09



志紀が現代へ赴いてから2日目の朝を迎えた。どうやら“いいこと”のために時間がかかるらしく、一度現代に行った志紀がすぐに帰って来たかと思うと“少しの間帰れない”とだけ言い残してすぐに現代へ戻ってしまった。そのまま日を跨いだ今日、志紀が戻って来るかどうかはまだ知れずにいる。


(思えば一日中志紀がいないというのは、初めてのことか…)


木に背を預けながら空を仰ぎ見れば、薄明かりに照らされる雲が色を変えて行く。
静かだ。志紀がいないというのは存外違和感があり、なんとも落ち着かないような錯覚に陥る。いつ戻って来るかなど知りはしないが、無意識の内に周囲の匂いや気配を気にかけていた。志紀がおらぬだけでこうも変わるとは、我ながら不思議でならぬ。


「志紀…」


お前に届くことはないと知りながらかすかに大気を震わせる。するとその時、志紀の匂いがわずかに鼻を掠めて私は釣られるように立ち上がりその元へ視線を向けていた。その先に、光に包まれる志紀がフワリと顕現する。
帰って来た。私がそれを認識すると同時に、志紀を待ち続けていたりんが颯爽と駆けて行った。


「志紀お姉ちゃーん!」
「ただいま戻りました。お待たせ、りんちゃん」


志紀は地に足を着くなり真っ先に私へ向かって言い、次いでりんに声を掛けながら頭を撫でてやっている。なにやら少し疲弊しているようにも見える志紀は、遅いと小言をこぼす邪見をあしらいながらこちらへ歩み寄ってきた。


「遅くなってすみません。思ったより時間がかかっちゃって…」
「用は済んだのか?」
「はい。あの…ちょっとだけ屈んでもらってもいいですか?」


よく見ればかすかに隈をつくっている志紀はどこか恥じるようにそんな要求を申してきた。なんのためかは知れぬがひとまず聞いてやろうと身を屈めれば、志紀は背を伸ばして私の首になにかを掛けて来る。その手が離れると同時に揺れたそれは…


「首飾りか?」
「はい。りんちゃんが摘んで来た花の花びらを入れてるんです」


そう笑いかけてくる志紀は嬉しそうに体を揺らす。首元に下がるそれを手に取ってみれば、確かに先日志紀に預けた花と同じ色をした花びらが雫型の結晶の中に閉じ込められていた。
不思議だ。なぜ花びらを結晶の中に入れられるのか。そんな思いで見つめていると志紀が察したのか、自慢げに顔を迫らせてきた。


「それ、私がレジンで作ったんですよっ。そういうのが得意な知り合いがいたので教えてもらってたんですけど、固める前に花びらの下処理とかが色々大変で…それでちょっと時間がかかっちゃったんです。でも、すごく綺麗にできてるでしょうっ」


我ながら天才だと思いますね、などと言いながら胸を張ってくる。どうやら相当の自信があるようだ。私には“れじん”とやらがなにかは分からんが、これだけは言えるだろう。


「その有頂天な様子がなければ完璧だったな」
「な゙…ちょっとくらい褒めてくれたっていいじゃないですかーっ」


からかうように言ってやれば案の定志紀は子供のようにむくれた。ころころと表情を変えて、これだから志紀の相手は退屈せん。むしろ私の知らぬ間に、これがいなければ落ち着かないほど馴染んでしまっていたらしい。

どこか自嘲にも似た笑みがふっ、と浮かぶ。すると落ち着かない様子を見せていたりんがとうとう堪えきれなくなったのか志紀の元へ駆け寄って来た。


「ねえねえ。りんのお花、どうなったのっ?」
「私が首飾りにしたんだよ。りんちゃんにもあげるね」
「ほんとっ!?やったー!」


志紀はぽけっととやらを漁り、ぱっと表情華やぐりんの首にも同じように掛けてやっている。それによってりんが目を輝かせ、ついには志紀に飛びついた。そんな様子を見ていれば、こちらまでつい小さく笑んでしまう。このような様を微笑ましいというのだろうな。

志紀はそのまま邪見にも同じものをやり、阿と吽にさえ与えていた。手間もかかったというそれをこれだけ作れば確かに時間もかかるだろう。むしろ1日で間に合ったのかと問えば、志紀はわずかに気まずそうな苦笑を浮かべた。


「実は、早くみんなに見せたくて徹夜しちゃいまして…できる限り急いで作ったんです」
「眠くはないのか」
「はっきり言っちゃえばめちゃくちゃ眠いです…それに殺生丸さまの顔見てたら安心して…余計に、眠く…ふああ…」


