16


二〇一六年、現代。

虚ろな表情を浮かべ、重い足取りでゆっくりと歩を進める彩音。未だ飲み込めない状況と表しようのない孤独感に打ちひしがれるまま、気が付けば三日の時が過ぎていた。しかしそれすらも分からないほど憔悴した様子の彼女は、ただ当てもなく見慣れた街を歩き続けていく。

やがてその足は、俯ける視界に現れた石段によって止められた。そして誘われるように顔を上げれば、真上にそびえる真っ赤な鳥居とその向こうに伸びる石階段が見える。
途端、ザア…と木々を揺らす風が吹き抜けた。

――日暮神社。この時代に生きていた時には一度も訪れたことがなかったのに、いつしか馴染み深くなったこの場所へ彩音は知らず知らずのうちに戻ってきていたようだ。


「……」


声を発することもなく、ただ静かに石階段の頂上を見つめる。そこには誰の姿もなかったが、彩音はまるで誘われるように階段を登り始めていた。

徐々に見えてくる神社の境内。馴染みある二十年前の神社と変わらない枯れ井戸の祠へ足を向けては、ひどく年季の入った戸を開き中へと足を踏み入れた。途端、床板がギシ…と小さく軋む。それをひとつ、またひとつと鳴らしながら足を進め、やがて彩音は薄く埃をかぶった枯れ井戸を前に立ち止まった。


「……なんで…」


胸のうちに抱え続けていた声が思わず漏れ出でる。

いままで戦国時代やかごめの時代で井戸を通るたび、心のどこかで“自分の時代に繋がればいいのに”と思っていた。だが、いざそれが叶ってみればどうだ。友人には知らぬ顔をされ、自宅にはずっと昔から住んでいた様子の他人が存在しており、どこもかしこも誰も彼も、彩音の存在など初めからなかったかのように振る舞うではないか。

まるで存在を拒絶されているとさえ感じてしまうほど、“結城彩音”という人物の痕跡がこの世界からなにひとつ残さず消え去っている。


(もうここに…私の居場所なんてない…なくなったんだ…)


原因など分からない。見当もつかない。それでも確かにそう思い知らされる出来事の数々に崩れ落ちるようしゃがみ込み、込み上げてくる涙をこぼした。

――その時であった。


「彩音ちゃん?」
「!」


背後から向けられる女性の声にビクリと肩を揺らす。目を丸くする。不意に声を掛けられたことに驚いたのは確かだ。だが、彩音にとってそれ以上に衝撃的であったのは、“自身の名前を呼ばれた”こと。
聞き間違いだろうか、そう思ってしまうほど信じられないという衝撃が強く、戸惑い、混乱するように体を硬直させた。

それもそのはず、彩音はいましがた自分の存在がこの世から消え去ったことに嘆いたばかりだ。この世にはもう自分を知る者などいないと、諦めにも似た悲しみを溢れさせたばかりだ。そんな状況で、自身の存在を認めてくれる声が聞こえるなど――
そんな不可解な思いを抱えながら、それでもと、藁にも縋るような思いで顔を振り返らせる。するとそこに――古びた祠の戸口に、こちらを見下ろすかごめの母の姿があった。


「やっぱり。あなた、彩音ちゃんでしょう? 元の時代に帰れたのね」


彩音の顔を確かめるなりかごめの母はそう言いながら朗らかに優しい笑みを浮かべてくれる。やはり聞き間違いなどではない、かごめの母は確かに彩音を知っているようだ。


「なんで……わ…私のこと、分かるんですか…?」
「ええ、もちろん分かるわよ。二十年も前のことだから、すぐには思い出せなかったけれど」


あの時はごめんなさいね。そう続けながらかごめの母はゆっくりと階段を降りて歩み寄ってくる。
どうやら彼女曰く、この時代に戻ってきてすぐに出会った時はまさか二十年前に出会った少女がその時の姿のまま現れたとは思わず、どこか見覚えのある少女、くらいにしか捉えていなかったらしい。そして特に会話できる間もなく別れたあと、かごめを知っている様子から記憶の中でなにかが結びつくように彩音を思い出したのだという。

――しかし、なぜかごめの母だけは彩音を覚えていたのだろう。そんな疑問が胸のうちに芽生えると同時、彩音と目線を合わせるように腰を落としたかごめの母が朗らかな表情で問いかけてきた。


「お家には帰った? ずいぶん久しぶりだったでしょう」
「家…」


優しく向けられる言葉に胸の奥が冷えるような感覚を覚える。“自宅であるはずの場所”がフラッシュバックする。自分の知らない人間。知らない表札。知らない家具…あの時目にした全てのものが脳裏にはっきりと焼き付いていて、得も言われない恐怖が足の先から全身を蝕むように昇ってくるような気がした。
それにより意図せず顔が強張っていたのだろう、顔を覗き込んできたかごめの母がわずかに驚いた様子を見せながら寄り添うように問いかけてくる。


