02



「ねえ志紀お姉ちゃん。殺生丸さまと口付けはしないの?」
「ん゙ん゙っ!?」


殺生丸さまが不在な中、川で捕った魚を昼食にしていたら突然とんでもない爆弾発言が飛び出してきた。もう少しで魚の身をのどに詰まらせるところだったぞ。

少しだけむせ返った私は何度も咳き込んで大きな深呼吸を繰り替えし、無垢な瞳で見つめてくるりんちゃんへなんとも引きつった笑顔を振り返らせる。


「り、りんちゃんさん?急にどうしたのかなあ?」
「だって殺生丸さまと志紀お姉ちゃん、“お付き合い”してるんでしょ?」
「そっ…それは、そうですが…」


ドストレートな言葉についドキッとしてしまってぎこちない返事をした。
確かにりんちゃんの言う通り、私は殺生丸さまと恐れ多くもお付き合いをさせていただいている。元々どこかで惹かれるようになっていたのだけど、私が奈落に捕まって操られて、殺生丸さまと命を懸けた闘いをしてからお互いに自分の気持ちにはっきりと気付いたようだった。

それからそんな私たちを止める人もいなくて、気付けば自然とそう言う関係になって幾分か経っている。けれど特に目立った進展もないせいか、本人たちよりもりんちゃんの方が痺れを切らせてしまったらしい。


「殺生丸さまも志紀お姉ちゃんも、なーんにもしないんだもん。本当にお付き合いしてるの?」
「ゔっ…」


りんちゃんの言葉が容赦なくグサッと胸に刺さってくる。すごく正論だ。正論だからこそ、返す言葉がなくて無様に押し黙ってしまう。
するとそんな私を見兼ねたのか、小さく頬を膨らませたりんちゃんが魚を差していた枝を振りながら厳しく問いかけて来た。


「手は繋いだの?」
「いえ…」
「ぎゅーはした?」
「ご存知の通り、私が無意識で一方的になら…あ、あと殺生丸さまと闘うように仕向けられた時!あの時はしたよ!」
「あれはナシだよ。お付き合いする前だもん」
「うぐっ…そ、そうでした…」


ハッキリバッサリと切り捨てられてしまってがっくりとうな垂れる。無垢な子供ってこんなにも強かったのか…お母さんたちが子供は怖いって言ってた意味が今ならよく分かるよ。
気付けば私は無意識の内に正座までしてりんちゃんに言われるがままの状態となっていた。


「それで口付けもしてないんでしょ?ダメだよ志紀お姉ちゃんっ。それじゃいつか殺生丸さまに捨てられちゃうよ?」
「さすがにそこまでではないと思うけど…ていうかりんちゃん、中々辛辣だね…」


さっきから容赦なくズバズバ言って来るせいでそろそろ胸が蜂の巣だよ。ほろりと涙をこぼしながら大人しく頭を垂れていれば、りんちゃんは「そうだ!」と声を当てて手を叩いた。


「いい方法思いついた!志紀お姉ちゃん、りんの指示通りに動いてねっ」
「え゙っ?」


突然枝をびしっと突きつけてくるその姿に間抜けな声が漏れてしまう。なにか嫌な予感がするけどりんちゃんがあまりにも本気になってくれている分、断るのが申し訳なくてひとまず分かったと頷いてあげた。するとりんちゃんは一度目をきらきらさせて、わざとらしく「ごほんっ」と咳払いする。


「じゃあまずは殺生丸さまが帰ってきたら、お帰りなさいのぎゅーをしてね」
「……ん゙?」
「それで、歩く時は手を繋いで」
「え、えーっと…?」
「寝る前には、おやすみなさいって口付けをするの。もちろん起きた時はおはようの口付けだよ。分かった?志紀お姉ちゃん」
「ん゙ん゙ん゙ーっ!?」


容赦もなければ勢いも留まらないりんちゃんの提案に頭が追い付かず、私はただただ首を傾げながら唸りを上げてしまう。さらっと言ってるけど中々とんでもない内容だよ。
…いや、案外できる人にはできるのかも知れないけれど、私の場合はお相手があの殺生丸さまなのだ。そんな簡単に許してくれるはずないだろうし、下手なことをすれば命の危機すら感じる。それに私たちの傍には常に邪見やりんちゃんだっているから、その目が気になって絶対そんな行動に移れる気がしなかった。


