12



あれからまた何度目かの夜明けを見た。
もう帰りの心配をしなくてもいいと分かった私は、これまでにないくらい軽やかな気持ちで殺生丸さまたちとの旅を続けている。

――そんなある日のこと。
いくつかの峠を超えた私たちは木々に囲まれる無骨な山道を歩いていた。珍しく一番後ろを歩く私の前には阿吽に乗っているりんちゃんとその手綱を引く邪見の2人がいる。他愛のない話を、というか、うんざりする邪見にりんちゃんがひたすら話かけまくっている中、段々と眠気に誘われる私は人目もはばからずにみっともないくらい大きなあくびをこぼしていた。


「――志紀…」
「ん?」


微かに聞こえて来た、私を呼ぶ声。男の人の声だ。
まるで頭の中に直接響いてくるようなその声はなんだか聞き慣れないもので、違和感を覚えた私は咄嗟に声の主を探そうと視線を巡らせていく。


(誰も、いない…?)


ぐるりと一周見渡してみたけれど、見えるものは見慣れた仲間と豊かな大自然のみ。辺りにそれらしい人影はひとつもなくて、もしかして今のは殺生丸さま?なんて疑問さえ浮かんで来る。確かめるように当人の背中を見つめてみるけれど、彼はこちらへ振り返って来てもいないし足を止めてすらいない。もし殺生丸さまが私を呼んでいたとすれば、彼はとっくに振り返って来ていて“聞いているのか”とお叱りになるはずだ。


「…気のせい…かな」


唸りながら大きく首を傾げてそう結論付けた途端、また大きなあくびが込み上げてくる。うーん、やっぱり眠い。昨晩はしっかり寝たはずなんだけどな。そんなことを思いながら体を伸ばしてみれば、ポキポキとみっともない音が体中から鳴ってしまった。これだけ運動してる、というかさせられているのに、それでもまだ訛っているというのか。

もうこれ以上の運動は無理だよ…なんて、誰に宛てたわけでもない言い訳を胸の内にこぼしたその時、不意に私の視界をなにかがフワ…と横切って行った。


「ん…?」


なんだろう。ふと気を引かれた私は、まるで釣られるようにそのなにかへ振り返っていた。
どうやらそれの正体は、黒と赤が鮮やかな模様を描く1匹の蝶。テレビや図鑑でもどこでも見たことがないくらい、幻想的な蝶。

その姿をはっきりと視認した瞬間、どういうわけか私を包んでいた眠気が全て消え失せてしまうほどに意識が覚醒した。無意識に足を止めてまでそれを見つめていると、蝶はまるで私を誘うようにヒラヒラと飛んで行き森の中へ消えようとする。このままでは見失ってしまう。そんなの絶対にダメだ。行かせてはいけない。なぜかそんな焦りが全身を駆け巡って脳を支配し、いつしか私はなにもかもを忘れてその姿を追っていた。



* * *




森の中は木々が日光を遮り、昼間だというにも関わらず不気味なほどに薄暗い。その上私はここへ踏み込んだ目的である“赤い蝶”をものの見事に見失ってしまっていた。まだ近くにいるはずだと思い、数分程度適当に歩き回ってみたけれどやはりその姿は見当たらない。
諦めるしかない、と渋々決断した私は心の隅でこれまでにないくらい惜しみながら、来た道を真っ直ぐとぼとぼと戻り始めていた。

……はずだった。


「ど…どうしよう…迷った…」


いつまで経っても変わらない風景にぽつりと呟けば、自分の声がやけに大きく聞こえて不安を煽られる。気付けば歩くことすらやめて、脱力したように頭上を見上げていた。
せめぎ合う葉と葉の間にちらつく日の光が眩しい。けれど森の中を明るくするほどではないそれに縋るような思いを抱えながら耳を澄ませば、野鳥の小さな鳴き声と木々のざわめきだけがかすかに耳に届いて来た。これはきっと気付かない内に随分と奥深くまで来てしまったに違いないだろう。


「はあー…なんでこの歳にもなって蝶なんて追いかけたんだろ…私のバカ」


自分の軽率な行動に呆れ返りながら力なく木へともたれ掛かる。確かに昔から子供っぽいとは言われるけど、まさかこれほどまでとは思わなかった。抱きつく癖も治さないとと思っていたのに、それ以前の問題が浮上してしまったではないか。思わずがっくりと肩を落としながら落胆した、その時だった。


「志紀」
「!」


不意を衝くように、またどこかから響いて来る男の人の声。思わずドキッと心臓を跳ねさせながら辺りを見回すものの、やはりそれらしい姿はどこにも見当たらなかった。
でも今の声は以前聞いたものとは違って、直接耳に届くようなもの。それも、さほど遠くない距離からのものだった。
それを思うと背筋へ得も言われぬ悪寒が走り、冷汗が頬を伝っていく。堪らず後ずさろうとするけれど、もたれ掛かっていた木がそれを阻んでしまった。


(誰か…いる…)


見えない。気配も感じない。
けれど確かに傍にいる誰かへ、とてつもない恐怖心が駆り立てられた。


「志紀」
「っ!!」


耳元でハッキリと囁かれたその瞬間、私はまるで弾かれるようにそこから飛び退いた。
心臓の音がうるさい。頭の中を埋め尽くさんとするその音に顔をしかめながら声の元を見れば、なにかの白い毛皮を被った見慣れぬ人物がそこに立っていてこちらを真っ直ぐ見つめて来ていた。