「どうかしたの? お家でなにかあった?」
「…いえ、その…………実は、この時代に帰って来てから…変なことばかり、起きてるんです…」


この人になら話せるかもしれない、そう胸のどこかで感じた彩音が意を決したように小さく吐露すれば、それを聞いたかごめの母は「変なこと?」と不思議そうな様子を見せながら問い返してくる。
すると微かに唇を結んだ彩音は静かに顔を俯け、一呼吸置くように黙り込んだのち、どこか言いづらそうにしながらも小さな声で呟くようにこの時代でのことを述懐した。


「あの日…ここを離れてすぐ…学校の友達に会ったんです…でも、三人とも私のことを覚えてない…ううん、知らなかったんです。なにも。誰ですかって…人違いですって言われるくらいに…それだけでもわけ分かんないのに、家に帰ったら…私の家が…っ知らない人の、家に…なってて…!」


思い出したくもない。だが説明するに伴って甦ってくる記憶は嫌というほど鮮明で、言葉を紡いでいくうちに込み上げてくる悲しみが涙を滲ませた。もはやとても聞けたものではない声になりつつあったが、かごめの母は構うことなく相槌を打ちながら丁寧に聞いてくれる。それに促されるよう、この三日間絶望に打ちひしがれ当てもなく彷徨っていたことを話せば、彩音はとうとう耐え切れなくなったように涙を溢れさせた。


「どこにいっても私の存在が消えてて…誰にも受け入れてもらえない…! もう私の居場所なんて…どこにもないっ…なくなったんです!」


心の奥底から溢れ出した声を上げては両手で顔を覆い隠すようにしてうずくまってしまう。
限界だったのだ。縋れる人がいないために、ずっとこの理不尽な仕打ちを胸の奥底に抑えて耐え続けるしかなかったことが。そのためようやく己を受け入れてくれる人を見つけられたことに、堪え続けていた思いは堰を切ったよう止めどなく溢れ出してくる。
対するかごめの母はそれに嫌な顔もせず、彩音の肩を抱き寄せては「たくさん頑張ったのね」と囁きかけながら、優しく彩音の背中を撫で下ろしていた。まるで、子供をあやすかのように。

それがいまの彩音には十分すぎるほどの救いに感じられて、いつしか声を上げしゃくりあげるほど思うままに泣きはらしてしまう。それに寄り添い続けるかごめの母は、彼女が落ち着くまで何度も何度もその背中を撫で下ろした。

――そうして次第に彩音の泣き声が小さくなった頃、かごめの母は彩音の頭をぽんぽんと優しく撫でる。次いでそっと彼女の顔を覗き込むように体を離せば、ポケットから取り出したハンカチを彩音の頬に触れさせながら柔らかく語り掛けた。


「彩音ちゃん。あなたさっき…“もう私の居場所なんてどこにもない”って言ったわよね」
「…はい…」


かごめの母の問いかけに彩音はしゃくりあげ鼻をすすりながら微かな声で返す。それに母はそっと微笑みかけると、変わらず諭すような声で続けた。


「確かに存在が消えていたなんて、考えられないくらい悲しいことだと思う。でも…よく考えてみて? あなたの居場所って、ここだけかしら」


言い聞かせるように囁かれる言葉。しかし彩音はその意味があまり理解できず、わずかに顔を上げてはほんの小さく眉をひそめてしまった。
するとかごめの母は優しく微笑みながら――


「答えが分かっているから、ここに来たんじゃない?」


と、確信を持ったよう口にする。そうして彩音の視線を誘うように顔を逸らすかごめの母が見やったもの――それはすぐ傍に鎮座する、古い枯れ井戸であった。

思わず目を見張る。そうだ、戦国時代とは決別したはずなのに、気が付けばここに赴いていた。無意識に、ここに縋っていた。かごめの母の言葉にそれを思い知らされるような感覚を抱いては、自身の気持ちを確かめるように胸に手を触れる。
そしてそれを、ゆっくりと井戸へ触れさせた。


「私の…居場所…」


冷たい木目を撫でながら、小さな声を漏らす。自分の居場所など、生まれ育ったこの時代以外にないと思っていた。だからこそ帰りたいと、何度も願い続けていた。

――だが、思い返してみればどうだ。戦国時代で犬夜叉たちとともに過ごすことが当たり前になっていて、いつしか帰る方法を探すことなど二の次になっていた。時折思い出す程度で、帰れないことに対する焦りもなくなっていた。

それほどに、心から馴染むほどに、あちらの居心地がよかったのだ。


(気付かなかった…戦国時代が、私の居場所になってたなんて…)


心の底から実感するようなその思いにようやく気が付けば、胸の中のわだかまりが解けていくような感覚が芽生え、新たな涙が一筋こぼれ落ちる。

どうしてこんなに単純なことが分からなかったのだろう。あそこには助け合える仲間たちがいる。支えてくれる人がいる。約束を交わした人がいる。放っておけない人がいる――そう思えるのなら、思い合えるのなら、拠りどころとして十分ではないか。
ぐちゃぐちゃだった感情は答えを見つけたことで収束し、やがてはひとつの思いへと変わり果てた。

