11



目の前の光景にただただ呆然とする。これはどう見たって馴染みある私の家だ。家具もカーペットもなにもかも、記憶の通り。
あまりにも突然すぎる変異によって私はただ呑気に“自分ってこんな匂いなのか…”なんて考えてしまっていた。確かに嗅いだことがある、懐かしいような馴染みある匂い。これが殺生丸さまが言う私の匂いかとまで考えて、ようやく隣で同じように立ち尽くす存在に気がついた。

あまりにも驚きすぎて頭が真っ白になりかけていたけど、今私の隣には本来いるはずのない殺生丸さまがいらっしゃる。きっと困惑しているだろう彼になにか声をかけようと慌てるも、それより先に唇を薄く開かれた。


「ここはどこだ、志紀」
「ええっと…私の思い違いじゃなければ、現代の私の家…のはずです…」
「お前の…?」


明らかに怪訝そうな表情を浮かべられる。そりゃそうですよね。いきなり私の家に飛んだ(?)んですもんね。しかも私の家ってことは、時代まですっ飛んじゃってるわけだ。はっきり言って私自身も全く理解できていないし、本当にこれが私の家かどうかも未だに疑ってるくらい。

ぐるりと部屋中に視線を巡らせてから殺生丸さまを見上げてみれば、彼もまた同じように部屋を見渡している。
な、なんだろう…めちゃくちゃ恥ずかしい。そんなに散らかってるわけじゃないけど…。
なんて考えてはっとした。そう言えば私、戦国時代に飛ばされる前にコンビニに行こうとして傘立てを蹴っ飛ばしていた気がする。それも帰ってから直そうと思っていたから、帰れていなかったその間の傘たちはあの時の姿のままであるはず。

ということは、自分の家かどうかをそれで確認できるというわけだ。それに気付いた私は慌てて部屋を駆け出すと、勢いよく玄関へ飛び出していた。


「あっ…」


目に飛び込んできた光景に思わず小さな声を漏らしてしまう。なぜならそこには、ばったりと倒れた数本の傘と傘立てが派手に散らかっていたからだ。

ここは私の家だ。もう間違いない、これではっきりと確信できた。
そう思うと歓喜の感情がふつふつと湧き上がって来て、いても立ってもいられなくなった私はすぐさま殺生丸さまの元へと駆け戻って行った。


「殺生丸さま聞いてください!ここ本当に私の家です!ついに帰って来られたんですよーっ!いやったー!!」
「!」


私は嬉しさのあまり両手を広げて駆け寄ると、勢いそのままに殺生丸さまの懐へと飛びついていた。その衝撃が突然のことで耐えられなかったのか、殺生丸さまはぐらりとバランスを崩して真後ろのベッドに倒れ込んでしまう。
それに伴い銀の髪が大きく広がる中、私は嬉しさに感極まって殺生丸さまの着物を濡らしてしまっていた。


(本当に…帰って来られたんだ…)


長いようで短い日々、ずっと待ち望んでいたことが、ようやく現実になってくれた。
それを思いながら涙ぐむ私はぐす、と鼻を鳴らして。それでも殺生丸さまがいる手前、そんな涙も抑えようと必死に力を込めていた。


「……志紀」


不意に、黙り込んでいた殺生丸さまが私を呼んだ。その声に応ずるようにゆるりと顔を上げると、涙の向こうの殺生丸さまがわずかに眉根を寄せて、怪訝そうな表情を浮かべられているのが分かった。なにかが気に障ったような、そんな様子。
それにほんの一瞬だけぽかんとすると、遅れて冷静になり始めた頭がようやく現状を理解して来て、私の顔は瞬く間にサアー…と血の気を引かせていった。


「ごっ…ごめんなさい!!つい嬉しくて、その…すぐに退きますからっ!」
「…………」


涙を拭い、慌てて謝罪しながら仰け反るように体を起こせば、それに伴って殺生丸さままで上体を起こしてくる。
あ、ダメだ終わった。怒られる。
なんて思いが瞬時に脳裏を横切ると、それを肯定するように殺生丸さまの大きな手が私の後頭部をむんずと掴んでくる。グッバイ現世。また会おう。
今生の別れだと次なる衝撃を待てば、私の頭は粗暴にもこもこのなにかへ押し付けられてしまった。


(あれ…?い、痛くない…?)


