一夜の音色

「名前。これをそっちに並べてくれないか」
「うん」


真斗に呼び掛けられて寄って行けば、深く大きなお皿を渡される。「熱いから気を付けるんだぞ」と一言添えられたそれは優しい匂いを漂わせる肉じゃが。今日の当番である真斗が作ってくれたものだ。しっかり味が染み込んでいるのが分かるその色に一層の空腹を誘われながらテーブルに置き、もう一度キッチンの方へ戻って食器棚から取り皿を二つ取り出した。同時に、肉じゃがとは違う匂いが鼻を掠める。これは…真斗の得意料理だ。


「今日のお味噌汁、具はなににしたの?」
「なめこと豆腐だ。名前がなめこの味噌汁が飲みたいと言っていたからな」
「わぁ、ありがとう! お味噌汁に入ってるなめこ、なぜかすごく好きなんだよね」


おたまを手にする真斗の隣から小さめの鍋を覗き込む。そこには真斗の説明通り、なめこと豆腐と玉ねぎ、それからわかめがゆらりゆらりと漂う美味しそうなお味噌汁が出来上がっていた。
真斗のお味噌汁は美味しい。そのうえ、私では考えられないようなレパートリーが豊富で、密かに私の毎日の楽しみだったりする。それこそ、この前のとうもろこしのお味噌汁は驚かされた。お味噌汁なのに、少しながらバターを入れていたのだから。予想できない味に少し警戒してしまったけど、いざ飲んでみたら想像よりも全然合っていて美味しくて。その時は“真斗は本当にすごいなぁ”、と改めて感心させられたくらいだった。

…なんて思い返しながらテーブルの前に座れば、それぞれのご飯の隣にお椀を置いた真斗も静かに腰を下ろした。


「待たせたな。では、いただきます」
「いただきます」


そっと手を合わせる真斗に続いて私も手を合わせる。そしてお味噌汁を一口。少し熱かったけれど、なめこのとろみや豆腐の優しい味に小さくため息が漏れる。やっぱり真斗のお味噌汁は美味しい。私も作ることがあるけど、同じお味噌を使っているはずなのに全然違った味になっているような気さえする。
なんでこんなに違うんだろう、そう思いながらも深く考えることはせず、すぐに肉じゃがの方へ手を伸ばした。思った通り、味がよく染みていてすごく美味しい。私好みの少し甘めの味付け。全部私の希望通りにしてくれる真斗の優しさに、ついつい表情が緩んでしまいそうになった。


「今日もお前の好みの通りに作れたようだな」


着々と箸を進めていると、ふと真斗からそんな声を掛けられた。その表情は柔らかく、微笑みを浮かべるようにして私を見つめている。


「…もしかして、顔に出てた?」
「名前は顔に出やすいからな。お前の嬉しそうな顔が見られてよかった」


そう言って笑顔を見せてくる真斗に少しばかり頬が熱くなる。私はつい視線を落としてしまいながら、「は、恥ずかしいね」なんて呟いてまた肉じゃがに手を伸ばした。照れくささを誤魔化すように、ぱくぱくと口に放り込む。真斗は相変わらず優しく、それもまるでお母さんのように微笑みながら私を見つめて、お味噌汁を啜った。

その手が下ろされると、不意になにか思い立ったかのように「名前、」と呼びかけてくる。


「明日はどこかへ出掛けるか? 」


そう、問いかけられた。普段はどちらかと言えば私の方から率先して誘うことが多かったから、真斗からそんなことを尋ねられるのが少し珍しくて、ちょっとばかりきょとんとしてしまう。そのせいか、真斗はわずかに首を傾げると「それとも、家でゆっくりする方がよかったか?」と訊いてくる。


「あっ、ううん、お出掛けしたいっ」
「そうか。返事がないからそういう気分ではないのかと思った」
「いつも私が誘うから少しびっくりしちゃって…。そうだ、私椅子が欲しいんだ。明日はそれを買いに行ってもいい?」