「む、無理…!そんなことできるはずないよっ」


ちらっと想像してしまっただけで顔が溶けるんじゃないかってくらいに熱くなってぶんぶんと首を振るう。それはもうもげそうなほどに。けれどその様子に呆れ果てたように、りんちゃんが頬をぷくーっと膨らませてしまった。


「じゃあいつするの?そんなんじゃ、できないままおばあちゃんになっちゃうよ。せめてひとつずつでもやらなきゃ!ぎゅーならできる?志紀お姉ちゃんいつもしてるから簡単でしょ?あっ、もしかしてりんがなにかお手伝いした方がいい?それとも…」


ずいずいっと顔を迫らせながら矢継ぎ早に言って来るりんちゃんに気圧された私は途端に「あ゙―っ!」と大きな声を上げて掻き消した。


「ごめんねりんちゃん!ちょっと私、用事を思い出した!!」
「えっ、志紀お姉ちゃん!?」


驚くりんちゃんをよそに、私はビッと手をかざすが早いかすぐさまその場を駆け出してしまった。もちろん用事なんてない。それでも無垢なりんちゃんの、純粋な気持ちからの言葉攻めにとうとう耐えられなくなったのだ。

…とはいえ、いきなり走って逃げるのは如何なものか…りんちゃんを置き去りにしてしまう形になってしまった。さすがによろしくない気はするけれど、一応りんちゃんの傍には邪見がいるし大丈夫でしょう。寝てるけど。

ひとまず気持ちを落ち着かせるために歩きながら大きなため息をこぼす。
やっぱり今のままじゃダメなんだろうか。少しはなにかしらの努力をしなければならないのかもしれない。けれど誰かと交際するのが初めてである私はそれの匙加減が全然分からなかった。


「難しいなあ…」


つい口を突いて出た言葉が小さく虚空に消える。そんな時不意に大きな影が目の前にぬらりと伸びて来た。
ああ、なにがあっても安全地帯を離れることはよろしくないな。それもたったひとりで。そう思い知らされたのは、顔を上げるほんの一瞬前のことだった。


「おいおい、人間の女が自分から走ってきたぜ」
「柔らかくて美味そうだなあ」
「げへへえ〜連れて帰ろうぜえ〜」


低く重く響いてくるような野太い声3つ。ゆるゆると引きつった顔を持ち上げてみれば、豚のような…言うなればオークのような妖怪たちがニタニタと気味の悪い笑みを私に向けていた。


「ウソでしょ…」


ひゅる、と吐息とともに漏れた声。
いつもなら殺生丸さまが駆けつけてくださるところだけど、その肝心の人物はたまの外出の最中だ。どこに行ってるのかは分からないけれどこの周辺にいないのは間違いない。そんな運もなにもない最悪のタイミングで、私はとんでもないものと出くわしてしまったではないか。


「おらよ」
「え゙っ」


オークのようなこいつらは目の前まで寄って来ると、固まったままの私をいとも容易く抱え込んでしまう。なにやってんだ私。逃げろよ。なんて思うもすでに私の体は妖怪の小脇にあって、借りてきた猫のように縮こまっていた。
申しわけございません殺生丸さま。私は上機嫌に話し合うこいつらのご飯になりそうです。真っ青になる頭でそんなことを考えながら、私はまんまと連れ去られたのであった。



* * *




――薄暗く、古びた寺のような建物の中。今にも抜けてしまいそうなほど脆い床が見えたかと思うと、私の体はそこへ無造作に投げ出されてしまった。普通に痛い。


「本当に美味そうな女だなあ」
「早く食っちまおうぜえ〜」
「待てよ。喰うにも惜しい気がしねえか?どうだ、おれたちの女にするってのは」
「は!?そんなの絶対嫌だから!!」


1匹(?)の妖怪がとんでもないことを言い出してぞわりと身の毛がよだつ。第一私は殺生丸さまともうお付き合いさせていただいてるし、こんなやつらの女にされるくらいなら食べられた方が断然マシだ!