予想外の感触に目を丸く見開くと、私の視界は真っ白いふわふわした毛に埋め尽くされていた。
こ…この感じはもしかして、殺生丸さまが身に付けられている……


「ぷはっ。せ…殺生丸さま…?」


押し付けられる頭をなんとか上げて殺生丸さまを見上げてみれば、彼は私に視線をくれることもなく呆れたように囁いてきた。


「泣きたいのなら好きなだけ泣け。それくらいは待ってやる」


淡々と言われたその言葉。それがなんだかひどく胸に沁みて、おさまりかけていたはずの涙がまた少しずつ溢れ出して来た。それでもなんとか堪えようとしていれば、殺生丸さまがまるでそれを許さないかのように私の頭をぎこちなく撫でて来る。

それに大人しく身を委ねていく内に、私はとうとう緊張の糸を切らせて泣いてしまった。


(いつも素っ気ないくせに…こんな時ばっかり優しくするなんて、ずるい)


そんな思いを抱えながらしばらく涙を拭い続ければ、もう大丈夫です、とようやく顔を上げることができた。きっと顔なんて目も当てられないくらいぐしゃぐしゃだ。でももうそんなことはどうでもよくて、えへへとぎこちない笑みを浮かべていた。

それを横目でちらりと見た殺生丸さまは一度呆れたように目を伏せると、小さくため息をこぼして着物の袖を手に取った。なにをするのかと思って見ていれば、突然それが私に向けられて涙に濡れた頬をグッ、と無造作に拭われる。ちょ、ちょっと痛い…。


「…って!ダメです殺生丸さま!着物が汚れますからっ」
「それがどうした」


そっ、それがどうしたって…。
殺生丸さまがあまりにも淡々としているせいで思わず返す言葉を失ってしまった。そりゃあ妖怪なんかを手にかけた時少し汚れたりはするし、今さらといえば今さらなんだけどさ…。なんだか納得がいかない私は強めにこすられて若干ヒリヒリする頬をさすりながら、ほんの少しの間むくれて顔を背けていた。

すると殺生丸さまはフ、と顔を上げて、まるで黄昏るように部屋の一点を見つめ始めてしまう。


「…志紀」
「はい?」


突然ぽつりと呼ばれて返事をするも、殺生丸さまは変わらず部屋を眺めていてなにかを言われる様子もない。
けれどきっと、言いたいことはこの現状についてのことだ。それを悟った私は一度視線を落として、そのまま呟くように殺生丸さまへ問いかけてみた。


「一体…なにが起こったんでしょう。急に帰れたなんて…それも、私だけじゃなくて、殺生丸さままで一緒に…」
「…心当たりはないのか」
「特には…あっ、それらしいことと言えば、私がこれを太陽にかざしたこととかですかね?」


唯一なにかあるとすればそれだと思って、ずっと握りしめていた蝶のネックレスを手に広げてみる。見たところなんの変哲もないネックレスだけど、私たちがこっちに来る前にこれを掲げたら、ほんの一瞬強く光っていたような気がする。だからきっと、これがなにかの鍵を握っていることに違いはないんだけど…


「あ。そういえば…これを薦めてくれた人が、これには不思議な力が〜とか、選ばれた人間じゃないと〜とかなんとか言ってた気がします。よく覚えていないんですけど…」
「不思議な力だと…?」
「はい。その人も詳しくは知らなかったみたいで…商人から買い取った際に聞いたみたいです」


うーん、あんなインチキくさい言葉をよく覚えていたな私。なんて謎の関心に浸りながら、まじまじとネックレスを見つめて説明する。あのお兄さんはすごく意味深そうに語ってくれていたけど、やっぱりどう見ても普通のネックレスだ。ただ、あの時やけに心を惹かれていたのも事実ではある。

