこともなかったのに、って。
覚えてさえいないと、思ってた…。


「は…はい。なんでしょうか…?」


わずかな動揺を隠すことができないまま、それでもなんとか平静を装って、用件を尋ねてみる。すると殺生丸さまはどこか呆れた様子で、


「お前は…よく、分からぬ奴だな」


ただ静かに、そう仰られた。それは私が殺生丸さまとは違う人間だからなのか、この時代の人間じゃないからなのか。どういう思いで言ったのかは分からなかったけれど…それはお互いさまじゃないですかって、少しだけそう思ってしまった。私だって、まだあなたのことはよく分かりません、って。
だけどそんな思いを声に出すことはなくて、


「これから知っていただけると、嬉しいです」


自然と口を突いて出た言葉だけを、殺生丸さまへ向ける。自然と緩んでしまう頬をそのままに、小さく笑いかけた。
気が付けば私の中にはもうあの時に感じた恐怖はなくて。代わりに、以前助けてもらった時に感じたものと同じ、温かい感情だけが胸の中に満ちていた。

今日の風は…なんだか、温かい。


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