15


柔らかい浮遊感に包まれながらも徐々に重力に引かれ、静かに湿った土へと足を着ける。感じていた浮遊感を完全に失ってしまえば、彩音は俯けていた顔をそっと持ち上げて天を見た。
そこに見えるのは澄んだ空ではなく、薄暗い古びた木製の天井。かごめの家でもある日暮神社の隠し井戸の祠――その天井に違いなかった。

心の底では望んでいなかったのに、結局、こちらへ来てしまった。
何度も見たその景色にそんなことを考えてしまいながら、ため息をつくこともできないまま目の前の縄梯子へ手を伸ばす。ひとまずは頭を冷やそう。それから今後のことを考えればいい。そう考えたのだ。
そうして誰も触れていないかのように埃をかぶった縄梯子を上り、古ぼけた祠の戸を静かに開く。


「……」


陽の光に誘われるよう祠をあとにしながら、参道でゆっくりと足を止めた。どうしてか日暮神社の景色にわずかな違和感を抱く。なにかが少し、違っている気がした。
確信はなく、原因もなにひとつ分からない。ならばなぜこのような違和を感じるのだろうか、そう呆然としていると、不意にこちらへ近付いてくる微かな足音が聞こえた。


「あら、そんなところで立ち尽くして…大丈夫?」


かごめかと思い振り返れば、そんな声を掛けながら歩み寄ってくるのは彼女ではなく、その母であった。買い出しにでも行くのだろう、バッグを提げた彼女は穏やかな表情でこちらを見ていて、彩音は見慣れたその姿にどこか安堵を抱きかけた。

――だが、なぜだろう。その彼女の姿にさえ、新たな違和感がまとわりつくのは。

堪らず小さく眉をひそめるようにして彼女を見やる。雰囲気や服装、それらに特に変わったところはないだろう。ならばこの違和感は一体なんなのか。それを訝しみながら、不思議そうな表情を浮かべるかごめの母の顔を見た時、あ…と小さな声が漏れそうになった。

確信はない。しかしどういうわけか、彼女のその姿が以前目にした時よりも、どことなく老いているように見える気がしたのだ。


(……気のせい…だよね)


あまりに不可思議な感覚で、ついそんなことを思ってしまう。それもそのはずだ、しばらくこちらへ帰っていないとはいえ、人間がそんな短期間で目に見えるほど老いるわけがないのだから。
それを思えば、やはり気のせいだろうという気がしてくる。そもそも、彼女とは顔を合わせる回数も多くなく、姿を絵に描けるほど鮮明に覚えているわけではない。記憶が曖昧で、以前と違って見えるような錯覚を抱いているだけだ。きっと、そうに違いない。

どこかそう言い聞かせるように、思い込むように胸中でまとめ上げる。そしてすぐさま笑顔を取り繕うと、彩音は両手を小さく左右に振りながら努めて明るい声で言いやった。


「えっと、だ、大丈夫ですっ。なのでその…私が戻って来たこと、今はまだかごめには言わないようにお願いします」
「え? どうしてかごめを…」
「すみません、失礼しますっ」


かごめの母が少しばかり驚いた様子でなにかを口にしようとするも、彩音は遮るようにそう言いながら会釈をして鳥居の向こうに伸びる石階段へ駆けだした。
彼女がなんと言おうとしていたのかは気になるが、あの場で話を続けていてかごめに見つかってしまってはきっと心配をかけるに違いない。自分自身、未だ戦国時代でのことを話せる心境ではないうえ、彼女も犬夜叉に突き落とされたことなど思うことが多々あるはずだ。そんな状態で、こちらの心配までさせてはいられない。
そんな思いを抱えながら石階段を駆け下り、通い慣れた道を歩いていく。

ひとまずは落ち着ける場所に行こう。そう考えた彩音はかごめとよく放課後に寄っていたワックヘと足を向けた。あそこならいまかごめに会うこともないだろうし、一人で気持ちの整理に努められるだろうと判断しながら。

