09


「わーっ気持ちいーっ」
「川下り最高ーっ」


清々しく晴れ渡る夏空の下、体を撫でゆく涼やかな風にかごめと彩音から弾んだ声が上がる。
そう、彩音の言葉通り、道中で舟を手に入れた一行はいま山間の川を下っているところであった。そこは微かな水しぶきや冷たい風に満ちており、これまで感じていた夏特有の蒸し暑さなど忘れられるくらい心地がいい。それに気を良くした二人は「あっサカナ」「ほんと? どこどこ?」と声を上げ、思うままに楽しげな笑顔を浮かべてはしゃぎ合っている。

しかし、それはかごめと彩音の二人だけ。そこへ振り返った犬夜叉はというと、どこか不機嫌さを覗かせるように少しばかり眉を吊り上げているようだった。


「くおらおめーら。遊びに来てんじゃねーんだぞ」
「ゔえ゙〜〜」
「七宝っ、妖怪のくせに舟酔いしてんじゃねえっ」


二人だけでなく、舟酔いで目を回す七宝にさえ叱咤の声を上げる犬夜叉。その様子に気が付いた彩音はそっと七宝の背中をさすってやると、再び背を向ける犬夜叉の姿に小さく首を傾げた。

どうしてだろう。どことなく、犬夜叉がピリピリしているように感じるのは。そんな思いを抱きながら彼の背中を見つめるが、原因はなにも思い当たらない。
ただ虫の居所が悪いだけなのだろうか…そう考えた時、不意にかごめが「あら…? 人…」と呟いた気がしてそちらへ振り返った。


「人? どこ?」
「ほら、あそこ…」


問いかければ、かごめは指を差して教えてくれる。その先の崖の上、確かにそこには小さく人影のようなものが見てとれた。生い茂る緑に少しばかり隠されているが、どうやらそれは彩音たちとあまり歳の変わらない少女のよう。一体あのような場所でなにをしているのか、そんな疑問を抱きかけると同時、なんだかその様子がおかしいことに気が付いた。
それはなにかから逃げているような、そんな素振り。それを裏付けるように少女が「きゃあっ」と悲鳴を上げると、その背後に地を這うなにかが姿を現した。

人のようにも見えるそれ――低く這いつくばっているために姿がよく見えなかったが、それは突如シャッ、と勢いよく首を伸ばし、無慈悲にも少女を崖から突き飛ばしてしまった。


「なっ…」
「犬夜叉さま妖怪じゃっ」


彩音が思わず目を見開き声を漏らすと同時に冥加の声が響く。彼の言う通り、いましがた見えた影は間違いなく妖怪だ。しかしそれを追おうにも、いままさに大きく悲鳴を上げる少女が真っ逆さまにこちらへと迫ってきている。


「危ない!」
「ふっ、舟の上に落ちてくるぞ!」
「受け止めないと!」


成す術もない少女の姿に各々が声を上げる。それと同様に犬夜叉が確かな舌打ちをこぼした直後、ダン、と強く舟底を蹴りつけて高く大きく跳躍した。そして難なく少女を受け止めてみせる犬夜叉の姿にかごめと彩音が「「ナイスキャッチ!」」と声を揃えてガッツポーズを見せれば、彼は崖の麓である川辺に着地して頭上を仰いでいた。
そこには、こちらの様子を窺うように覗き込んでくる妖怪の姿。しかし途端にザザッ、と茂みの向こうへ引っ込み、そのままどこかへと消え去ってしまう。


「(なんだありゃあ)」


あっという間に姿を消してしまった妖怪に怪訝な表情を見せる。姿がはっきり見えなかったということもあるが、あれがどのような妖怪なのか見当がつかなかったのだ。そのため眉をひそめて妖怪のいた場所を見つめていたのだが、その時、腕の中の少女が目を開きながら弱々しい声を向けてきた。


