03



深く傾いた太陽が景色を染める。その中で志紀は私に身を委ねるように寄りかかっていた。恐らく妖怪に捕まったことで疲弊していたのだろう。りんたちの元へ戻るなり、早い段階で眠りについてしまったのだ。
その上留守にしている間も眠っていたらしいりんと邪見までもが起きる気配を見せず、やむなくこの場で一夜を過ごすべきだと思い至らされた。


「……?」


不意に視界の端でなにかが小さく眩い光を煌めかせた。それに引かれるように視線を向ければ、眩い西日に照らされた志紀の首飾りがその色を映すように強く反射し輝いている。自己主張でもしているつもりか。それに手を伸ばし指先に乗せるように触れてはその輪郭をわずかになぞった。

これは微かながらも志紀の匂いが残されており、恐らく欲していたのだろうと思って渡したものだ。以来志紀はそれを肌身離さず持っていて、大切に扱ってくれている。
しかしそれはただ志紀の欲求を満たすだけの装飾品などではなく、志紀の元の世とこちらの世へ自由に渡らせることができる特別なものであった。これまでにも幾度か志紀が、そして私たちもともに未来であるという志紀の世へ渡っている。それは紛れもない事実ゆえ、疑う余地もないのだが…


(特別なのは、本当にこの首飾りなのか)


不意にそんな疑念を抱く。こんな首飾りひとつにそれほどの力があるとは思えないからだ。だが志紀は間違いなくただの人間で、妖力もなければ霊力も持ってはいない。なにか特別なものを持っているとも到底考えられなかった。

そんな人間が時代を自由に行き来できるものだろうか。
同様に時代を越えられるというあの人間の女は、巫女の生まれ変わりだと聞いた。それに引き替え志紀は誰かの生まれ変わりと言うわけでもない。

ならばなぜだ。そうは思うものの、志紀から特別ななにかを感じたことはなく今も感じ取ることはできない。こうして隣で眠る姿はりんとなんら変わらないようにすら思えてしまうほどだ。
志紀の髪を掬いながら眺めていれば、不意に志紀が小さく顔を歪める。引っ張ってしまったか、そうは思うものの志紀の様子はそれとは違うものであった。


「せ…しょうまる、さま…助けて…くださ…っ」


震える声で漏らされたのはそんな言葉だった。恐らく夢を見ているのだろう、それもなにかに襲われる夢を。
それは夢だ。そう伝える代わりに手を握ってやれば、強張っていた表情がゆっくりと和らいで、安らかな微笑みを浮かべたまま規則正しい呼吸を再開した。

夢に怯えるとは、なんとか弱い生き物よ。
頼りない力で緩やかに握り返してくるその手に視線を落とせば、ふと先刻の妖怪を思い出した。志紀を捕え、喰らおうとした愚か者。
帰路の途中で志紀に聞いたのは、そいつが目の前に迫って匂いを嗅いできたと思えば突然目の色を変えた、という話だった。


(確かに志紀はよく…妖怪に好かれる)


ふと思い返せば志紀を連れるようになって、やけに妖怪に絡まれることが増えた。それも全て志紀を狙ってだ。雑魚妖怪ばかりゆえに気に留めることもなく蹴散らしていたが、終いにはあの奈落にまで手を出されている。どうやら奴は私を陥れるために志紀を利用しようとしていたらしいが、なにか別の目的を抱えていたようにも思えた。

ただの人間が、これほどまでに妖怪に狙われるものだろうか。
やはり私が気付かないだけで、志紀にはそれだけ妖怪を惹きつけるなにかがあるのかもしれない。それを思えば、私は静かに紺碧の夜空を仰ぎ見た。


「…見せてみるか…」



* * *




眩い陽光を湛える空が広がる下で、目を覚ました私たちは殺生丸さまに連れられるように深い森の中を進んでいた。どこに向かっているのかは分からないけれど、なにか目的があるらしい。
鬱蒼とした緑に囲まれる中をなんとか掻き分けながら歩いて行けば、次第に背の高い立派な樹が見えて来た。なぜかその樹だけ、他とは違う雰囲気を纏っている。