もし本当にこれが力を秘めているとするなら、本当にこれのおかげで現代に帰って来られたのなら…


「また…向こうに戻れるかも知れません」


確証はないただの予測ですが。私がそう呟けば、殺生丸さまはこちらを見据えながらしかと問うてきた。


「試すのか。危険を伴う可能性もあるのだぞ」
「それでも、試してみる価値はあります。なにより殺生丸さまが一緒なので、もしなにかあっても大丈夫ですよっ」


ぐっ!と拳を握りしめて言えば、殺生丸さまはほんの少し驚いたような顔をされた。なんでそんな表情を見せるんだろう。さっぱり分からない私が不思議そうに首を傾げると、殺生丸さまは切れ長の瞳でこちらをじっと見つめてきた。


「お前は私を容易く信用しすぎだ」


ボソ、と呟かれるように言われた言葉は上手く聞き取れなくて、つい聞き返してしまう。けれど殺生丸さまがもう一度言い直してくれることはなく、何度聞き直しても言葉を返されることがなかった。それどころか顔を覗き込むようにして言ったせいか、突如殺生丸さまの手ががしっと私の視界を覆い尽くして来る。


「しつこい」
「あだだだだ…!す、すみませ…っ」


ギリギリギリとこめかみを押さえつけてくる指圧がとんでもなく痛くて、震える両手で慌ただしく抵抗しようとした。すると殺生丸さまは、はあ…と小さくため息をこぼされて、ようやく私の頭を解放してくれる。
またやられてしまった…次こそ頭蓋骨を割られ兼ねないし、ほんと気をつけよう。なんて思いながらこめかみをさすっていれば、殺生丸さまの手の平が目の前にずいっと差し出された。なんだろうこの手。なんのために…


(…お手?)


よく分からないけど、ぽん、と手を乗せてみる。
それでも殺生丸さまはなにも言うことなく、なんだか異様な沈黙が流れてしーんとしてしまった。
こ、これは…間違ったかもしれない。色んな意味でドキドキするのを感じながらちらりと殺生丸さまを覗き見れば、なんだかとてつもなく冷めた目でこちらを見据えていた。


「……早くしろ」


顔をフイ、と背けながら言われると私は申し訳なさでしゅるしゅる肩をすぼめて縮こまってしまった。呆れられたのかあとで怒られるのか…それは分からないけどあとで絶対に謝罪しよう。精一杯。全力で。私のすべてをかけて必死に。

だらだらと冷や汗を伝わせながら小さく返事をした私は、ネックレスを強く握りしめて窓の外の太陽にかざして見せた。すると次の瞬間、陽光に照らされた蝶のチャームがカッと強い光を放ったような錯覚を覚える。思わず目を瞑った私たちの瞼の奥は、その光によって白く染め尽くされてしまった。



* * *




特に変わらない感覚に疑いを掛けながら、そっと目を開いてみる。本当に時代を越えられたか分からないけれどどうか越えていて、と強く願いながら。
そうして掠れる視界に映り込んで来たのは、木々が生い茂り、私が足を浸けていたあの小川が伸びる戦国時代の風景であった。


「もっ…戻れた…!!やっぱり、これのおかげだったんですよっ!」
「そうらしいな」
「〜〜っ!やったー!これがあればいつでも行き来できそうだし、今後はもう帰りの心配なんてしなくてよさそうですよーっ!」


弾けるようにぎゅうーっと殺生丸さまを抱きしめると、頭上から「志紀」と諭すような声が振りかかった。
はっ!しまった、またやってしまった…!殺生丸さまはテディベアじゃないっての誰だよ間違えたやつ!私だよ!!は〜〜っいい加減お叱りの鉄槌が下るぞ…!!

