19



志紀の家から戻って来たあの時以来、志紀がどこか悩んでいる様子でいた。時折目が合えばやけに驚いたように逸らし、果てには逃げてしまうこともある。以前どうかしたかと問うたことがあったが、志紀は意味もなく慌て、なんでもないと返して来た。なんでもないはずがない。それは明らかだったが、志紀本人がそれを認めていないようであった。

なにか気に障ったことをしてしまっただろうか。そう考えるが、志紀から嫌悪の感情を感じたことはなかった。むしろそれとは逆の、心地よさすら感じるような…
だがそれがなんなのか私には分からず、釈然としない気持ち悪さを感じていた。


「殺生丸さまーっ!」


不意にりんが駆け寄って来る。その表情にはどういうわけか不安げな陰りが見えて私は思わず足を止めてどうしたと問うた。


「あのね、志紀お姉ちゃんがのぼせたかもって。お顔も真っ赤なの。だからちょっと早いけど、志紀お姉ちゃんのために休憩してあげて?」


必死に懇願するように言うりんの言葉に思わず振り返る。こちらを見てはいないが、確かに志紀の頬は赤く染まっているのが見えた。
人間は病に伏せやすいと言う。ならばりんの言う通り、早々に休息を与えるべきだろう。そう判断を下した私は邪見へ告げ、傍の川辺まで歩みを進めた。

志紀はゆっくりとした歩で着いて来るなり傍の木に阿吽を落ち着かせている。りんもそこへ駆け寄って行ったが、志紀自身が休もうと言う素振りを見せない。あやつはたまに無駄な遠慮をすることがあるが、またそれかと呆れて歩み寄った。


「志紀」
「! せっ、殺生丸さま…えっと、な、なんですかっ?」


名を呼んだだけだと言うのに、こやつはなにを警戒しているのか。明らかに落ち着かない様子を見せる志紀に訝しげな感情を抱きながらも逸らされかけた顔を掴んでこちらを向かせた。


「大丈夫か。のぼせたと聞いたが…」
「やっあの、だ、大丈夫です!!大丈夫ですから!」


志紀はそう言い放つなり、私の手を振り払って走って行ってしまった。その様子を傍で見ていたりんが心配そうな表情を見せる中、同じく見ていたのであろう邪見が近寄ってくる。


「殺生丸さまの手を振り払うなど無礼極まりないやつ!この邪見が懲らしめてきます!」
「ダメだよ邪見さま!きっと志紀お姉ちゃんだって、殺生丸さまが嫌でそんなことしたんじゃないよっ」


頬を膨らませ邪見に抗議するりんは、志紀が消えた方角へ心配そうな表情を向けるなり小さく俯いた。かと思えば、こちらへ振り返って払われた私の手を握り締めてくる。


「殺生丸さま。志紀お姉ちゃん、なんだか悩んでるみたいなの。だから少しだけひとりにさせてあげよう?」


その提言に言葉を返さないでいれば、りんは一層手に力を込めた。


「殺生丸さまが心配するのは分かるよ。りんも同じだもん。でも今はたぶん…ひとりにしてほしいんだと思う…」
「私が奴を心配している…?」


なにを言い出すのかと思えば、なんの戯言か。思わず私が復唱すればりんはしかと頷き返し、なんの曇りもない瞳で私を真っ直ぐに見つめ続ける。


「だって殺生丸さま、志紀お姉ちゃんのこと好きなんでしょ」
「!」


どういうわけか、私の胸の奥で心の臓が強く脈を打った。なんだ、この感覚は。
まるで全てを見透かしているとでも言うようなりんの瞳から逃れるようにフ…と顔を背ければ、怒りに身を震わせる邪見が声を荒げた。


「なっ…なにを言い出すかと思えばっ!りん、戯言も大概にしろ!殺生丸さまがただの人間の小娘である志紀なんぞを好むはずがなかろうがっ!」


私の代わりと言わんばかりにがなり立てる邪見にりんが反論しようと身を乗り出す。
その姿を見据えながら、私は脳裏に志紀の姿を思い出していた。それと同時に胸の内へ広がるなにかを不審に思いながら、騒ぎ立てる邪見へ静かに視線を向ける。


「邪見。黙っていろ」
「し、しかし殺生丸さま…」


りんが納得しないのが不服か、邪見は困惑気味に引き下がる。お前が言ったところでりんは聞かぬ。私が邪見を止めたことにより期待のような眼差しを向けて来るりんへ振り返っては、なんの迷いもなく、ただ静かに告げた。