「久しいな…殺生丸…」
「こ、声っ…?どこから…」


どこからともなく響いてくる声に戸惑いながら辺りを見回す。それは邪見もりんちゃんも同じで、3人揃って声の主を探していた。そんな時目の前まで迫った立派な樹から小さな音が聞こえたかと思うと、突然おじいさんのような顔がボコッと音を立てて現された。

なんでそんなところに顔…リアルウィスピー◯ッズですか。ちょっと怖いんだけど…。
そんなことを考えながら後ずさる私とは裏腹に、殺生丸さまは淡々とその樹へと話しかけていた。


「朴仙翁、聞きたいことがある」
「聞きたいこととは…そこの娘さんのことか」
「へっ?わ…私?」


朴仙翁と呼ばれた木のおじいさんに見つめられて目をぱちくりと瞬かせてしまう。ここまで赴いた目的がまさか自分のことだなんて思ってもみなかった。本当に私のことで合っているのか確認するように殺生丸さまへ視線を移すも、彼は否定することなく朴仙翁さんを見つめている。


「やはりなにか感じるか」
「ふむ…変わったおなごだ。お前さん、どこから来た?」
「えっ、と…どこからって言うか…私、未来から時代を越えて来てて…」
「時代を越えてか…なるほど…」


信じてもらえるか分からなかったけれど、朴仙翁さんはそう呟いて考え込むように枝のような手で顎を擦った。手まで出るんだ…ウィ◯ピーウッズとはまた違うな。
って、そんなことはどうでもいいんだ。問題は私だよ。


「あの、変わってるって…私、なにかあるんですか?自分じゃよく分からないんですけど…」
「まあ自分で気づけぬのも無理はないだろう…お前さんには稀有な匂いが纏われているのだよ」
「に、匂い…?」


思わずぽかんとしてしまう。匂いって、私やっぱり臭いのか。そう思って自分を嗅いでみるもなにも感じない。
そういえばこんなこと、前にもあったな。確かあの時は私の匂いで殺生丸さまが宿の場所を特定したんだっけ。でもそれは殺生丸さまが犬の妖怪で鼻が利くから、だと思っていたんだけど、目の前の朴仙翁さんはどこからどう見ても樹だ。樹の妖怪だ。
そんな相手でも匂うということは、やっぱり私自身の匂いになにかあるということ。


(柔軟剤かなにかかな…この時代にはないし…)


服を匂ってみればそれらしい臭いが感じられる。以前りんちゃんがこの匂い好きーって抱きついて来たこともあるし、たぶんそれなんだろうな。
なんて呑気に考えてみるけれど、そんな予想は朴仙翁さんの言葉によってあっけなく打ち砕かれてしまった。


「お前さんの匂いの正体は“月光蝶”のものだ。お前さんの体に宿っておる。そやつは白と青の模様が美しい蝶でな、妖怪を惹きつける匂いを発するのだよ」
「げ、月光蝶…?」
「ああ。蝶と言っても妖怪だがな」


――遥か昔、大陸に住む人間のおなごもお前さん同様、月光蝶が宿っておった。そのおなごもただの人間で、なんの力も持っておらなんだ。だが月光蝶が宿っていることで、稀有な匂いを発し、妖怪を誘き寄せていたのだよ。

私を見つめながらそう語る朴仙翁さんの言葉が耳を通り抜けて行く。なんだかさっぱり分からないけど、要は私の中に妖怪が入っちゃってるわけですね。そんなのいつの間に入ったんだ。それらしいのなんて一度もみたことないぞ…と思うも、白と青の模様の蝶は確かに一度見た覚えがあった。


(あいつか…!!)