「あ…危ないところを、ありが…」


お礼を口にしようとした少女の声が途切れる。同時に、なにかに気が付いたように顔を強張らせる少女の目は、犬夜叉の頭――そこに生える犬耳へと注がれていた。

“人間ではない”。見慣れぬ耳にすぐさまそれを悟ると、少女はみるみるうちに顔色を変えていく。


「は…放せ妖怪ーっ」
「な゙」


突然叫びながら犬夜叉の頬を勢いよく張り倒してしまう少女。そのあまりの唐突さに犬夜叉も不意を突かれ、叩きつけた少女共々どぱーん、と派手な音を立てて川に落ちてしまった。

そんな無様ともいえる光景を舟の上から見ていた彩音たちはどうすることもできず、ただ揃って「「あらら」」と目を瞬かせていたのだった。




――その後、なんとか二人を救出した彩音たちは川縁に舟を着け、ひとまず服を乾かしながら話を聞こうとそこに焚火をくべる。しかし気に食わないとばかりに離れた場所で腰を下ろした犬夜叉は「ったくふざけやがって」と小言を漏らし、水を吸った衣をギュッと強く絞っていた。
ただでさえ機嫌が悪かったというのに、一層不機嫌になってしまったようだ。そう感じてしまう彩音は「まあまあ」と宥めるような声を掛けながら、かごめに借りたタオルで彼の髪を拭いてやる。

するとその時、少女の怪我の手当てをしていたかごめが包帯を巻きながら「ねえ、」と少女に声を掛けた。


「あなたこの山の人?」
「聞いてどうする」


かごめの問いに、少女はしかめっ面のまま素っ気なく言い返す。あの時一瞬見せた弱々しさはどこへ行ったのか、そんな少女に対して七宝は焚火を弄りながらどこか不満げな様子を見せた。


「助けてもらったのに無愛想な女じゃなー」
「うるさい、お前も妖怪だろう! あたしは妖怪なんか大っ嫌いなんだ」


彼女の琴線に触れたのか、途端に怒鳴り声を上げてくる少女に七宝は驚き怯んでしまう。
どうやら彼女は相当妖怪を嫌っているらしい。それが分かる様子になにか事情があるのだろうと察したが追及はせず、先ほどの光景を思い返した彩音は犬夜叉の髪を拭き終えるなり少女とかごめの元へ歩み寄りながら控えめに問いかけた。


「さっきの…“あれ”も、妖怪だよね? あれって一体…」
「蜘蛛頭というんだと…春先からこの山に棲みついたらしくて、あの一匹だけじゃない。死体の頭に巣喰って、人を襲ってまわってる。もう何人も喰われてるよ」
「へえ…」
(…でも、さっきの奴から四魂のかけらの気配はなかった…ただの質の悪い妖怪ってところかな…)


少女の話を聞きながら、先ほどの蜘蛛頭と呼ばれた妖怪を思い返し考える。確かにあれからかけらの気配は感じなかったが、他にもいるという同種も持っていないとは言い切れない。それにもしかけらを持っていなかったとしても、到底放っておける状況ではないだろう。
そう考えてはタオルを緩く握りしめ、背後に座っている犬夜叉へ振り返った。


「あのさ犬夜叉…」
「おれは行かねえぞ」


最後まで言い切らせてくれず、分かったように否定の声を向けてくる犬夜叉。しかも彼は腰を上げており、さっさと舟へ乗り込んでいるではないか。それに呆気にとられるような感覚があったが、彩音はすぐさま顔をしかめて反論するように言いやった。


「私まだなにも言ってないんだけど」
「どうせ助けようとか言い出すんだろ」
「うん、正解。分かってるんだったら行こうよ」
「けっ冗談じゃねえ」


彩音の提案に犬夜叉は不愛想な態度で言い返してくる。それどころか早く乗れと言わんばかりの目を向け、どこか厳しい声色でなずなを除く一同に素っ気なく言い切った。


「行くぞお前ら。日が暮れる前にこの山を抜けるんだ」
「ど…どうして!?」


犬夜叉の言葉にかごめが驚愕の声を上げる。どうやらかごめも彩音同様、蜘蛛頭の退治へ赴くつもりだったようだ。


「だって妖怪がいるのよ、素通りするなんて…」
「そうだよ犬夜叉。このままじゃ被害が広がって…」
「あのなー。おれは人助けで妖怪退治してるわけじゃねーんだ」
「そ…そりゃそーだろうけど…」