「だ、誰…ですか…」


心音がうるさく響く中、私は声を絞り出すように尋ねていた。
こんな人、見たことがない。私を知る人は限られているはずなのに、なんでこの人は私の名前を知っているんだろう。睨むように視線を研ぎ澄ませれば、相手はやはりあの時と同じ声でハッキリと答えてきた。


「わしの名は奈落…その様子だと、奴からまだなにも聞いておらんようだな」
「奴…?ご、ごめんなさい…さっぱりです…」


奴、というのが誰を差しているのかは分からないけど、奈落という名前を耳にしたことはない。でも相手は私を知っているようだし、もしかしたら殺生丸さまの知り合いの可能性がある。それでも私だけが全く知らないということがなんだか悪く思えて来てつい謝ったけれど、奈落さんはくく、と小さな笑みをこぼして「それは好都合だ」とどこか楽しげに言ってきた。好都合ってなんのことだろう…。


「あの…あなたはなんでこんなところに?殺生丸さまならここにはいませんよ」


そう伝えながら自分ではっとする。そうだった、私だけ途中で勝手な行動をとっちゃったから、殺生丸さまたちと思いっきりはぐれているんだった。戻ったら確実に怒られる…。
私がひとりで顔を青くさせていると、奈落さんは再びくくく、と小さな声を漏らした。


「奴に用はない。用があるのは志紀、お前だ」
「わ、私?」


予想外の言葉に目を丸くしてしまう。初対面の私なんかに一体なんの用があるんだろう。
そんな思いが浮かんだ時、不意に毛皮の下の目が不気味に歪んだのが見えた気がした。


「お前を――人質にするためだ」


その声とともに、無骨で大きな手を伸ばされた。ビク、と肩を揺らすよりも早く、広げられた手が私の視界を覆い尽くそうとする。その瞬間私は咄嗟に首元のネックレスを力強く握り締めていた。

殺生丸さまが来ることを願うように。

それに伴うように、辺りの大気が突然大きく歪んだ気がした――その時だった。なにかがまるで私を庇うように目の前に立ちはだかって、奈落さんがそれから逃げるように後ずさって行く。
あまりにも唐突すぎる一瞬の出来事に呆気にとられた私が見たものは、ひどく見覚えのある美しい銀色の長い髪だった。


「殺生丸さまっ!」
「貴様…なんの用だ」
「くくく…」


殺生丸さまが問いかけるもそれに答えず、奈落さんは妖しげな笑みを残してこの場を立ち去ろうとする。けれどその刹那、殺生丸さまの爪が目にも留まらぬ速度で大きく振るわれた。

血を恐れて咄嗟に目を瞑ってしまった私が顔を逸らせば、遅れてコトン…という固い音が小さく聞こえて来る。その他には悲鳴もなにも聞こえることがなく、不思議に思った私は恐る恐る目を開けて殺生丸さまの背後からそっと覗き込んでみた。すると飛び込んで来た思わぬ光景に強く目を見開いてしまう。


「え…!?」


驚きのあまり、小さな声が口を突いて出る。なぜならそこに奈落さんの姿はなく、白い毛皮だけが無造作に広げられていたのだ。血もなければ残骸もない。奈落さんを構成していたはずのものが、なにひとつ見当たらなかった。
不審に思った私はほんの数歩近づいて、眉をひそめたまま毛皮の周囲を凝視する。そこに見つけたのはなにやら人の形をした、木製の人形のようなものだった。それがどういうわけか真っ二つになって転がっていて、中央に細長く開いた穴には誰かの黒い髪の毛が1本だけ緩やかに巻かれている。


「傀儡か」
「くぐ、つ…?」


私がつまみ上げる人形は傀儡という憑代らしい。どうやら殺生丸さまは以前にもこれを見たことがあるようで、さほど気にする様子も見せなかった。しかも聞いてみれば、これを操っていた人物…奈落さんの実体はここではないどこかに身を隠しているという。


(わざわざ身代わりなんて使って…奈落さんはなにかを警戒していた…?)


そんな思いが浮かんで来るけれど、やっぱり違和感が残る。警戒すると言っても私には武器も力もない。だから私はその対象にはならないはずだ。ということはもしかして、殺生丸さまを…?


「志紀。そんなもの捨てておけ」
「あっ、はい」


不意をつくように素っ気ない声を投げかけられて、我に返った私は咄嗟に傀儡を放り投げて手を払った。殺生丸さまはその様子を見届けられると、フっと顔を背けてしまう。私はしゃがみ込んだままその姿を見上げて、聞いていいのかと少しだけ悩みながらも小さく問いかけてみた。


「殺生丸さま…あの奈落さんって、一体何者なんですか?」
「…稀に現れる、小賢しい男だ」


そう告げてくる殺生丸さまはいつもと変わらない無表情でありながら、どこか怒りを孕んだような、少し怖い雰囲気を纏われていた。知り合いかと思っていた時もあったけれど、そんな生易しいものではなさそうだ。まず出会いがしらに殺そうとしていたレベルだし、どちらかと言えば因縁の相手である可能性が高い。でもなんでそんな人が私のところに…


(…奈落さん、か…)


わずかに俯きながらその姿を思い返す。毛皮で姿は分からなかったけど、垣間見えたその目はどこか自信に満ち溢れたものに感じられた。それでもその奥に、どうしてか寂しげな感情も感じられた気がして。

初めて対面した相手のことなんて全然分からないけれど、私にはそれがやけに強く印象に残って不思議でたまらなかった。


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