徒花


「……」


投げた視線が捉えるのは薄暗い部屋の壁と畳。重苦しい空気の中、聞こえるのは時折響く湿った音だけだった。部屋の隅に置かれた大きな壺からそれは聞こえるが、中身は窺えない。ただこちらが身動きをとればその壺から殺意のような気配が溢れ、動くことすらままならない状況だった。

逃げ出すこともできないこの場所は、奈落の城。彼の部屋だ。

名前たちは匂いを追って奈落まで辿り着いたものの、それが罠だと気付いたのは名前が攫われたあとのこと。瘴気で気絶させられた名前を連れ去った奈落は、どうしてか拘束することもなく自身の部屋に彼女を置いていた。

逃げ出そうにも監視されているような感覚に抑えられて丸一日。目が覚めてから一度も姿を見せなかった奈落が、ようやく名前の前へゆっくりと歩み寄ってきた。


「存外大人しいようだな。すぐに逃げ出すかと思っていたぞ」
「そうさせないようにしといて、よく言うよ…」


睨むように視線を上げれば奈落は「ふっ…」と小さな笑みを浮かべる。それを見た名前は相変わらず嫌味な奴だと感じてしまい、強く眉根を寄せた。奈落がなにを考えているのか分からない、だからこそ余計に苛立ちが募る。大人しく座っていることにも耐え兼ねた名前は眼光を鋭くさせ、目の前の男を射抜くように向き直った。同時に、壺がゴボ…と大きく鳴く。


「どういうつもり? 私を攫って、なにがしたいの」
「そう警戒するな。お前を使ってどうこうしようというつもりはない」
「は、どうだか…」
「くくく、信用されておらんな…」


名前が小さく嘲笑すれば奈落は動じることなく笑みを返してくる。分かり切ったその言葉に堪らず顔をしかめたが、相手のペースに飲まれてしまうような気がして名前はそれ以上返すことなく、彼を避けるように顔を背けた。

自分がなぜ攫われたのかは分からないままだ。しかしこのまま会話を続けていれば奈落に掌握されてしまいそうで、自分から聞く気にはなれなかった。会話をしなければ勝手に部屋を出ていくだろう。いざとなれば奈落のいない間にどんな手を使ってでも、例え殺されそうになっても、ここを逃げ出せばいい。そう考えて拳を握り締めた。

するとまるで名前の心を読んでいるかのように、部屋の隅の壺がゴボゴボと音を立てる。同時に奈落が足を踏み出し、畳の摺れる音が聞こえた。予想通り出ていくか、そう思ったがその音は遠ざかることなく、むしろこちらへ近付くように大きくなっていく。


「知りたいか? 自分が攫われた意味を…」


すぐ傍、頭上から声が降らされる。振り返った時、奈落はまるで目線を合わせるように腰を落としていた。鼓動が小さく響く。息を飲むこともできないまま警戒し、それでも確かに頷いてみせれば、奈落の口からは露ほども想像もしなかった言葉が吐き出された。


「わしはお前のことを好いている。だからこうしてお前を捕え、わしの手の届く場所に置いているのだ」


薄い笑みを湛える奈落の瞳が、真っ直ぐ名前を見つめる。声が出なかった。ただ言葉の意味が理解できず、眉をひそめるばかりだった。なにが狙いだ。なにを思ってこんなことを。瞬時によぎる思いはいくつもあれど、ようやく絞り出した声はそれらとは違う言葉であった。


「あんたは…桔梗が欲しいんじゃ、なかったの…」
「それは人間であった鬼蜘蛛の感情であろう? いくらあれを繋ぎとしたところで、わしはわしだ。そしてわしはお前を…名前を、モノにしたいと思っている」


頬に触れてくる無骨な手。それは今までの彼からは想像もできないほど優しく愛おしげに滑り、名前の髪を愛でるように梳いた。

奈落が自分を好き、そんなことは一度も考えたことがなかった。まさかあるはずがないと、自分たちは殺し合う運命だと思っていた。だというのに彼は、目の前にある彼の瞳は、揺らぐこともないほど真剣な色を満たしている。
言葉に詰まる。思考がぐちゃぐちゃに乱されて、なにを考えていたのか、なにを考えたらいいのかなにも分からなくなる。

自身でも分かるほど大きく瞳が揺れ動いた時、不意に奈落の大きな手が華奢な名前の顔を持ち上げた。


「!」


覆うように押しつけられた唇。目を見張るほど驚き、名前はすぐに奈落の胸を押して突き離そうとした。だが相手は自分よりも大きな体をした男。どれだけ押しても堪えず、それどころか頭を押さえられるほど強く深く、奈落の唇が自身のそれと重なっていく。ねじ込まれた舌が歯列をなぞり、舌を絡め取り、口内を好き勝手に犯される。

