23
陰湿な闇に包まれた屋敷の一室に白い光が浮かぶ。神無の鏡だ。
解き放った志紀の動向を監視していたが、やはり四魂の玉のかけらの力は計り知れぬな。あれほどまでに殺生丸を慕っていた志紀に、いとも容易く刃を向けさせてしまうとは。殺生丸もわしの思惑通り、志紀には手を出せぬようで滑稽極まりない。
こうなればあとは時間の問題だ。奴が志紀の手にかかる姿、この目でしかと見届けてやろうではないか。そう思っていた。
――だが結果はどうだ。
志紀は自らの意思を露わにし、何度も殺生丸へ訴えかけていた。奴はただの人間でありながら、かけらの力に抗っていたのだ。
わしが志紀の霊力に気付けなかったのかとも考えたが、それも違う。ならばなぜ抗えたのか。
(想いはかけらの力をも凌駕する、とでも言いたいのか…)
涙をこぼしながら殺生丸に縋る志紀の姿にそんな可能性を思わされる。馬鹿馬鹿しい。たかが人間の感情ひとつで四魂のかけらに抗えるはずがない。
…だが他になにがあると問われれば、わしは答えることができるだろうか。
「失敗、か…」
紛れもない事実を口にしては自分を嘲笑する。勝利を確信していたにもかかわらず失敗してしまうとは情けない。原因は分からず仕舞いだ。しかしもうそれでよい。
(やはり人間ほど、理解に苦しむ生き物はおらぬな…)
鏡の中で切なくも嬉しそうに涙をこぼす志紀の姿で呆れ返る。もうなんの利益もない姿を見ていても時間の無駄だと、神無に下がるよう命じた。
大人しく人質にでもしておけばよかったか。などと考えるが、今となってはもうあとの祭りだ。もう一度志紀をこの手の中に納めようとしても、恐らく奴は簡単にすり抜けてしまうのだろう。
抱き締めたあの瞬間の温もりを思い出すように手のひらを見るが、そこに志紀の名残はなにひとつとして残っていなかった。
「奈落…」
不意に呼びかけられて顔を上げれば、ただの鏡と化したそれを抱く神無がこちらを静かに見つめていた。
「下がれと言ったはずだ」
「……」
咎めるように言えば神無はほんのわずかに俯いて小さく首を振るった。こやつがわしの命令に背くなど…今まであっただろうか。なにを考えているのか、端的に問えば神無は再び静かに顔を上げた。
「…気に…病まないで…」
予想などできるはずのなかった言葉に目を見張る。
感情の無い神無は表情こそ変わらないが、それでも確かにわしを気遣う言葉を発した。慰めろと命令したわけでもない。むしろ今はひとりにさせろという意味を込め、下がれと命じたばかりだ。
それなのに神無は、自分の本心から今の言葉を…わしを慰めようとしたのだ。
「…ふん。病むものか」
配下に気遣われるなど、と己を律するように窓の外を見据えた。遠く紺碧の夜空には満ち満ちた月が仄かな光を放っている。
そうだ。あの月のように四魂の玉を完成させてしまえば、全てが思惑通りとなる。さすれば志紀でさえも、我が手中で思い通りにさせられる。早く四魂の玉のかけらを集めなければ。早く完成させなければ。
そんな思考を巡らせていたその時、不意にひやりと冷えたなにかが柔らかく手に触れてきた。
「奈落には…私たちがいる…」
「…神無…」
まだいたか。その言葉は口から出ることはなく、温度のないその手から暖かさを感じるような気がした。
「…ったく、しけた面してんじゃないよ。らしくもない」
そう言いながらパシンッと扇子を閉じ姿を現したのは神楽だった。なぜお前までここに、そう問いかけようとすれば神楽はさも当然だと言わんばかりにこちらへ歩み寄って来る。真っ直ぐこちらを見下ろしていた視線は、フ…と隣の神無へと移された。
「神無、あいつ…なんて名前だ」
「志紀…」
神無が蚊の鳴くような小さな声で答えれば「そうそう。そんな名前だったね」と呟き、再びその瞳をこちらへ向けて来る。一体なにが言いたい。その思いで真っ直ぐ神楽を見やればそれは静かに腰を降ろし、手にしていた扇子をこちらへ差し向けて来た。
「奈落。志紀に会いたきゃ、堂々と会いに行けばいいだろ。あいつはその方が受け入れてくれるはずさ」
「きっと…許してくれる…」
なにを言い出すのかと思えば、神無まで加わってこのわしに説教か。わしは志紀に会いたいわけではない。そう反論しようとしたが、自身の胸の内でそれを肯定している感情があることに気付いてしまった。
「……ふっ」
ああなんと、憐れなことか。これでは人間と変わらぬではないか。
やはり人間を肥やしにしたせいか。あの浅ましい野盗と同じ感情というものが、わしの中にもあると言うのか。それはひどく気に入らなかったが、それでも胸の内に感じるその感情に嫌な気配はなく心地よさすら感じるような気がしていた。
「神無。志紀を映せ」
思うがままに指示すれば、神無は鏡をポウ…と光らせる。すると鏡の中には現在の志紀が映し出された。気が落ち着いたのか志紀は殺生丸の傍を歩き、微笑みすら浮かべている。
それを共に見ていた神楽が静かに扇子を開き、その向こうで小さく笑みを見せた。
「また迎えてやんなよ。あたしもこの子、嫌いじゃないしさ」
「…………」
神楽に続いて神無が確かに頷く。そして“どうする”と言わんばかりの視線を向けて来る配下たちに、思わず笑みをこぼしてしまった。
「…ならば、次はちゃんと招いてやろう」
そう告げれば神楽と神無は釣られるように仄かな笑みを見せてくる。神無が笑うとは、珍しいな。同様の思いを抱えた神楽にそれを指摘され、神無は「私だって…笑う時は笑う…」と小さく反論した。そんな姿にまた、わずかな笑みが込み上げてきた。
このような時間も、悪くはないものだな。
back