そうして俯くままに歩みを進め、ようやくワックがある大きな通りへと辿り着いた――その瞬間、視界に飛び込んできた景色に彩音は強く目を見開き足を止めてしまう。


(うそ…ここって…)


呆けるように開いた口へ手を覆わせる。到底信じられない、信じられるはずがなかった。
なぜならそこに広がる景色――目の前を横切る車、乱立するビルや店、行き交う人々――その全てが、彩音がよく知る“現代”の光景となっていたのだから。

それは帰りたくても帰ることのできなかった場所。帰る方法すら分からなかった場所。そこにいま、自分が立っている。それが衝撃的で理解できなくて、彩音はただ呆然と立ち尽くすままに目の前の光景を見つめていた。

だが、不意にはっと我に返るとすぐさまポケットからスマホを取り出す。確かめるならばこれが手っ取り早いはずだと考えながら、黒く自分を映している画面を見つめる。そして小さく息を飲んでは、決心したようにそっとスマホを起動させた。
すると表示された画面の右上、いままで一度も表示を変えたことのなかった“圏外”の文字が消えており、代わりに、電波強度を示すアイコンが確かに表示されていた。


「………私…帰って、来たの…?」


揺るぎない確かな事実を目の当たりにし、それでもまだ理解できない戸惑いの中で、ただ呆然と眼前の光景を見上げるままに小さな声を漏らす。

目の前の景色はつい最近まで目にしていたそれとはかなり違っているが、その差は二十年もあるのだ。建ち並ぶ店や建物も変わり果て、同じ場所だということを分からなくするには十分すぎる差であろう。
それは最初に見た景色も同様。日暮神社やかごめの母に抱いた違和感は気のせいではなかったということだ。

頭を整理するようにそう考えていけば、徐々に自身が“現代”に帰ることができたのだと実感が湧いてくる。どれだけ帰りたいと願っても、どれだけ策を講じても果たせなかった悲願。それが意図せず容易く果たせた事実に、やがて込み上げてきた涙を滲ませた。


「帰って、きた…私…帰ってきたんだっ…! 犬夜叉っ、私やっと…」


思わず弾かれるように振り返った途端、はっと息を飲んでその表情を凍らせる。目の前に求めた人物の姿はなく、あるのはしんと静まり返った無人の道路だけ。そこへ吹き込んだ風が、彩音の心を煽るようにザア…と木々を揺らした。

堪らず、消え入りそうなほど小さな声が喉の奥から漏れ出でる。それさえ封じ込めるように口をつぐんでは、虚ろな表情のまま音もなく視線を落とした。


(…そうだ…私、犬夜叉に…)


井戸を通る前のことが鮮明に甦り、胸が締め付けられるような感覚を抱く。
ここに犬夜叉はいない。彼と会ってはいけない。彼がいるあちらに帰ってはいけないのだ。…それでもいい。帰りたかった自分の時代に無事に帰ってこられたのだから。もうあちらに関わることはない。これでいいんだ。

――そう思い込もうとするも、どういうわけか胸の痛みが止んでくれない。心の底から望んでいたはずなのに、帰って来られたという今の状況を喜ぶことができなかった。

それを自覚した途端、嬉しさから滲んだ涙が悲しみに染まりかけてしまい無造作にそれを拭いとる。考えてはだめだ。いつまでもこうして未練がましく考えていても仕方ない。意味がない。もう戦国時代へ行くことはないのだから、これまでの元の生活を取り戻すしかないのだ――次々と否定するような言葉を考え、自分自身に言い聞かせる。そして気を落ち着けるように大きく深呼吸をしては、胸のうちで決意を固めて顔を上げた。


(帰ろう。私の家に)


元の生活を再スタートさせるんだ。その思いを胸に唇を硬く結んだその時、不意に手の中のスマホが小さく震えたような気がした。それに視線が釣られるが、持ち上げたその画面にはなにも表示されていない様子。起動してみてもメッセージなどはやはり見当たらない。
稀にある錯覚だろうか。そんな思いを抱いた彩音が電源ボタンに指を添えた時、ふと胸の奥深くから、じわりとした強い違和感が滲み出した。


(あれ…? なんで…誰からも連絡がないの…?)


