23



ふ、と目が覚めた。
重たい瞼をゆっくりと持ち上げれば、霞んでよく見えない視界にいくつかの人影が見える。みんな私を覗き込んでいるみたいだけど、その相手が誰なのかも判然としない。
一体誰なんだろう。掠れる視界をどうにかしようと強く目を瞑りかけた時、よく通る女の子の声で私の名前が大きく呼ばれた。この声はりんちゃん、そう思った瞬間にお腹へどすんと鈍い衝撃を与えられ、思わず牛ガエルのような短い声が漏れてしまう。

視界がぼんやりしているこんな時に不意打ちなんて、全く防ぎようがない…。ちょっと苦しかったけれど怒りはせず、飛び込んできた小さな頭に手を乗せてぽんぽん、と撫でてあげた。


「り、りんちゃん…どうしたの?なにかあった…?」


苦しさに少しだけ強張る笑みを浮かべながら体を起こしては、なにやらぎゅううとしがみついてくるりんちゃんに問いかけてみる。けれど彼女は答えないどころか、ぐすぐすと鼻を鳴らすほど泣きじゃくっているようだった。


「え…?りんちゃん、泣いてるの…?」


なんで?そうは思うものの困惑するあまりそれ以上声も出せず、ただただ小刻みに肩を跳ねさせるりんちゃんを見つめるしかない。とにかく慰めるために手を掛けようとしたけれど、片側の手が固定されているように動かすことも叶わなかった。それに気付いて振り返れば、そこには私の手を強く握りしめる殺生丸さまの姿。

どうしてか彼は珍しく驚いたような表情をして、ただ私のことを真っ直ぐに見つめていた。それと同時に見えるのは、彼の向こうに広がる見慣れない景色。宮殿のような荘厳なお屋敷だけれどこんな場所は見たこともないし、どうして私たちがこんな場所にいるのかも分からない。

思い返してみても、私には殺生丸さまと犬夜叉くんが叢雲牙を倒したくらいまでの記憶しかない。確かあの時突然力が抜けるような感覚に襲われて、あっという間に気を失ってしまったのだ。

あのあと、一体なにがあったんだろう。


「あっあの、せっしょ――」


あまりの急展開に戸惑った私はすぐに彼を呼ぼうとしたのだけどその声は終ぞ出し切れず、腕を強く引かれるまま大きな体に包まれてしまった。それと同時に後頭部に手を添えられ、顔を強く胸に押しつけられる。

相手が誰なのかも分からないほど突然のことだったけれど、視界の端に散らばる銀色の髪が確かに私を抱きしめた人を教えてくれていた。


「殺生丸さま…?どうか、されましたか…?」


状況が全く把握できておらず、殺生丸さまが人目もはばからずこうすることの重大さに余計混乱が深まっていく。そんな中で小さく問いかけてみるも彼は私を抱きしめるばかりで返事をくれはしない。
それどころか私の頭を押さえる手にはより一層力がこもってきて、なんだか息苦しさを感じてきた。


「あの、殺生丸さま…く…苦しいので…も少し…緩めていただけると…」


どうにか身を捩りながらそう言えば、殺生丸さまはようやく気が付いたようにその手を放してくれた。私はそれについほっ、と小さなため息をこぼしてしまいながら、見ることのできなかった殺生丸さまの顔をそっと覗き込んでみる。

するとそこにはいつもと変わらない、けれどなぜだか安堵したようなひどく切ない色が確かに湛えられる琥珀があった。


「殺生丸さま…?」


どうしてそんな顔をしてしまうんだろう。そう思って小さく彼の名前を呼んでみれば、代わりと言わんばかりに大きなしずくを撒き散らした邪見が身を乗り出してきた。


「志紀っ!なにも気付いとらんようだがな、お前は今の今までぽっくり死んでおったのだぞ!!」
「……はい?ぽっくりって…私が?」
「そうだ!お前が突然そんなことになるから、殺生丸さまはお心でひどく涙を流されるほど悲しまれて…」
「黙れ邪見」


不意に声を挟んできた殺生丸さまが邪見の頭をみし、と押さえ込んだ。大仰に泣く仕草を見せたのが癪に触ったのか、その手はみしみしと嫌な音を立てるほど力を込めていく。すると当然悲鳴を上げる邪見がものすごい勢いで謝罪の声を繰り返し上げていた。

余計なこと言うから…と思う反面、私も気絶してしまったという余計なお手間を取らせてしまったことを怒られてしまいそうな気がして、ほんの少しだけ後ずさるように距離をとった。