私がこっちの世界に飛んで来る直前、公園で呑気にアイスを食べていた時に見た奴。私の記憶が確かならば間違いなくあの時の蝶のことだ。スピーカーの音に驚いて逃げたと思ってたけど、私の中に入ってたのか…許可してないんだけど。


「私の中にその月光蝶?がいることは分かったんですけど…なんでそんな匂いを発してるんですか?」
「月光蝶には対となる…黒と赤の模様の“陽光蝶”と言うものがおってな。そやつを探すために匂いを振り撒いて誘き寄せようとしているのだ。奴も妖怪であるからな」
「な…なにそれ…めっちゃ迷惑…」


めちゃくちゃ自分勝手じゃないか月光蝶。おかげで私はその辺の関係ない妖怪にまで狙われる羽目に遭ってるんだからね。
どうせならその陽光蝶とやらだけに効く匂いを発してほしかった。なんて思っていれば、ふと記憶の中でなにかが引っかかったような感覚を覚える。

黒と赤の蝶。それは月光蝶と同じく、どこかで見たような気がするのだ。きっとどこかで見ているはず…そう強く念じるようにして思い出したのは、奈落に初めて出くわす直前に見た蝶だった。あれはやたらと目を惹いて、つい追いかけてしまった覚えがある。
そうか、あれが陽光蝶なんだ。それに気付いてぽんっと手を打てば、殺生丸さまが様子を窺うように問いかけて来る。


「志紀、知っているのか」
「一度だけ見たんです。でもその時はすぐに見失っちゃって…」


あっという間に姿を消してしまった陽光蝶を思い返していれば、朴仙翁さんに「そうであろうな」と当然のように言われてしまった。


「陽光蝶は対の月光蝶が近くにいても逃げてしまうことがあるのだ」
「へえ…なんで逃げるんでしょうね。早く仲間と一緒になった方がよさそうなのに…」
「仕方もなかろう」


私が小首を傾げるのに対して、朴仙翁さんは目を伏せて顎を擦りながらそう言った。仕方ないってどういうことなんだろう。そう思っていれば、朴仙翁さんは伏せていた目を開いて頭上を飛ぶ小鳥たちを見上げた。


「やつらは互いに交わることで初めて真の妖怪、“幻夢蝶”となるのだが…それはわずかながら妖力を高めるために、いずれ喰われてしまうだけなのだ。それを知っていれば、運命に抗いたくもなろうものよ」


難しい表情で語られた言葉につい口をつぐんでしまう。
確かに喰われるためだけに生まれたのならそうしてしまうのかも知れないけれど、寄生された側である私にとっては迷惑極まりないことだ。どうしても納得することができなくて、込み上げてくるため息を大きく吐き出した。

でもこれで気を落としていても仕方がないだろう。今は朴仙翁さんから少しでも多くの情報をもらっておくためにも、気になることは全部聞いておくべきだ。解決策は、またあとで考えよう。


「気になったんですけど、月光蝶の匂いって妖怪に効くんですよね。それを嗅いだ妖怪って…みんな襲い掛かって来るんですか」


これは今後に関わる重要な質問だと思う。嗅いだ妖怪すべてが私を襲って来るのなら、なにかそれなりの対策を考えないといけないし。

そう考えながら朴仙翁さんの答えを待つも、どうしてか朴仙翁さんは重く黙り込んでしまって中々答えてくれない。なにか言いづらいことでもあるんだろうか。私が不思議そうに見つめていれば、朴仙翁さんはどこか躊躇いを含んだ目で殺生丸さまを見据えた。それがしばし続くと、ようやくその目が私の方へ向き直ってくる。


「この通りだ。その匂いは妖怪を魅了し、虜にする」


細い指をス…と殺生丸さまに向けながらそう告げてくる朴仙翁さんにきょとんとしてしまう。この通り、というのはどういうことだろう。頭を悩ませながら首を小さく傾げれば、朴仙翁さんに「お前ら、想い合っているのだろう」とはっきり言われて硬直する。
な、なん…なんでバレてるんですか…!?
言われずとも分かる、とでも言わんばかりの朴仙翁さんに顔を真っ赤にすれば、ほんの小さくため息をこぼされた気がした。

そのため息がなにを意味しているのか、それは朴仙翁さんの次の言葉によって悟らされる。


「匂いに魅了された妖怪はそのおなごを愛でるか喰うかだ。大抵は喰おうとするが、稀に勘違いする者もおるのだよ」
「め、愛でるって…?」


なぜか胸がざわつく。嫌な予感が、一気に広がりを見せてくる。
そんな自分の思い込みだと思いたい不安を打ち消してほしいがため、弱々しい声色で小さく問い返してみたがその答えは――


