09



あれからというもの、邪見はたった一人でどこかへ走って行ってしまった。彼の身長がかなり低いから、背の高い草むらに入っていったその姿はあっという間に見えなくなって。どの方角へ向かったのかも分からず困惑してしまう私と違い、殺生丸さまは行き先が分かっているかのように寸分の迷いもなくその足を進められていた。
そんな彼の二、三歩後ろを、私はただ大人しく子ガモのようについて歩く。

そうしている間にも、いつしか辺りは濃霧に包まれる暗くて不気味な場所へ変わっていた。近くにこんな場所があったなんて知りもしなくて、幽霊だとか、なにか見えてはいけないものが見えてしまいそうだと思ってしまった私はついブル、と身を震わせる。そして絶対に置いて行かれないようにと殺生丸さまの半歩後ろほどまで近付いて、それ以上離されないよう必死についていく。
加えて、気を紛らわすためにそっと口を開いてみた。


「あ、あの、殺生丸さま…」


無言で歩いていく背中に呼びかけてみれば、殺生丸さまは振り返ることも視線をくれることもなく「なんだ?」と短い声をくれる。私は一度だけ置いてきた鬼の方へ振り返って、それからもう一度その背中に視線を戻した。


「さっきのは…お芝居、だったんですよね。あの女の人は、偽物かなにかですか…?」


言いながらあの人が痛めつけられる声を思い出しそうになって、少しだけ声が震えかける。それでもなんとか絞り出した声はちゃんと届いているはずなのだけど、殺生丸さまは依然として前だけを見たまま足を進め続けていた。

それが数歩進んだ時、殺生丸さまはようやく静かに答えをくれた。


「あれは無女という妖怪だ」
「え、よ…妖怪? あれが、ですか…? 私には人にしか見えなかったです…」
「無女は子を失った女の無念の魂が寄り集まってできたもの…人間と見紛うのも無理はないだろう」


そう言うと殺生丸さまは不意に足を止められた。邪見を見つけたのかな、そう思って私も同じ場所を見つめてみるけれど、その姿はどこにも見つからない。それならどうして立ち止まったんだろう、と思ったその時、どこからともなく「くぉら無女! いきなり吸い殺してどうするーっ!」という邪見の荒い声が聞こえてきた。
だけど霧に隠されているのか、やっぱりその姿は見えない。気になった私はそれを確かめようと、止めた足を再び踏み出そうとした――けれど、それは私の前に伸ばされた白い左腕に遮られてしまう。


「殺生丸さま…?」
「静かにしろ」


どうして止めるんですか、と聞きたかっただけなのにそれさえも呆気なく制された。その殺生丸さまは一点を見つめるまま。どこか集中しているようにも見えるその姿につい小さく口を結んだ私は、殺生丸さまに向けていた目を霧の方へ移して、彼と同じように微かに聞こえてくる邪見の声に耳を澄ませてみた。


「右の黒真珠? それじゃ分からぬ」
「邪見さま…これ以上探ってはこの子の魂が壊れまする…」


邪見の声に続いて聞こえたのは、無女というあの女の人の声だった。けれど…“この子”って誰のことなんだろう。魂が壊れるってどういうこと…? それに、右の黒真珠って…?

向こうの状況がなにも見えなくて、いくつもの疑問を抱いてしまう私は小さく首を傾げるばかり。堪らず殺生丸さまを見上げて、「どうしますか…?」と委ねるように問いかけてみた。すると殺生丸さまは相変わらず視線をそこに向けたまま、私の前に出していた左腕を静かに下げられる。


「十分だ」


そう呟くように言うなり、殺生丸さまは私を置いてさっさと歩き出してしまう。それも少し速いペースで。簡単に置いていかれてしまうことに慌てた私がそのあとを追い始めた――その時、なんだか霧の向こうが騒がしくなったような気がした。かと思えば、突然ヒイイィィという無女の甲高い悲鳴のような声が上がる。
それに私は思わずビク、と肩を揺らして足を竦めてしまいそうになったのだけど、殺生丸さまは対照的なまでになにひとつ反応を見せることもなく、ただ静かに音の元へ向かっていく。


「犬夜叉よ。墓の在り処が分かったぞ」


不意に殺生丸さまがそんな言葉をこぼした、次の瞬間、その姿が突然霧の向こうに消えてしまった。堪らずえっ、と声が漏れそうになる状況に慌てて駆けていけば、霧の向こうには殺生丸さまと犬夜叉くん、彼と一緒にいた女の子の姿があった。
だけどそれは決して穏やかなものじゃない。なぜなら殺生丸さまが左手一本で、犬夜叉くんの体を持ち上げるように首を強く掴み上げていたのだから。


「まさかこんなところにあろうとは…この殺生丸も見抜けなんだわ」


そう告げる殺生丸さまの口には不穏な笑みが浮かんでいた。彼の言う“こんなところ”というのがどこを示しているのかなんて私には分からなかったけれど、それ以上に意識は犬夜叉くんの首に向いてしまう。
絶対に離さないように、強く食い込まされる殺生丸さまの爪。それがさらに深く沈められそうになると、私はすぐさま視線を逸らすように顔を背けていた。


「父上も妙なところに墓を隠したものよ。右の黒真珠…か。恐らく父上は骸を暴かれぬために、“そこ”に墓を封じたのであろうな」
「てめえ…さっきからなにわけの分かんねえことを…」
「知らぬうちに託されたのか…? ならばこの兄と共に…」