私が死んでいたとか意味の分からないことを言われたものだから詳しく事情を聞きたいのだけど、その話を掘り返してまた私の頭蓋骨から悲鳴を上げさせられたらと思うとすごく怖くて聞くことができない。


「志紀」
「はっハイ!!」


私の恐怖心などお構いなく突然こちらへ標的を変える殺生丸さまの声が今までにないくらい低くて、思わず肩を跳ね上げながら上擦った声で返事をしてしまった。嫌な焦りにドキドキドキと心拍数が急上昇する中、殺生丸さまはただ黙り込んだまま鋭い瞳で私を見据えて手を伸ばしてきた。


(や、やられる…!!)


思わずぎゅうっと目を瞑って身構えてしまう――と、それは私の頭へ予想外の衝撃を与えた。というのも、衝撃と言うにはあまりにも優しすぎる感触なのだ。それこそ夢の中でも味わった、緩やかな感触。
呆気にとられるようゆっくり目を開けば、殺生丸さまは眉間にしわを寄せたまま、それでもどこか優しい瞳で私を見つめていた。


「余計な心配をかけるな…」


先ほどの低い声よりも柔らかく、これもまた予想外の言葉を向けられる。結局自分の状況もまだよく分かっていないのだけど、それでも私はその言葉に驚くあまり「え…」とほんの小さな声を漏らしていた。


「心配…してくださったんですか…?」
「……当たり前だ」


呆然とする私へ、殺生丸さまはほんの小さく呟いてくれる。その言葉に私はなんだか気恥ずかしさを覚えて、赤くなりそうな顔を隠すために俯こうとした。
けれどそれは途端に力がこもる手によって止められ、私の「え゙」という声が漏れるのが早いか強く頭を締め付けられた。


「あ゙っいた、痛い!なんでですか殺生丸さま!?」
「あのような勝手な真似をした罰だ」
「うあ、やっぱり怒られ…っいだだだ!ご、ごめんなさいもうしません!もうしませんから放してくださいいいいっ!」
「これ、やめんか殺生丸。そやつはそれでも病み上がり…ではないな。死に上がりなのだから、労わってやれ」


不意に聞き慣れない女の人の声が聞こえたかと思えば不意打ちのお仕置きはすぐに止められた。
た、助かった…けど死に上がりってなに…初めて聞いたんですけど。

頭に“?”ばかりを浮かべてじんじんと痛むこめかみを擦りながら振り返ってみれば、そこにいたのは殺生丸さまによく似た麗しい女性だった。殺生丸さまを女性にしたらあんな感じだろう、幼く見えがちの二つ括りでも圧倒的に美しいと感じさせるそのお方は呆れた様子で私たちを眺めている。

これほど似ていらっしゃるということはきっとご家族の方なのだろうけど、どなただろう。それにしても、今日は殺生丸さまのそっくりさんによく出会う気がする。


「えっと…は、初めまして。殺生丸さまの、お姉さまですか…?」
「ばか者!このお方は殺生丸さまの御母堂さまだ!」
「え!?お母さまっ!?」


私の予想とは裏腹に、邪見からとんでもない言葉が飛んできて思わず後ずさりそうになってしまった。そんな私に殺生丸さまのお母さまは「姉は言いすぎだろう」と笑われたけれど、言い過ぎでもなんでもないと思います。私の反応が当然だと思います。

もしかして妖怪って不老なの、なんて思ってしまうレベルで愕然としていると、お母さまは殺生丸さまと同じ色の瞳で私を真っ直ぐ見据えられた。


「志紀と言ったか。そなた…あの世とこの世の境で誰と会っていた?」
「…へ?あの世とこの世の境…?」


突然投げかけられた問いには聞き慣れない言葉。知っていて当然のように言われたけれど心当たりなんてあるはずがなく、ただ困惑するように少しばかり首を傾げてしまった。するとお母さまは察してくれたようで、「分からぬか…」としばらく考え込むような仕草を見せた。
そして、


「そうだな…夢で誰かと会わなかったか?」


これなら分かるだろう、というように問い直される。お母さまはなにかを求めていらっしゃるのだろうか。なんとなくそんな気がして、私は夢ならばとすでに薄れつつある記憶を思い返した。


「確か…一人の男性に会いました。大きい、犬の骨?…のようなものがある場所で、殺生丸さまによく似た男らしい方に。見た目はこう…高いところで髪を一つ括りにしている方です」