私が頭を抱えて忙しなく顔を赤くしたり青くしたりしていると同時に、背後から「あーっ!!」という可愛らしくて甲高い声が響き渡ってきた。


「志紀お姉ちゃんと殺生丸さま、“あいびき”してるー!」
「ぶっ!?りっ、りんちゃん…!?」


とんでもない言葉が聞こえて来て思わず思いっきり吹き出してしまった。懲りずに殺生丸さまに抱きついてしまったところを運悪くりんちゃんに見られていたらしい。い、いつの間に起きてたんだ…。
見られてしまったことだけでも率直に恥ずかしいのに、“逢引”なんて言われて耳まで燃えるように熱くなっていく。私は途端に殺生丸さまから離れると、楽しげなりんちゃんへ慌てて駆け寄って行きその小さな体をぎゅうっと抱きしめた。


「りんちゃんほらっ、ほらね!?私こうやって色んな人に抱きつくから!今のはちょっと嬉しいことがあって、ついやっちゃっただけ!逢引とかじゃないからねっ!?」
「えー。でも男の人と女の人がぎゅーってするのは、愛し合ってるからなんでしょ?」


りんちゃんはそう言いながら純粋無垢な目で不思議そうに首を傾げてくる。本当に疑いを知らない目だ。くっ…誰だりんちゃんにそんなこと吹き込んだやつ…!もし邪見なら後でぶん殴る!


「あのね、愛し合ってなくてもぎゅーはするの。ね!だから逢引だとか、そういうことをすぐに言っちゃダメだよ!」
「え〜っ」
「ダ、メ、だ、よ!」
「はあーい」


必死に圧力をかけるように言えば、りんちゃんは渋々と言った様子で返事をしてくれる。果たして本当に分かってくれているかは分からないけど…とにかく今はなんとかやりすごせたはずだ。きっと。恐らく、たぶん。

なんだかどっと疲れた私が思いっきりため息をこぼす頃、りんちゃんは「邪見さまを起こしてくるね!」とだけ言い残してさっさと戻って行ってしまった。
もう一度ため息をこぼす私が額の汗を拭うと、背後で衣擦れの音が小さく鳴らされた。しまった、りんちゃんを丸め込むのに必死になっていて忘れていたけど、私の真後ろには殺生丸さまがいたんだ。ということはあの“逢引”っていうのも思いっきり聞かれてしまっている。
私が恐る恐る振り返ってみれば殺生丸さまは立ち上がっていて、ただ静かにこちらを見つめてきていた。


「えっと…せ、殺生丸さ…」
「どうする」
「えっ?」


なんとか弁解しようとするとそれを遮ってまで問いかけられる。どうするって、一体なんのことなんだろう。理解できずにぱちくりと目を瞬かせていれば、殺生丸さまは表情も変えず淡々と私を見つめ続けていた。


「帰れると分かっただろう。ならば、お前はこれからどうするつもりだ」


そう問いかけて来る殺生丸さまの目が、やけに真剣に見えたのは気のせいだろうか。
物事に興味を示さない殺生丸さまは他と同じように私のことも気にしていないと思っていたけれど、案外そうでもなくてちゃんと考えてくださっていたのかも知れない。だからこそ帰り方を知るという目的を果たしてしまって旅に同行する意味がなくなった私の今後を、こうしてわざわざ問いかけてくれたんだと思う。
私は思わず優しいなあなんて思いながら口元を緩ませると、すぐさま殺生丸さまへ笑顔を浮かべて見せた。


「そんなの決まってるじゃないですか。ほら、りんちゃんたちが待ってますよ!」


そう言いながら殺生丸さまの手を取れば、殺生丸さまはわずかに目を丸くさせてくる。けれど私はそれに構うこともなく、りんちゃんたちが待っている方へ強く引いて駆け出して行った。

確かに私が殺生丸さまたちに着いて行き始めた理由は帰る方法を探すためだ。けれどそれが分かったからと言って、もう簡単にお別れするつもりなんてない。それほどまでに、私はこの居場所に心地よさを感じているのだから。
自然と気分が高揚している私がスキップをするように歩いて行く中、殺生丸さまがクス、とほんの小さく笑みを漏らした気がした。


「…決まっている、か」
「ん?なにか言いました?」
「気にするな」


せっかく聞き返したのに呆気なく流されてしまった。なんて言ったんだろう…気になるな。なんて思っていれば「いつまで手を握っているつもりだ」という声を投げかけられてぎょっとしてしまう。慌てた私は咄嗟に手を離し、思いっきり頭を下げて謝った。
いい加減、このスキンシップ癖を治しましょう…。


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