「完全にそのおなごに惚れた気になる。所詮紛いものの愛でな」


強く胸を打ち付けられるような感覚が、全身を駆け巡る。頭が、真っ白になる。

朴仙翁さんはさっき殺生丸さまを指差しながら“この通りだ”と言った。それは“殺生丸さまが私に抱く想いが、月光蝶の匂いによる紛いもの”だということ。
空っぽになった頭にそれだけが響き続けると、私はいつしか体を小さく震わせていた。


「…わしの推測だがお前さんの場合…月光蝶がお前さんの元の時代に生まれて寄生し、同時に生まれたこちらの陽光蝶を求めて時代を越えさせたのだろう。そして時代を行き来できるようになったのは、その不思議な首飾りのおかげか…その首飾り、恐らくは幻夢蝶の力を宿しているのやも知れん」


まるでもう考えるなというように朴仙翁さんが違うことを話してくれるけれど、それは私の頭に留まることもなく、私はただ震える声で縋るように問いかけた。


「匂いを消す方法は…ないんですか…?」
「月光蝶が宿る限り方法はない。どうにかしたいのならば、早急に陽光蝶を捜すことだ。陽光蝶を捕まえてしまえばやつらは幻夢蝶となり、お前さんを離れる。さすればお前さんは自由の身だ」


その言葉を聞いて、私は心の奥底から安堵したように小さなため息をこぼした。けれどそれを許さないかのように、朴仙翁さんははっきりと厳しい口調で言い放って来る。


「だが月光蝶の力によって保たれる今の生活が、同じように送れるとは思わないことだな」



* * *




森を抜け、漆に塗り潰されたように黒く染まる空を見上げる私はひとり離れた場所で仰向けに転がっていた。あのあといくらか話を聞いていたようだけど、私の脳裏に焼き付いて離れないのは“紛いものの愛”という言葉。

信じたくない、考えたくない。
けれどどうしても考えてしまう、殺生丸さまが自分に抱く想いを。


「なんでそんな話…聞いちゃうかな…」


せっかく両想いだって知って、お付き合いを始めたばかりだって言うのに。これからゆっくりお互いを知りあって行こうって話し合ったばかりなのに。
体を転がしてため息をつくことすらできないほど思いつめてしまう。考えたって仕方のないことは分かってる。それでも一度考え始めてしまったことは、納得のいく答えを見つけるまで止めどなく巡らされていた。

重い体を起こして傍の川に小さな石を投げ入れるも、その音がより虚しさを引き立てる。力なくそれに歩み寄り水面を覗き込めば、薄っすらと自身の顔が映り込んだ。
…ひどい顔。
とても人に見せられたものじゃないな、なんて思ったその時、不意にこちらへと近づいて来る足音が小さく聞こえて来た。


「やはり気にしていたか」
「っ……」


掛けられた声にビクリと肩を揺らす。けれど振り返りもせず唇を噛んで俯いていれば、殺生丸さまの足音がさらに近づいて来て隣にしゃがみ込まれてしまった。
今は来てほしくない、怖い。そう思ってギュ…と自分の手を握り締めると、突然伸ばされた手が私の顎を掴むと有無を言わせぬ強引さで振り向かされた。

突然のことに驚いて目を見開けば殺生丸さまが真っ直ぐ私を見ている。でもその金の瞳はどこか、怒気を孕んでいるようにも思えるもの。また小さくビク、と肩を揺らした私が視線を背けようとすると、はっきりとした強い口調で厳しく問いただされた。


「志紀。お前はこの殺生丸がそんなものに惑わされるとでも思っているのか?」
「そ…それはっ…」
「例えそれで志紀に惹かれようと、そんなものはきっかけに過ぎん」
「!」


強引にグッと引き寄せられた顔が、唇が――触れる。
柔らかな感触が私の頭を真っ白にして、すべてを打ち消してしまう。
それが静かに離れて行くと、艶やかなビー玉のような瞳が私をかすかに映し出していた。


「今私が想っているのは志紀、お前だ」


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