簪の記憶


「殺生丸」


不意に懐かしい匂いを感じたと思えば、同じく懐かしい声が我が名を呼ぶ。振り返ったそこには女が一人。小さく微笑むそれが私を見つめると、足元の邪見が怪訝な顔をして威嚇するよう前へ出た。


「馴れ馴れしい奴。貴様何者だ!」
「良い。下がれ邪見。…お前、名前か」


心当たりのある名前を向ければ、それは記憶よりも少し大人びた顔を柔和に綻ばせる。姿こそ多少変わっているようだが、それから感じる雰囲気や匂いは覚えているままだ。それを思えば名前は静かに足を踏み出し、私との距離をゆっくりと詰めてきた。


「まだ覚えていてくれたのね。とっくに忘れられていると思ってた」
「お前のようなじゃじゃ馬、忘れる方が難しい」
「あら、ひどい言い草。これでも昔と違って落ち着いたのよ?」
「…どうだろうな」


そう返してやれば名前はどこか不満げに眉をひそめる。

――名前は、私たち一族と同じ犬妖怪の娘だ。私と歳が近いということもあり、名前の家とは幼い頃から家族ぐるみの付き合いをしていた。名前としても歳の近い知り合いは私くらいしかいないようで、度々無断で城を抜け出して私に会いにくることがあった。そんなじゃじゃ馬娘に、父上もよく手を焼いていたのを覚えている。

しかしそれも私たちが幼い、遠い日の記憶。もう会わなくなってずいぶん経つというのに、突然なにをしに現れたのか。それを問えば、名前は「久しぶりに会えたのに、冷たいのね」などとわずかに眉を下げて返してきた。


「もう少し再会を喜んでくれてもいいんじゃない? 昔はあんなににこやかで優しかったのに、ぴくりとも笑ってくれないし。あの頃の殺生丸はどこへ行ったのかしら」
「……用がないのなら行くぞ」
「もう、冗談よ。ちょっと懐かしくて、からかいたくなっちゃっただけ」


だから許して? そう言う名前だが、冷めた目を向けてやってもさも気に留めていないようにからからと笑う。見た目こそ少しは大人びたかと思いもしたが、どうやら中身は変わっておらぬらしい。呆れに口を閉ざせば、名前はようやく本題を話す気になったのか「実は教えてほしいことがあって…」と控えめな声を漏らした。


「闘牙さまのお墓の在り処を教えてほしいの。ほら、小さい頃お世話になったでしょう? なのにお墓参りに行かないのもどうかと思って…」
「…塚があるだろう。そこに参れば十分ではないか」


遠い記憶を呼び起こしながら提言してやる。
塚というのはとある場所に建てた、父上の墓石代わりのものだ。父上の骸はあの世とこの世の境にあるため、易々と参れるものではない。だが顔が広く、従える者も慕ってくる者も多かったあの方を偲ぼうとする者はやはり多く、その救済として母上が建てたのだ。だから墓参りなど、塚に行けば済むはず。そう思ったのだが、名前はどこか不満げな顔を見せて視線を落とした。


「あそこに闘牙さまはいないもの…私、会えない間に闘牙さまに旅立たれて、本当に悔しいの。せめて…直接お別れを言いたかった…」
「……」


名前は、父上のことを実の父のように慕っていた。だがある日、戦から離れろと言われた名前が遠く彼方の地へ連れていかれている間に、父上は数々の戦を重ねて命を落とされた。そして名前が父上の死を知ったのは、父上の骸があの世とこの世の境に消えたあと。死に目に会えず、骸にさえ会えないと知った名前は当時、ひどく塞ぎ込んでいると聞いた。そしてその思いは、立ち直った今もなお失くしてはいないのだろう。

だが、あの地へ行く方法など、最早どこにもない。


「諦めろ。父上の骸は、もう誰の手も届かん」
「……」


名前へ告げればその顔は上げられたが、同じ金色の瞳はやはり悲しみに暮れていた。しかしそれを伏せた名前は「…そっか」と呟き、やがて弱々しくも確かな笑顔を持ち上げてくる。


「仕方ない。こればっかりは駄々をこねたって、どうしようもないものね」


そう返してくる名前に、意外だと思う私がいた。先ほどの口ぶりから、父上の墓に固執しているように思えたのだ。だが目の前の名前はそれだけではないと、別の意も抱えてここに来たのだと、そう告げているような気がした。