強く睨みつければ、ゆったりとした喋り方が特徴的な奴が私の目の前に屈みこんで来て、太い指でグッと私の顎を持ち上げてくる。


「なんだおめえ〜拒否権があるとでも思ってんのかあ〜?」
「っ…」


馬鹿にするような言い方が癪に触って歯を食いしばった。それにしても近付けられた顔が臭い。さっさと離してほしい。
そう思っていれば妖怪はフンフンと鼻を鳴らして匂いを嗅ぐような仕草を見せて来た。考えでも読まれたんだろうか。でも臭いのはお前だから。私を嗅いだって意味ないんだから。


「おれえ…もう我慢できねえ…」


不意にそんな声を漏らすと明らかに目の色が変わる。こいつ、一体なにを…そう思ったその時、突如腕をグイッと引き寄せられた。それに驚いた直後、妖怪の大きな舌がベロリと私の腕を舐めてくる。その感触があまりにも気持ち悪くて、さらに自分の身の危険を感じて肌を粟立てると私は咄嗟に精一杯の声を張り上げていた。


「いやっ…殺生丸さまあ!!」


私の声が室内に木霊したその瞬間、肉が断ち切られる嫌な音が大気を震わせた。すると突然引っ張られていた腕が解放されたような感覚に陥り、体がグラリと後方へ傾いてしまう。けれどそれは背後からなにかが優しく受け止めてくれた。


「せ、殺生丸さまっ…!」
「無事か、志紀」


私を受け止めてくれたのは紛れもない殺生丸さまで、私の表情を見ては次いで妖怪たちを強く睨みつけた。それは相手も同じで、自分たちの獲物を横取りする奴が現れたとでも思っているのか憤慨して殺生丸さまに向かって駆け出して来る。
殺生丸さまは小さく「待っていろ」と私に言いつけると、ほんの一瞬で妖怪たちとの間合いを詰めて容易く爪を振るって見せた。それに伴い嫌な音と鮮血が広がれば、瞬く間に妖怪たちの体は肉片へと化して一緒くたになってしまう。

やっぱり殺生丸さまは強い。それをこの一瞬でありありと見せつけられると、私はただ強く感嘆のため息を漏らしていた。すると殺生丸さまは爪に滴る妖怪の血を振り払ってこちらへと振り返って来る。


「…なにをしていた」


そう問いかけて来る殺生丸さまの眉はほんのわずかにひそめられていて、咎められているのがよく分かる。けれどりんちゃんに言葉攻めにされて耐え切れなくなったから逃げ出した、なんてあまりにも恥ずかしすぎて言えるはずがなく、つい顔を背けてしまった。


「その…散歩をしようとしていたら、捕まってしまいまして…ご、ごめんなさい」


きっちりと綺麗な正座で謝れば、殺生丸さまは無言のまま私を見下ろされていた。


「腕を出せ」


そう言う殺生丸さまは自らの袖を掴んでいて私の腕を拭う気でいた。けれどこんな汚いもので殺生丸さまの着物を汚すのが嫌だった私は「大丈夫です!」と言いつけると、ポケットに忍ばせていたウェットティッシュでごしごしと妖怪の涎を拭い取る。ウェットティッシュを常備しておいてよかった。

綺麗さっぱり拭えた腕を見せて「もう平気です」と言えば、殺生丸さまは気に食わないというようにわずかに眉をひそめられる。な、なんでだろう。殺生丸さまが拭きたかったのかな、なんて思うもそれはないだろうと自己完結してしまう。

じゃあなにかと考えかけたその時、不意に手首を掴まれて殺生丸さまの顔が私の腕にグッと近付けられた。


「…まだ匂いが残っている」
「え?」


ボソ、と呟かれたかと思えば、殺生丸さまの舌が私の腕に這わされた。這わされた…!?なんで!?

突然のことに状況が呑み込めない私は、目の前の光景とざらざらとした感触が撫でてくる感覚に頭がパンクしそうになる。何度もなぞられる箇所がくすぐったくて、ビクリと身を震わせた。
するとようやくその顔が離され、殺生丸さまは傍に小さく唾を吐き捨てられて自身の唇を拭われる。その姿を呆然とした顔で見つめていたら、こちらへ向き直って来た金の瞳が私を覗き込んできた。


「どうした。顔が赤いぞ」
「ひぇっ!?」


突然問いかけられたことで思わず変な声を出してしまった。それがまた恥ずかしくてさらに顔が熱くなってくる。けれどそれを誤魔化すように「なんでもないです!」と言い張ると、私はすぐさま殺生丸さまの手を取って出口に向かって歩き出した。


「い、行きましょう!りんちゃんたち置いてきちゃったので!」


そう言って強引に手を引けば殺生丸さまは一度手元に視線を落として、ほんの小さな笑みを浮かべながら「ああ」と返事をくれた。私はその様子に気付くこともなく、恥ずかしさからつい大きくなってしまう歩幅で歩み進めてしまう。殺生丸さまはそれになにか言うわけでもなく、ただ静かに歩幅を合わせて隣を歩いてくれていた。


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