抵抗すればいい、抵抗したい、そう思うのに彼の舌が絡まるほど頭が痺れるような不思議な感覚に襲われ、胸を押し返していたはずの手は縋るように奈落の着物を握り締めていた。


「…もう堕ちたか? くく、案外呆気ないな…」
「ち、が…やめ…」
「そのようなか細い声ではなにを言っても分からんぞ」
「っ、」


ドサ、と音を立てて押し倒される。両腕を押さえ付けられ、真上には奈落が覆い被さるようにしてこちらを見つめている。本当は睨みつけたいのに、そうしているつもりなのに、力の入らない体ではそれもうまく行かず、ただ奈落に薄く卑劣な笑みを向けられるばかりだった。


「抵抗しなくて良いのか? これ以上は引き返せぬぞ。わしも、お前も…」


壺がゴボリと音を立てる。奈落の言葉に胸の奥が大きくざわついた気がした。
彼の言う通りだ。これ以上事が進んでしまっては誰にも合わせる顔がない。もう犬夜叉たちの元へは戻れなくなる。それにこの体は本来自分ではなく、巫女のもの。それを呆気なく奈落に堕としてしまうなど、巫女にも、彼女を知る人々にも、申し訳が立たなくなる。ダメだ。一時の快楽に溺れて自分を見失ってはダメだ。

懸命に自分を律し、瀬戸際でなんとか冷静さを取り戻すことができたと思ったその時、あれほど胡乱げな笑みを浮かべていた奈落が真剣な表情を見せてきた。それは思わず小さな鼓動が響くほどの顔。堪らず言葉を失ってしまいながらそれを見つめていると、奈落はもう一度包み込むように名前の頬へ手を添えてきた。


「お前は…それほど責任を負う必要があるのか?」
「え…」


優しく落とされた声はまるで名前の心を見透かし、憂うようなもの。ドキ、と小さく心臓が跳ねるような錯覚を覚えながらその緋色の瞳を見つめれば、彼もまた、真っ直ぐ瞳を見つめ返してくる。


「お前は自分の意志で巫女の体に入ったのではないのだろう。それがなぜ、それほどまでに奴を思う。奴の周囲の人間を助けようなどと考える。お前は…“名前”は、どうしたいのだ」
「な、に…」
「お前はもう、自由になれば良い」


その言葉と共に降らされたキス。それは先ほどのものとは比べものにならないほど優しく、労わるような柔らかいキスだった。軽く触れるだけで顔を離した奈落の瞳が、もう一度真っ直ぐ見つめてくる。

“自由になればいい”

たったそれだけが、その一言だけが、まるで心を縛り付けていた鎖を千切ってしまうような気がして。閉じ込められていた“自分”を解放してくれたような気がして。
気付けば、溢れ出した涙がツ、と頬を伝い落ちていた。


「名前。お前の思うようにするが良い」


そう言って奈落は名前の首筋に軽くキスを落とした。両腕を抑えていた手は、名前の体に触れて愛おしむように撫でていく。

始まる。それはすぐに感じられた。
だけどもう、抵抗したいなんて思わなかった。

ああ、なんて単純なんだろう。

自分の呆気なさに自嘲するような思いを抱えたまま、彼が触れる箇所全てに熱を帯びた。指も、舌も、何度も絡ませた。行為に及んだことがないであろう体で、彼を、受け入れた。一度も抵抗することなく、ただ彼に身を委ねるように、“自分の体”を明け渡した。

壺は、水を打ったように静まり返っていた。



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自分を見出し尊重しようとしてくれる奈落に溺れてしまう、そんなお話でした。本編で敵同士というのもあって想像以上に暗くなってしまった気がします、すみません…。

本来あの壺は終始音を立てていると思うんですが、このお話ではヒロインが逃げ出さないように見ている見張り番だったので彼女が逃げようとするほど音を立てるんだろうなと思って書きました。実際怖いですよね、あの壺。見えても中身が全然分からないのに生きてるんですもん。あんなの見たら夢に出ますよほんと。

…と話がずれてしまいましたが、お気に召していただけていれば幸いでございます。この度はリクエスト企画にご参加いただき、ありがとうございました! これからも管理人共々当サイトをよろしくお願いいたします!

奈落の好きだという言葉が本当なのか、それとも彼女を陥れるための嘘なのか、それはご想像にお任せいたしますね。

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