強い違和感の正体に気が付いた途端、それはとてつもない不安に変わる。堪らず通知欄やアプリ、着信履歴など全てを確認するがどこにも新たな連絡はない。
友達がいないわけではない。むしろ頻繁に連絡を取り合っていた友人が複数いた。毎日のようにグループで話をしていた。だというのにこれだけ長い期間姿を消している人間へ、誰一人として一切の連絡を寄越さないというのはどういうことなのだろうか。第一、無断欠席を続けているため学校だって黙っていないはずだ。

――しかし彩音の手に握られるスマホにはやはりなにひとつ連絡の形跡はなく、異常なまでの静寂を保っている。


「……っ」


突如背筋を這うような悪寒を覚え、同時になにかが渦巻くような気持ち悪さすら感じてしまう。すると途端にスマホを握っていることさえ嫌に感じて、咄嗟にそれを隠すようポケットへ押し込んだ。

駄目だ。嫌な方向にばかり思考が進んでしまう。これではいつまで経っても前に進むことができないではないか。纏わりつく負の感覚にそんな思いを抱き、振り払うように頭を振るう。
そして、早く前に進まなければという焦りに似た思いで自分を律した彩音は、今度こそ足を踏み出さんと強く前を向いた。


「…あ…?」


持ち上げた視界に映った姿に思わず声が漏れる。そこに見えたのは制服姿の三人の少女が歩いている後ろ姿であった。
ひどく見覚えのあるその姿。思わず目を疑うようにしながらもその後ろ姿に注視すれば、より一層既視感が、懐かしさが強まっていく。

――そう、その三人の少女は彩音と仲のいい友人たちであったのだ。

一緒に過ごしていたあの頃となにも変わらないその姿に、いましがた感じていた不安が嘘のように掻き消されるのを感じる。とてつもない安堵が胸のうちを塗り替えていくような気さえする。そんな感覚を抱いては、嬉しさのあまり弾かれるよう三人の元へ駆け出していた。
その足音を聞き取ったか、三人のうち真ん中を歩く少女が彩音に気が付いた様子で振り返ってくる。

ああ、やっぱり間違っていなかった。向けられたその顔はずっと一緒に過ごしていた友人のもの。ずっと、ずっと求めていた人のもの。


「よかったっ…会いたかった…!!」


思わず涙を滲ませてしまいそうなほど歓喜に溢れる思いで駆け寄る。その声にようやく両隣の二人も振り返り足を止めては、全員が彩音の姿に「え…」と小さな声を漏らした。その表情は驚き、呆然としたようなもの。それも無理はないだろう、突然姿を消した友人がようやく戻ってきたのだから。

ただ戸惑うように立ち尽くす三人の前で、彩音は泣きそうになる気持ちを抑えながら努めて笑みを浮かべてみせる。

――だがそれとは対照的に、目の前の友人たちは怪しいものを見るように訝しげな表情を浮かべ始めた。


「あの…誰、ですか…?」



* * *




――同時刻、戦国時代では。
二人が姿を消した骨喰いの井戸の前に、近場から抜き取った一本の木を高く掲げる犬夜叉の姿があった。一体なにをしようというのか、そんな思いを胸にする七宝たちがそれを見つめていれば、彼は突然掲げていた木を葉の生い茂る頭から勢いよく井戸の中へと叩き込み、その枠組みを大きく破壊してしまった。その光景に七宝が慌てた様子で犬夜叉の足に飛び掛かる。