途端に大きなあくびをこぼした志紀は随分と重たげな瞼をついに落として体をぐらりと傾ける。咄嗟に手を差し伸ばせば、そのままもたれ掛かるように私の腕へ倒れ込んできた。よほど限界だったのだろう。顔を覗き込んでみると志紀はすでに寝息を立てるほど深く眠り込んでしまっている。
そんな姿に思わず小さな笑みをこぼしてはそっと志紀を抱いて再び立ち上がった。


「場所を移すぞ」


りんや邪見にそう告げ、踵を返し歩き出した。りんの返事が聞こえると同時に邪見の呆れたようなため息がこぼされ、やがて阿吽の足音が私の後ろに着いて来る。

その中で一際近く聞こえる志紀の寝息を耳にしながら、その体を落とさまいと強く抱き込んだ。



* * *




――その夜。私は志紀の傍で眠り、夢を見た。

まだあどけなさが残る少年である己と、目の前に背を向けて立つわが父の姿。音もなくまばらに降り注ぐ雪の中で、それに覆われる砂浜へ私たちは2つの暗い影を落としていた。


「…行かれるのか、父上…」
「止めるか、殺生丸…」


声をかけるがこちらへ振り返ることはなく、淡々と返事を寄越す父上の腕からは鮮やかな血が滴り続ける。本来純白であるはずの新雪は、その真新しい血によって点々と赤に染められていた。

――恐らく、いずれ父上を死に至らしめるであろう深い傷。

そんなものを受けていながら、目の前の父上はさらに戦地へ赴くと言うのだ。死を早めるだけの行為。そんなこと、誰もが許すはずがなく、行かせるはずがないだろう。だが見慣れた父上の背を見つめる私はそれらとは裏腹の言葉を口にしていた。


「止めはしませぬ…だが、その前に牙を…叢雲牙と鉄砕牙を、この殺生丸に譲っていただきたい…」


ただ静かに、己の要求を述べる。
傍目から見れば薄情な息子だと思われるだろう。だが目の前の父上がそう簡単に言うことを聞く人ではないことは、誰よりもこの私が知っていた。それも、大切なものに関わっている時は特に、だ。
それを分かっていたからこそ、止めはしなかった。いや、止められるはずがなかったのだ。


「渡さぬ……と言ったら、この父を殺すか?」


妖しく輝く満月を正面に、皮肉を交えて返して来たのはそんな問いかけだった。だが私がその問いに応えることもなく黙り込めば、辺りは途端に静寂で満ちてくる。
砂浜に波が打ち上がるほどの間を空けて、父上はそこに満ちる静けさを打ち消すように小さく笑みをこぼした。


「ふっ…それほどに力が欲しいか?なぜお前は力を求める?」
「我…進むべき道は覇道…力こそ、その道を開く術なり…」
「覇道、か…」


反芻するように復唱される言葉。
その声はどこか、呆れを孕んでいるとすら思えるものであった。


「殺生丸よ…お前に守るものはあるか?」
「守るもの…?」


わずかに幼さを残す澄んだ金の瞳に、父上の背が鏡のごとく映し出される。その傍らでは、緩やかでありながらもしっかりと砂浜を打ち付ける波が、まるで私の心境を表すように音を立てた。


「そのようなもの…この殺生丸には必要ない…」


馬鹿馬鹿しい問いだ。自身の中でそう切り捨て、答えると同時に音もなく右手を持ち上げる。それを自身の真横へ滑らせた瞬間、父上の妖気がとてつもなくざわつきを見せ始めた。
だがそれも束の間のこと。息をする隙すら与えられないほどの刹那に、自身を吹き飛ばさんとする凄まじい豪風が放たれた。私はその風を受けながら足を踏みしめ、瞬く間に巨大な影を落とす目の前のものを見つめる。

一度たりとも父上の背から離れることのなかった視線が捉えていたものは、月光に輝くほど美しい毛並みをした著大な化け犬だった。

満月へ向かって雄叫びを上げる父上の姿は、一体なにを語っていただろう。私がそれを知るよりも早く、“本来の姿”と化した父上はすぐに遥か彼方へと消え去ってしまった。



* * *




ふ…と目を覚まして静かに天を仰ぐ。そうか、今宵は森の傍にあった古屋に身を寄せていたな。薄汚れた天井が見えたことでそれを思い出すと、開かれた小窓から覗く夜空を見た。
枠に切り取られたように姿を見せる空にはあの日と同じ、妖しく輝く大きな満月が昇っていた。


(懐かしい夢を…)


忘却の彼方へ消えてしまったと思っていた幼き記憶。その日と大差ない姿を見せるその月は、どこか儚く、哀愁すらも感じさせる気がした。

――私が見た夢。
それはかつて父上が竜骨精との闘いの後に、犬夜叉の母である人間を助けに行こうとしていた時のものだ。

以後父上の姿を拝むことは叶わなくなり、追っていた背中が記憶の中だけのものに成り果てた頃――『殺生丸へ』などと書かれた板と共に朴仙翁に吊り下げられていた刀は、私が求めた叢雲牙でなければ鉄砕牙でもなく、一度も欲した覚えのない癒しの刀・天生牙であった。

