21



「なに?娘は月光蝶を宿していたのか?」


訝しげに歪められた母上の顔がこちらを向く。

あれからというもの、私たちは母上に促されるがまま屋敷へ身を移していた。母上には状況を聞かれたが、なぜこのようなことになったのか誰も分からぬ故、“恐らく志紀は幻夢蝶を使った”とだけ呟くしかなかった。

それにより母上の先の言葉を向けられた志紀はやはり息を吹き返すこともなく寝台に横たわり、徐々に血色を悪くし始めている。目を当てることもはばかられる、そんな思いを抱かされる志紀の姿に眉根を寄せては、体温すら失い始める手を握り締めた。

すると強く鼻を啜った邪見が母上の前へ歩み寄り、その目に滲む涙を振り払うように顔を上げて見せる。


「殺生丸さまの代わりに、この邪見めがご説明いたします…この志紀という娘は御母堂さまの仰る通り月光蝶を宿しておりまして…その力によりこの戦国の世に現れた、500年以上先に生まれし人間なのでございます」
「…ほう。奇天烈ななりをしておるとは思ったが、500年以上先の…」


そう呟いた母上はわずかに眉根を寄せる。次いで「幻夢蝶か…」と呟くとなにか心当たりでもあるのか、一度固く閉ざした口を思案に歪めた。


「…宿主が幻夢蝶に殺されるなど聞いたことはないが…娘が死んだのは蝶という“力”を失った体が、本来あるはずのない“時の差”に耐えきれなくなったのではないか?人の子が時を超えるなど、本来できることではない」


そう告げるなり母上は肘置きに頬杖を突き、「まあ…私の憶測にすぎぬがな」と続ける。
…やはり残された私たちには原因など分かりそうもない。だがそれでは志紀を生き返らせることができるのかすら考えることができない。


「志紀は…天生牙でも救えなかった」


動くことのない指に己のそれを触れさせながら呟けば、母上は呆れを混じらせたため息をひとつこぼした。


「天生牙も万能ではない。誰しも、何度でも救えると思ったら大間違いだ。…それにしてもこの娘、不可解なことが多いな…」


母上でさえこのような現象は初めてか、難しく歪めた顔を志紀へ向けている。同様に志紀を見やれば、あれほど苦しげに歪められていた表情に力はなく、ただ安らかに眠っているようだった。
本当に眠っているだけだというなら、どんなに喜ばしいか。堪らずそんな思いがよぎった時、志紀の体に縋りつく小さな姿が視界に映った。

志紀の死を確信してからずっと泣き喚き、今もなお目を赤くして鼻をすするりんは志紀の着物を強く握りしめる。


「志紀お姉ちゃん…絶対に死なないって、言ったのに…もうお話しできないなんて…嫌だよ…」
「……」


りんが痛ましい様子で紡ぎ出した言葉は、私に覚えのないものであった。恐らく私がいない間――犬夜叉の連れや刀々斎らといた時のことであろう。そのような言葉を交わしていたことを初めて知った私は、胸が締め付けられるような初めての感触に眉をひそめる。

その時、母上が再びわずかなため息をこぼした気がした。
釣られるように視線を向ければ、母上の視線はりんに向いている。しかしそれも束の間、目を深く伏せた母上は音もなく立ち上がり、志紀の傍へ歩みを寄せた。


「幼子に免じて、一度だけ手を貸してやろう」
「なに…?」
「娘を生き返らせてやると言っている。察しが悪い奴だな」


呆れたように言い捨てる母上に目を丸くした。天生牙でも救えなかった志紀の命を救えると言うのか?しかし母上にそのような力などなかったはずだ。
私には考えつかぬ方法に顔をしかめれば、母上が志紀に落としていた視線を上げ、射すくめるように細めながらこちらへ向けてきた。


「時に殺生丸…そなたは聞いたことがあるか?月光蝶の宿主である娘たちの、幻夢蝶を生み出したあとのこと…」


唐突に切り出されたその話は耳にしたこともないものであった。母上の口振りからして、志紀がこうなってしまったこととはまた違うなにかがあるのは明白だ。だがそれに対する知識を得ていない私が眉根を寄せて訝しめば、母上は一呼吸置くように目を伏せて再び私を見据えた。