「邪見の言う通りだ」


私があやつを好いているはずがない。
そう思いながら、私は志紀が姿を消した森の方へ視線を向けていた。



* * *




志紀が姿を消して、どれくらいの時が経っただろうか。りんの言う通りひとりの時間を作ってやったが、あいつは一向に帰って来る気配を見せない。遠ざかった匂いからして恐らく森へ入ったのであろうが、また迷っているのか。
志紀はすぐ道に迷う。その上、妖怪に狙われることが多いのだ。森の中など、妖怪がいくらでも潜んでいるであろうに志紀はそれを警戒する素振りもなく踏み込んでしまう。


(…だから危なっかしいと言ったのだ)


小さく溜め息をこぼしては迎えに行くべく立ち上がった。釣られるようにりんがこちらへ視線を向けて来たその時、暗雲と共に流れ込んできた匂いに顔をしかめる。

この匂い――奈落か。

奴め、懲りずに志紀を連れ去りに来たか。やはり早く志紀を迎えに行くべきだ。本能が叫ぶようにそう言うのを感じながら、私はすぐさま志紀が消えた方角へ足を踏み出した。


「おっと、そっちには行かせないよ」
「……」


奈落の匂いが一層強まったかと思えば背後から聞き覚えのある女の声。目線だけをそちらにくれてやれば、女――神楽が扇子を掲げて胡乱げな笑みを浮かべていた。


「貴様…なんの用だ」
「ちょいと奈落に頼まれてねえ、あんたの連れをもらいに来たのさ」
「……」


狙いはやはり志紀か。それを確信しては神楽から顔を背けた。奈落の使いがここにいるということはすでに志紀が危険に曝されている可能性がある。そうとなればこんな奴に構っている暇などない。

私が志紀の元へ向かおうと地を蹴りかけたその時、目の前の木が刃のような風によって薙ぎ倒された。


「さっきも言ったろ。…行かせないって」
「…………」


鬱陶しい女だ。こんな女構うほどではないが、向こうの物陰にはりんと邪見が身を潜めている。私が神楽を放って行けば、武器も持たぬりんが狙われるであろう。


「…おいおい、そんなに睨むなよ。あたしはただ“時間稼ぎ”を頼まれてるだけなんだからさ」
「時間稼ぎだと…?」


奴の目線が森へ向いた。間違いではなかった。やはり志紀は、奴の仲間に狙われている。私は全てを悟ると同時に自身の毒爪を構えていた。


「へえ。そんなにあの小娘が大事かい」
「戯けたことを。貴様らの手出しが鬱陶しいだけだ」
「…そういう割にはあんた、あの小娘を必要以上に気にかけるじゃないか。奈落がどうとか、関係ないんじゃないのかい?」


扇子の向こうで笑みを浮かべながら囁く神楽の言葉に耳を疑う。確かに志紀を気にかけているのは事実だ。だがそれは小賢しい奈落の手に渡らぬため。奴に餌を与えぬためだ。

しかし、本当にそれだけか?

胸の内の違和に眉をひそめていれば、不意に虫の羽音が近づいて来る。奈落が連れていた毒虫か。神楽がそれに振り返りなにかを受け取ると毒虫へ耳を傾けた。


「…ったく、もうお暇かよ。おい殺生丸、奈落から伝言だ」
「伝言だと?」


復唱すれば神楽は退屈そうな表情を見せた。


「“志紀は預かった。我が城で待つ”ってさ」
「っ!」
「おっと…早まるなよ。あたしを殺したって、あの小娘は帰って来やしないぜ」


私の毒華爪を軽々とかわすと、神楽は扇子を広げてその向こうに歪んだ笑みを湛えた。こやつをどうしようと志紀が帰って来ないことなど分かりきっている。奈落から奪い返さねば、志紀は…。それを思うと、一層腹の底が煮えるような感覚を覚えた。

神楽はそんな私の姿に呆れたようなため息を漏らし、毒虫から受け取ったものを無造作に投げ放って来る。私がそれを掴み取ると同時に、神楽は自身の髪飾りから顕現させた羽根に身を移していた。


「ま、精々頑張りな」


それだけを言い残すと神楽は呆気なく私の元から去って行った。巻き上がる風を受けながら手を握り締めれば、中のものの感触に胸がざわつくのを感じる。
それを確かめるべく静かに手を開けば、そこには見覚えのある銀色の蝶が鈍い光りを放っていた。


「志紀…!」


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