納得がいかなかった。それ故に父上の骸の中に残されているという鉄砕牙を求めて彷徨った。だが結局それは弟でありながらにして半妖の犬夜叉へ渡ってしまい、ついには叢雲牙の行方すらも失った。そうして私はどちらも手にすることはなく、切れぬ刀の天生牙と鬼の牙から打たせた闘鬼神のみを携えている。

なにがいけなかったのか。
なにゆえ父上は求めた刀を下さらなかったのか。

いつ何時思い返そうと、その答えは見つけることができないでいた。だが、その答えに繋がりがあろう言葉には覚えがある。父上が満月を見据えたまま、投げかけて来たあの問いだ。


「殺生丸よ…お前に守るものはあるか?」


――今まさに、命を賭してまで守りたいものがある。
そう語っているような気さえした父上の背中を脳裏に甦らせた。当時は妖怪の妻――わが母がいながら他の女を身篭らせておいて、なにが守るものだと思うこともあった。しかもその相手はあろうことか人間なのだ。
いくら尊敬する父上とは言え、その行為だけは理解できぬ…いや、理解しようとすらしなかった。そして自分は違うのだと。まるで自らに言い聞かせるかのように“必要ない”と言い切った。


「守るもの…か…」


気付けばそんな声が口を突いて出ていた。それを自身の耳に届かせながら、音もなく目の前の者へ視線を向ける。
過去の自身の言葉を否定する存在が、今まさに私の前にいた。安らかに眠り、月明かりにほんのりと照らされる人間の少女。それが――志紀こそが、私を変えてしまった存在なのだ。

いや、変えてしまったのは志紀に宿る妖怪蝶によるものなのかも知れぬ。だがそれでも今、確かに自分の意思で大切だと判断できる者であることに間違いはなかった。


「志紀…」


安心しきった様子で規則的な寝息を繰り返し眠るその姿にふと手を伸ばす。髪を梳くように撫でてやれば、志紀はほんのわずかに微笑んだように見えた。

こうして眠る姿はまるで幼子のようだ。こんな幼子など持った覚えはない、と言えば志紀は怒るだろうな。或いはふて腐れて口を聞かなくなるかも知れぬ。それとも…
なんて他愛のないことを考えてしまうと思わずふっ、とほんの小さな笑みが漏れる。

志紀のことはいくらでも考えられた。歳相応に落ち着いたところはあるものの、やはりどこかりんと同じく無邪気なところを残す志紀は面白いほどに表情を変える。時には落ち込み、時には泣き、時には照れて時には笑う…なんと忙しない奴よ。

私とは違うためにその感情表現の豊かさに理解ができなかったこともあったが、それでも私の脳裏でなにかにつけては微笑みを見せる志紀の姿が浮かんでは消えて、また浮かぶのだ。いつの日も、忘れることがない。


「(お前は本当に…不思議な奴だ…)」


出会ったばかりの頃に思ったことは、今も変わりはしなかった。
こやつは畏怖の念をぶつけて来ることもなければ侮蔑的、挑発的な態度をとることもない。敬語こそ使うものの、接し方はりんたちとのそれとあまり変わらないものだ。今までにそのような者は幼いりん以外に見たことがなかった。


「志紀…」


頬に掛かる髪を指でそっと退けながら囁けば、志紀の唇がほんの微かに結ばれる。しかしそれもすぐに解かれ、聞こえないほど小さな吐息を漏らしては


「殺、生丸…さま…」


と呟かれた。邪魔だったかと動きを止めて手を離しかけたが志紀は動くことなく、さらには黙ったままなんの反応も見せない。

…眠っている。恐らく寝言なのだろうが、本当に今声を発したのはお前かと問いたくなるほどに、ぐっすりと。
やはり子供のようだ。そう思いながら笑みをこぼし、傾きかける満月へ視線を向けようとした時だった。


「ありがとう…ございます…」
「……!」


思いもよらぬその言葉にわずかながら目を見張ってしまう。再び志紀へと視線を落とすがやはり眠ったままだ。

一体それは、なにに対しての礼なのか。

なんの夢を見ていてそんな言葉を発したのか私には分かるはずもなかったが、覗き込んだその顔が柔らかに微笑んでいるのを見れば理由などどうでもよくなった。それに、礼を言われることに悪い気はしない。

――だが、それを言うべきはお前でない。
どちらかというならばそれは、私の方なのだ。


「私と共になったこと…感謝するぞ、志紀…」


その言葉と共に、私はそっと志紀の髪に口付けを落とした。


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