「まだ、なにかあるのか」


率直に問えば、名前はわずかに驚いたよう目を丸くし、それでいて小さく笑った。「お見通しね」と。大して隠そうともしていないだろう。そう言い掛けたが、名前はそれを遮るように小さな布を差し出してきた。


「これ、覚えてる?」


そう問いながら名前が布を開けば、そこに鮮やかな桃色の飾りがついた簪が現れた。いまの名前には似合わぬ、幼い一品。それは随分使い込まれているようで、足が一本折れてしまっていた。


「この前とうとう折れちゃってね…直そうかと思ったんだけど、いい加減歳相応のものを着けなさいって怒られちゃった」
「当然だな。まだ持っていたことが不思議なほどだ」
「だって、初めて殺生丸がくれた贈り物だもの。最近までちゃんと使っていたんだから」


そう言って簪を柔く撫でる名前。そんな姿に小さく呆れの笑みが浮かんだ。

この簪は名前が九つを迎えた頃、父上にそそのかされて渡したものだ。贈り物も、簪選びもしたことがない私に、父上があれにしろこれにしろと口うるさく言ってきたのを覚えている。私にはよく分からないまま選んだものを名前に渡したが、私がものをくれるのは初めてだと名前は大喜びしていた。
その喜びようは今でも覚えているし、なにより名前は物持ちがいい。だから今でも持っていることに不思議はなかったが、このような幼い簪を最近まで使うとは思いもせず、おかしな奴だと思ってしまった。

しかし名前は相当大切にしているのか、折れた今でも大事そうにそれを見つめている。


「折れちゃった時はすごく悲しかったわ。でも…おかげで殺生丸のことを思い出したの。今どこにいるんだろう、なにしてるのかなって…そんなことを考えていたら、久しぶりに会いたいと思って、ここまで捜しに来ちゃった」


どこか楽しげに見える笑みでそう話す名前の姿に既視感を覚える。そうだ、幼い頃にもこのような笑みを何度も見た。まさかという思いがよぎっては、無意識に眉をひそめていた。


「…また勝手に城を抜け出したのではなかろうな」
「ふふ。そろそろ家臣も気付いた頃じゃない?」


そう言う名前はなにも悪びれる様子なく笑みを見せる。本当にこやつは、中身が一切変わっておらぬようだ。それを思い知らされてはため息を吐くことすらできず、私は元より向かっていた方角へわずかに足を踏み出した。


「騒がれる前に早く帰れ。簪なら新しいものを持って行ってやる」
「本当?」
「いつか…な」


保証はせん。そのつもりで発した言葉だったのだが、名前には伝わらなかったらしい。幼い頃と変わらぬ、それでいて確かに綺麗だと感じられる柔らかな笑みを浮かべ、


「絶対よ」


弾んだ声で言い、私の返事を待つまでもなくその姿を変えた。そしてその足は見えない地面を蹴るように瞬く間に空へ昇っていく。手入れの行き届いた白い毛並みが、陽の光に輝きを放つ。それが澄んだ空の向こうへ遠ざかって行くのをしばし見つめ、やがて見えなくなった頃に踵を返した。

簪の選び方など、今でも分からん。あれの好みも私は知らぬ。
面倒な約束をしてしまったと、我ながら馬鹿らしく思った。

再び足を止め、彼方の空を見つめる。そこに求める姿はないが、私はしばらくそうして空を眺めていた。

…いまの名前に似合う色は、何色だろうか。



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同じ犬妖怪で同い年くらい、ということで昔馴染みのヒロインにしてみました。私が書くとちょっと子供っぽい感じになってしまいますね…申しわけないです。でも幼い頃から振り回され気味の殺生丸さまを想像するとちょっと可愛かったので、この路線のままいってみました。

お父さまの塚に関しては勝手に捏造しました。でも塚とか墓石とかありそうですよね。だからきっとヒロインもそこにはすでに何度もお参りしていると思います。骸に会いたい気持ちは残しつつ。いつか本当に会える日がくるといいね。

…なんて考えていると、このヒロインと殺生丸さまで昔のお話とかもう少し色々書けそうな気がしてきますね。
結果的に殺生丸さまみたいな高貴なヒロインにならなくて申し訳ないのですが、少しでもお気に召していただければ幸いです。妖怪ヒロインは滅多に書かないので楽しかったです。この度はリクエスト募集企画への参加、ありがとうございました! これからも管理人共々、当サイトを末永くよろしくお願いいたします!

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