“帰りたい”、と。

――だがそれは即断できることではない。なぜなら彩音は犬夜叉に“戦国時代を離れろ”と言われてここへ訪れたのだ。厳しく、拒絶ともとれる言葉で戦国時代を追われたのに、それでも帰ることは、果たして正しいと言えるのだろうか。


「……」


思い知らせるように脳裏へ甦る当時の光景が、芽生え始めていた自信を弱くさせる。まるで拓き始めていた道が閉ざされるような錯覚さえ抱くその感覚に、堪らず井戸へ触れさせていた手を離しそうになってしまった。

――しかし、その手が離れる寸前、脳裏に甦る光景に心臓がドクリと音を立てた気がした。
その原因は彼の姿だ。ひどく傷にまみれ、腹部には深い赤を大きく広げていた彼の姿。それを思い出しては嫌な鼓動が徐々に速度を増すように、警鐘を鳴らすようにドクドクと音を響かせる。

そうだ。自分のことに精一杯で忘れてしまっていたが、犬夜叉は殺生丸との戦闘で腹を貫かれるほどの深手を負っていた。しかもそれは右――毒爪を持つ殺生丸自身の腕によって穿たれている。ならば毒に侵され、未だ傷が治っていない可能性だって十分にあるということだ。

もしそんな状況で何者かに襲われでもしたら――それこそ、四魂のかけらを持つ強敵が現れたらどうだ。かごめも自分も戦国時代を離れているいま、彼らの元に四魂のかけらの在り処を見抜ける者など一人もいない。
深手を負った犬夜叉がそのような状況に陥ってはうまく立ち回れるはずもなく、最悪、誰かが命を落としてしまうかもしれない。それこそ、無茶をしがちな犬夜叉が…という可能性も否定できなかった。

そのような最悪な状況は、考えればきりがないほど脳裏をよぎる。そのたびに不安が増す。いつしか息苦しさを覚えるほどひどい胸騒ぎに襲われては、堪らずそれを抑えるようにギュウ…と強く胸を押さえた。


(やっぱりこのままなんて嫌…怖い。帰りたい。犬夜叉に会いたい。会って、傷を治してあげたい…ちゃんと向き合って、話がしたい…!)


もしそれでも受け入れられないなら、その時は潔く別れを選ぶから。だからいまは、いまだけは、帰ることを許してほしい――

懇願するように、念じるように、そして意を決するように胸のうちに思いのたけを吐露する。これはエゴかもしれない。それでももう諦めることなどできず、彩音は足元に寝かせていた燐蒼牙に手を触れ、静かに顔を上げた。


「心は決まった?」


彩音の変化に合わせるよう、変わらず優しげな声が問いかけてくる。その声に振り返り確かに頷けば、かごめの母は柔らかく微笑みながら「頑張ってね」と口にした。

ああ、この人がいてくれて、覚えてくれていて本当によかった。心の底から湧き上がるその思いを胸に抱えながら立ち上がり、「ありがとうございました」と表情を緩ませる。それに一層笑みを深めてくれるその人へ背を向け、密度の高い闇を湛える井戸へと向き直った。


(帰ろう。私の場所に)


その思いを胸に井戸の縁へ足をかける。そして自身が生まれ育ったはずの時代と決別するように、その身を井戸の暗闇へと投げ出した。




――瞬く間に自身を包み込んだ不思議な光は得も言われぬ浮遊感とともにゆっくりと消え失せていく。それに伴うよう重力が体に戻ってくる中、湿った土へ座り込むようにして手を突けば、その下になにか硬いものが触れていることに気が付いた。


「あ…四魂のかけら…?」


緩く握るように拾い上げたそれは犬夜叉がかごめから奪い取ったはずの四魂のかけらであった。なぜ井戸にこれが…そんな疑問を抱く間もなく、突如すぐ傍で「う…」という小さな呻き声が漏らされる。それにはっとするよう振り返れば、気絶から目を覚ましたらしい七宝の姿がそこにあった。


「七宝っ」
「え…彩音…!」


彩音が驚いた様子でその名を呼べば彼もまたとても驚いた様子で、しかしそれ以上に嬉しそうな様子で飛びついてくる。よほど会いたかったのだろう、涙を浮かべる彼は確かめるように彩音を見つめたかと思えば、もう離れないとばかりに強く抱きしめてきた。
その時、突如頭上から狼の荒々しい鳴き声が降らされる。咄嗟にそこを見上げれば、井戸に突き込まれた大きな木の横の隙間から複数の狼がいまにも喰い殺さんとする形相でこちらに牙を剥いていた。

――彩音がそれに気付き冷や汗を滲ませると同時、狼野干から次々と放たれる狼たちを散らし続ける犬夜叉がわずかに鼻を掠める微かな匂いに強く反応を見せた。


「! (彩音の匂い!?)」

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