ポニーテールを作るジェスチャーを交えながら説明すると、どうしてか途端にお母さまが眉間にしわを寄せてはあー、と大きなため息をこぼされた。それはそれは、とても呆れている顔。もしかして私の話が違ったのかな…

思わず心配になる私とは裏腹に、お母さまは私から顔を逸らして「まったく、闘牙の奴め…」と小さく呟かれた。
お知り合い、だったのかな。ただただついて行けない私が困惑しながら殺生丸さまへ振り返ってみると、どうしてか彼は少し驚いた様子で、その隣の邪見すら目を丸くさせているようだった。


「み、みんな知ってるんですか?夢に出てきたその方のこと…」
「志紀…それは殺生丸さまの父君であるぞ…」
「そうなの?へえ、お父さまだったんだ。だからあんなにそっくりで……え、ほんとに?」


思わずそっくりであることに納得して流しかけてしまったけれど、ようやく理解が追い付き始めて私もみんなと同じように驚愕の表情を浮かべてしまった。確かめるように殺生丸さまへ視線を移すけれど、どうやらそれは聞き間違いでもなんでもないようでしっかりと肯定される。

でも確か殺生丸さまのお父さまは亡くなっていたはず。ということを考えて、ようやく先ほどのお母さまの言葉を理解した。“あの世とこの世の境”…文字通りそれはこの世でもあの世でもない、それらの境目なのだと思う。
だから死んでいたらしい私があの世へ行く前にそこへ現れて、お父さまもわざわざ来てくださったのかも知れない。思い返せば“お礼が言いたかった”と言われていたし…

それなのに私はなぜか殺生丸さまたちのことを忘れて、めちゃくちゃ無礼な反応をしちゃった気がする…!!

終始“なんだこの人”みたいな態度をとっていたことを思い出しては頭を抱えたくなるほどの後悔に見舞われた。できることならもう一度会いたい。もう一度会って、あのご無礼を全力で謝罪したい。

そんな思いで顔を覆っていると、ふと記憶がなかったというあの奇妙な体験を思い出してあっという間に冷静さを取り戻すことができた。


「あの、そういえば私、なぜか夢の中で殺生丸さまたちのこと…というより、戦国時代でのことを全部忘れていたんです。あれってもしかして、幻夢蝶のせいですか?」


いつか刀々斎さんに聞いた幻夢蝶による作用。心当たりと言えばそれしかなく問うてみれば、お母さまが感心したように「そなたは知っておったのか」と呟かれた。


「正しくは蝶の中の虫によるものだが…そなたの言う通り、奴によってそなたの記憶は喰われていた。一度死んだのも、確証はないが蝶のせいであろう」
「なるほど…でも、今は問題なく思い出せるんです。これはどうしてなんでしょう?」
「…恐らく、闘牙が手を貸したはずだ。奴は人間の女に弱いからなあ」


またも呆れた様子でそう言うともう一度大きなため息をこぼされてしまった。
思えば殺生丸さまの弟である犬夜叉くんは人間の母を持つ異母兄弟。それを思うと、いくら一夫多妻制が認められている時代とはいえ、お母さまは苦労されたんだろうな…と変に勘繰ってしまう。

するとお母さまが私の思考に気付いたのか否か、どこか意地の悪い笑みを浮かべて私を見つめられた。


「そなたも気を付けよ。子が育つまでは他に手を出さぬであろうが…殺生丸もあれの息子だからな」
「え゙…い、いやっ、殺生丸さまは大丈夫だと思います!きっと!…って、子が育つまで?」


なんだか引っかかる言葉を言われたような気がして遅れて復唱する。やっぱり自分で言ってもおかしな言葉だ。子が育つまでと言っても、そもそも子供がいない。もしかしてりんちゃんのことを間違えているのでは、と思ったけれどさすがにそれはないだろう。りんちゃんもそこまで幼くない。
…ということは、将来的な話?これはお母さま公認だと思ってもいいのだろうか。

なんて思ってついついにやけ顔を浮かべそうになると、お母さまはどこか少しだけ楽しげに小さく笑みを浮かべて問いかけてきた。


「その腹の子、名は決めたのか?」


そう口にしながら美しい指で示すのは間違いなく私のお腹。
それは勘違いで浮かれていた私の頭を一瞬で真っ白にし、文字通り凍るようにフリーズさせるには十分すぎる言動であった。


「……うそでしょ…?」


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