前々から考えていたことを口にすれば、真斗は快く頷いてくれる。けれどその顔は少しだけ不思議そうにこちらへ向けられた。


「椅子は間に合っていると思っていたのだが…どこか足りない場所があったのか?」
「ううん。そうじゃなくて、真斗のピアノの隣に置きたいんだ。ソファよりも近くで聴きたいから」


私たちの家の、ピアノが置いてある部屋には壁沿いにソファを置いている。いつもはそこで真斗が弾くピアノを聴いているのだけど、この前ふと、もっと近くで聴いていたいなと思ったのだ。いわゆる、特等席。ソファも十分それを担っているけれど、もっと近くて特別な席が欲しかった。
それをなんとなく説明すれば、真斗は少し驚いたように目を丸くしていた。だけどそれも束の間。柔和に目尻を上げた真斗は「そうか…」と呟いて、私の提案をそっと否定した。


「新たな椅子など買わずとも平気だ。俺の隣に座ればいい」
「隣? でも…そこは邪魔にならない?」
「名前を邪魔だと思うはずがないだろう。むしろ、名前が隣にいてくれた方が良い音が奏でられそうだ」


あとで試してみるか? 柔和な微笑みのまま、そっと尋ねられる。私はそれに頷いて、温もりの残るお味噌汁を啜った。








食後、食器を片付け終わった私たちは部屋を移動してピアノの前に座っていた。それなりに使い込まれた、けれど手入れの行き届いたグランドピアノはその黒の中に私たちを映し込む。真斗が大切にしている証拠だ。それを感じていると、白と黒が並ぶ鍵盤へ真斗のしなやかな指が乗せられた。

そっと優しく、演奏が始まる。決して大きくはない椅子の半分を私にくれているというのに、真斗はそんなことを気にする様子もなく、いつもとなにひとつ変わらない演奏を披露してくれた。ううん、いつもとは違うかもしれない。確かに彼の言う通り、いつもより優しくて柔らかな音のように聞こえる。
そう感じた私が鍵盤を叩く手から真斗の横顔へ視線を移した時、真斗はふ、と小さく微笑んだ表情を私へ向けた。

あぁ、やっぱり好きだ。真斗の演奏も、真斗自身も。まるで見惚れるように彼の姿を見つめていれば、その手は徐々に動きを少なくして、やがて小さな余韻を残して鍵盤から降ろされた。


「分かってもらえたか?」
「うん…すごく、素敵だった…」


演奏中に落ちた髪を掬って耳に掛けながら言う真斗に、思ったままの素直な言葉を呟いていた。もっとしっかりとたくさん思いを伝えたいのに、こういう時に限って言葉が上手く出てこない。鼓動も、静かで優しい音色に反して激しく高揚していた。

私が惚けるように鍵盤を見つめていたからだろうか。真斗はもう一度ふ、と小さく笑むと、そっと鍵盤の上に指を乗せ直した。


「名前も共に弾くといい。言葉にできずとも、共に奏で合えば思いは伝わる」
「え、でも私…ピアノとか全然触ったことないよ…?」
「大丈夫だ。俺が教えてやる」


優しいのに男らしい、頼もしい微笑みで手を取られる。少しだけ冷たい鍵盤に、そっと私の手が添えられた。戸惑う私に、真斗はひとつひとつ丁寧に教えてくれる。私の動きに沿って、ぎこちない音がポン、ポーン、と不規則に響く。それでも真斗は嫌な顔ひとつせず、私の不慣れな音に合わせるように奏でてくれた。

私の不慣れな音が混ざって、決して気持ちのいい音楽とは言えない。だというのにどうしてか、私の心の中は安らぎでいっぱいに満たされていた。隣を見れば、真斗がいる。私たちは互いに微笑み合いながら、長い夜をピアノの音で染め上げていった。


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