反発的な犬夜叉くんに殺生丸さまの声のトーンがわずかに下がる。それに胸の奥が冷えるような嫌な予感を覚えた、次の瞬間――


「父上の墓参りでもしてみるか!?」


強く上げられた殺生丸さまの声と同時に、ドス、という鈍い音が大きく響く。それに顔を上げることもできないまま思わず目を瞑った私の耳に、女の子の悲痛な叫び声となにかが地面に落ちるダン、という強い音が届いた。
それに加えてわずかに聞こえたのは、「ふっ…」という殺生丸さまの小さな笑い声。


「いくら地中を探っても見つからなかったわけだ…墓の手がかりはただ一つ…見えるが見えぬ場所…“真の墓守”は決して見ることのできぬ場所…それが…」


貴様の右眼に封じ込まれた黒真珠だったとはな…
そう続けられた声にゆっくりと顔を上げて見えたのは、真っ赤に染まった殺生丸さまの指に挟まれる、小さな黒色の真珠だった。震える視線を落としてみれば、殺生丸さまの向こうには女の子に寄り添われる犬夜叉くんの姿。大きく歪めた顔の、右目を押さえる彼の手の甲には、殺生丸さまの指に塗れるそれと同じ色が一筋、静かに伝い落ちていた。

“右の黒真珠”――その言葉の意味をようやく理解した私は呼吸の仕方すら忘れたかのように、ただ小さく震える体で立ち尽くすことしかできなかった。


「てめえ…そんなことのために、ニセのお袋まで仕立てやがって…許さねえ!!」


怒りに駆られた犬夜叉くんが突然怒号を上げながら殺生丸さまへ襲い掛かる。私がそれに大きく肩を揺らすと同時、殺生丸さまは容易くそれをかわしてしまい、バキッ、と音を鳴らすほど強く指を曲げて構えてみせた。


「私は忙しいのだ。邪魔するなら死ね」


冷酷にそう告げ、振るわれる爪。逸らすこともできないまま目を見張った私の前で、殺生丸さまの爪を一身に受けたそれは鈍い音を立てて着物と肉を散らした。
けれど舞ったのは犬夜叉くんの赤い着物ではなく、何度も見た鮮やかな着物――

無女が、犬夜叉くんを守っていた。


(なん、で…)


無女も、犬夜叉くんをここまで追い詰めた一人だというのに。彼とは敵同士という立ち位置であるはずなのに。理解なんてなにひとつ追いつかないまま、バラバラに散り、地面に落ちる彼女の首を見つめる。

すると犬夜叉くんと一緒にいた女の子も同じく驚いた顔をしていて、見えない誰かがいるのか、その子の方からおじいさんのようななにかの声が微かに聞こえてきた。


「無女は母が子を思う情念の妖怪…子を守ろうとするのもまた無女の性なんじゃ」


その言葉が、とても腑に落ちた気がした。だから彼女は、犬夜叉くんを守ろうとしたんだ…最後まで、犬夜叉くんの母親であり続けようとしたんだ。

それを理解した時、無女の首が「坊…や…」と小さな声を犬夜叉くんへ向ける。その姿に私が言葉を失くしてしまった次の瞬間、それは容赦なく振り下ろされた足によってグシャ、と踏み潰されてしまった。


「くだらん奴だ」


卑下するように、退屈そうに、抑揚のない声が落とされる。そのまま踏みにじってしまう殺生丸さま姿に思わず息を詰まらせた私は、いつの間にか彼を止めるように、その左腕に弱々しく縋りついていた。


「や…やめて、ください…殺生丸さま…っ」


自分でも驚くほど、声が震えた。静かに向けられた殺生丸さまの瞳はひとつも色を変えず、ただ無言で私を見つめる。その様子から、彼は特になにも感じていないのだと思っていた。けれど、音もなく伸ばされる右手を目の当たりにしては、思わずビク、と肩を揺らしてしまう。

無意識とはいえ、私は殺生丸さまの邪魔をした。それを思い知るようにようやく理解した途端、近付けられるその手がひどく冷たい、怖いものに感じられるような気がした――けれど、それが私に触れる前に「あっ」という声が聞こえて、その手はピタリと動きを止める。


「殺生丸さま、人頭杖取り戻してございます」


そう言って背の高い草から姿を現したのは邪見だった。知らない間に人頭杖を奪われていたようで、それを見つけて戻ってきた彼は誤魔化すように笑みを浮かべながらこちらへ歩いてくる。それを見据えていた殺生丸さまは、


「…今度失くしたら殺すぞ」


とだけ冷たく言い残し、こちらに向けていた手を降ろして私を軽く振り払うと、そのまま踵を返してしまった。そして邪見に差し出された人頭杖を手にした殺生丸さまは、右手に摘まんだ黒真珠に楽しげな笑みを浮かべられる。


「この時を待ちわびたぞ…」


小さく呟いた途端、殺生丸さまは指を放して黒真珠を地面に落としてしまう。それが転がる間もなく、スッ、と掲げられた人頭杖が真っ直ぐに黒真珠へと降らされた。
それはこれまで何度か見た、お墓の真偽を確かめる行為。けれど今回はいつも悲鳴を上げていた女の顔が上がらず、一度も変化を見せることがなかった翁の顔が上がってカカカカカカと不気味な笑い声を響かせた。


「翁の顔が笑った…墓が開きまする!」


邪見がそう言い張った直後、私たちの目の前で突然大きく渦巻くような黒い光が強く溢れ出した。それは人頭杖の下の黒真珠から発せられるもの。激しい風さえ伴うその光はあっという間に私たちを包み込んで、驚く間もないまま、私たちは見たこともないような異空間へと飛ばされてしまった。


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