「なにをするんじゃ犬夜叉!」
「うるせえっ」
「井戸を潰したら…彩音たちが帰って来れないではないか!! 犬夜叉は、二人に会えなくなってもいいのか!?」


思わず涙を滲ませながら正気を疑うかのように声を荒げる七宝。しかし犬夜叉はそれに振り返ることもなく、彼の言葉を一蹴するように「けっ」と粗暴に吐き捨てた。


「あいつらがいると、おれは思ったように闘えねえんだよっ」


七宝へ言い聞かせるようそう口にしながら、ふと、脳裏に浮かぶ光景に口をつぐむ。そこに見えたのは彩音の姿だ。自分が足手まといになっていると悲しげに言った、彼女の姿。
本当はそんな思いをさせないまま安全な場所へ送りたかったのに、気が付けば余計なことまで口にして、結果的に一層悲痛な思いをさせてしまった。彼女を、傷つけてしまった。そんな後悔に似た思いがこみ上げてくるのを感じてはギリ…と歯を鳴らし、思考を掻き消すかのように強く踵を返した。


「行くぞ弥勒」
「どこへ…」
「決まってんだろ。奈落を捜してぶっ殺す」


こめかみに汗を滲ませるほど気を荒立てた様子でそう言い切る犬夜叉の姿を弥勒は言葉もなく静かに見据えやる。そしてその視線を背後へ向けて「七宝…」と呼び掛けるが、それにすぐさま「知らん」と返した彼は井戸の前で座り込むまま、振り返ることもなく涙を拭い言った。


「犬夜叉なんか…嫌いじゃ」
「けっ、勝手にしろっ」


切なげな七宝の声に犬夜叉は苛立ちを露わにしながら吐き捨てる。その間に立たされた弥勒はしばらく七宝の様子を窺うようにその背中を見つめていたが、再び犬夜叉へ向き直るなりどこか咎めるような声色であの時のことを言いやった。


「いささか乱暴なやり方ですな。あのような言い方をせずとも、彩音さまにその気がないことくらいお前も分かっているでしょうに」


そう告げられる言葉に犬夜叉が微かな反応を見せる。彼が言っているのは“彩音も殺生丸と一緒にいたいのだろう”という犬夜叉の言葉のついてだ。
だがそれは自身でも余計だと思っていた言葉。それを蒸し返すように咎められては、半ば自分に言い聞かせるように語気を強めて言い返した。


「ああでも言わねえと…あいつは聞かねえんだよっ。おめえだって分かってんだろ!」


もうこれ以上二人のことに触れるな。そう言わんばかりの声に弥勒は口を閉ざす。
当然、弥勒は彼のやり方や彩音を強引に帰してしまったことに思うことはある。だが、いまこの場にいる者の中で一番心苦しい思いをしているのは犬夜叉なのだろうということを感じ取っては話を続けられず、切り替えるように以前から気に掛かっていた違和感に思考を移しながら辺りへ視線を向けた。

辺りには特に目立つものもない、木々が生い茂るだけの質素な風景。それを見つめる弥勒は「…にしても妙ですな」と眉をひそめて呟いた。


「犬夜叉お前、五十年前にこの村で、奈落の罠にかけられたということですが…」
「ああ」
「つまりお前は、奈落に会ったことがあるのです」


違和感の正体を暴くように口にした言葉。それには犬夜叉も思わず足を止め、怪訝そうに眉をひそめた顔を振り返らせていた。同時に、その脳裏に甦ったのは過去の記憶。四魂の玉を持ってくると約束した桔梗がこちらの不意を突き襲ってきたあの日の光景だ。


「会ったと言ったって…桔梗に化けた姿でだ。正体は分からねえ」
「それが妙だと言ってるんです。お前は奈落を知らない。なぜ恨まれているのかも…もっとも、亡くなられた桔梗さまは巫女だったという。奈落はお前よりむしろ…桔梗さまとなにか…関わっていたのかも知れませんな」
「(桔梗と奈落が…?)」

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