「月光蝶には寄生虫に等しい虫が潜んでおる。月光蝶が幻夢蝶となり宿主から離れた時…その虫だけが宿主に残されるのだ。そして虫は、宿主に寄生していた間の記憶を喰らう」
「!」
「あまりこの状態が長引けば、娘を生き返らせたところで…そなたたちと過ごした記憶はなにひとつ残っておらぬというわけだ」


淡々とそう語る母上の言葉が空虚になる脳内にひどく木霊する。
それは今まさに、志紀の記憶が食われているということか…?志紀に月光蝶が宿ったのは、志紀がこちらの世へ現れる直前であったはずだ。月光蝶が宿主に寄生していた間の記憶を喰らうというのなら、それは私たちに出会ったことも共に歩んだことも、なにもかも全てを忘れてしまうということ。

それでは…生き返ったところで記憶のない志紀は、果たして私の知る志紀だと言えるのか?


「…殺生丸。そなたはそれでも…そうなったとしても、この娘を傍に置いておきたいか」


母上はここに来て初めて厳しく問いかけてきた。
当然、志紀には元の世の暮らしもある。無責任なことはできぬと…そう言いたいのだろう。

――だが、私の答えは決まっている。


「どのような姿になろうと、それは私と歩んだ志紀だ。記憶を失ったならば、共に取り戻すまでのこと」


はっきりとそう告げてやれば母上はわずかに目を見張った。だがそれも伏せてしまい、ふっ…と笑い飛ばすと呆れたように小さく首を振る。


「全く、変なところばかり父親に似おって…」


呟くようにこぼした母上は自身に掛けていた首飾りを手にした。かと思えば志紀の首にそれを通し、手を離す。

どうやら首飾りに嵌め込まれる石は冥道と繋がる冥道石と呼ばれるものらしい。それを使うことで志紀の魂を冥道から呼び戻す。母上の口から語られるそれを聞きながら志紀を見つめていれば、突如冥道石が眩いほどの光を溢れさせた。

――しばらくして徐々に光が治まった頃、志紀の口からがわずかに吐息が漏れた気がした。


「志紀…」


生き返った――そう確信を抱いた途端、胸の奥でじわりとした安堵の感情が溢れ出すのが分かる。しかしそれとは裏腹に、志紀は中々目を開けようとしない。
呼吸は確かに戻っている。ならば眠っているのか…

そう思案する私の前で母上が小さく唸るような声を漏らすと、不意にその顔を訝しげに歪めた。


「…どうやらこの娘、あの世とこの世の境を彷徨っておるようだ…」
「なに…?」
「詳しくは分からぬが、虫かなにか…この娘に干渉しているものがいる。こうなると娘自身がここへ戻りたいと願わぬ限り、目を覚ますことはないぞ」


志紀の顔を覗き込みながらそう告げる母上の表情は不可解そうなものであった。母上でさえこのような状況は予期しなかったのだろう。しかしそのような顔を見せるのは母上だけでなく私も、そして邪見やりんでさえも不安げに似たような表情を浮かべていた。

もしかすれば記憶を失う前に志紀を甦らせた可能性さえあるやも知れぬというのに、志紀はなぜ不運ばかりを課せられなければならんのだ。
一体なにが…誰が、志紀を縛り付けている。


「志紀…」


どうすることもできぬ歯痒さに唇を噛む。今まさに志紀の記憶が喰われていると思うと、余計に胸の内が強くざわつくような錯覚に陥った。


「志紀お姉ちゃん!」
「志紀!早く目覚めんかバカ者っ!」


同様に耐え切れなくなったか、りんと邪見が涙を溜めて志紀の体に縋りつく。阿吽でさえ頭をこすりつける中、母上はただ静かに志紀へ視線を落としながら、囁きかけるようにその声を降らせた。


「時間が経てば経つほど記憶を喰われる。早く目覚めねば、ここへ戻る術を失うぞ」


意識のない志紀は当然その声に反応を見せることはない。
どうすれば志紀を呼び戻せる。どうすれば、志紀に思いを届けられる。

私は一体、どうすれば良い……


「志紀…お前の居場所は…ここだ」


早く、戻って来い――

そう念じるように志紀の手を手を強く握りしめた、その時だった。
確かに今、ほんのわずかにだが――志紀の指が震えた気がした。


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