吐き捨てるようきっぱりと言い切る犬夜叉の様子にかごめは戸惑いを露わにしながら呟いてしまう。それは隣の彩音も同様。普段以上に素っ気なく、妖怪と関わろうとしない彼の姿に明らかな当惑を見せていた。


(やっぱり今日の犬夜叉、ちょっと変だ…いつもなら少し調べるくらいはして行くはずなのに…)


どことなく感じる違和に眉をひそめて彼を見る。いつもなら――いや、それどころかかつて行動を共にすることを嫌がっていた時でさえ、異変があれば様子を見に行き立ち向かっていたはず。
だというのに今日はどうだ。関わろうとしないどころか、どこか避けるよう早々に立ち去ろうとしているではないか。

そんなわずかながら確かな違いに気が付いてはたまらず問いただそうとしたのだが、不意に背後からザッ、と足音が鳴らされて思わず振り返る。するとそこには崖を上ろうと蔦を握る少女の姿があった。


「あたし帰るよ」
「帰るって…」
「一人じゃ危ないわ、送ってってあげる」
「いいよ。妖怪の世話になるなんてまっぴらだからね」


かごめが気遣い提案するがよほど関わりたくないのだろう、こちらも素っ気なく顔を背けて崖へと向き直る。だが握っていた蔦に力を掛けた直後、それはぶち、と呆気なく切れてしまい、少女は無様にも真っ逆さまに転げ落ちてしまったのだった。








ザワ…と葉の擦れる音が鳴らされる山中。不揃いな石に形作られた階段を上がっていけば、暮れ始めた橙色の空を背景に建つ古びた総門が見えてきた。それを見上げるかごめが「あ、あのお寺ね」と笑みを見せるのに対し、背後の少女とそれを負ぶさる犬夜叉は揃ってぶす、と不貞腐れた仏頂面を浮かべている。

しかし、それもここまでのこと。


「なずな、その方たちは…?」
「和尚さま!」


門をくぐり参道を歩いていれば、正面から歩いてきた老爺の姿に少女――なずなが大きく目を見張った。と同時に、自分を負ぶってくれている犬夜叉の頭をごきゅっ、と押し退け、和尚と呼ぶ老爺の元へ縋るように駆け寄っていく。それが腰を低くして地面に手を突けば、和尚は心配そうにしゃがみ込み彼女の無事を確かめるよう手を差し伸べる。
どうやら和尚は帰りが遅い彼女をずいぶんと案じていたようで、怪我をしている様子に気が付いては不安そうに眉をひそめた。


「お前蜘蛛頭に襲われたのか?」
「お墓に供える花を摘みに行ってて…それで…この邪な妖怪どもを寺に踏み込ませるハメに…ごめんなさいっ」
「この女は…」


本当に申し訳なさそうに深々と土下座までして謝罪するなずなの言動に犬夜叉たちの顔が引き攣る。本当に妖怪を嫌っているのだと改めて明白に思い知らされては、人間である彩音ですら苦笑を浮かべざるを得なかった。

するとその時、なずなの言葉に顔を上げた和尚が「妖怪…のお」と呟きながら犬夜叉の姿を見つめる。対する犬夜叉は「けっ、」と吐き捨て、どうでもよさそうに顔を背けてしまった。


「安心しなすぐ出てくから」
「あ、お待ちなされ。今宵はこの寺に泊まるがよかろう」


さっさと踵を返して立ち去ろうとする犬夜叉へ和尚から思わぬ提案が投げ掛けられる。それには誰よりもなずなが驚愕し、「和尚さま!?」と正気を疑うような声さえ上げられたが、和尚は提案を覆すことなくなずなへ「食事の用意をしておいで」と言いつけ、寺へ行くよう促した。当然なずなは釈然としない様子を見せるが和尚の決定に異を唱える気はないようで、なにか言いたげにしながらも大人しく寺の方へと歩いていく。

その背中を見送りながら、和尚は彩音たちへ申し訳なさそうに口を開いた。


「助けていただきながら…ご無礼お許しくだされ。あのなずなという子は…父親を蜘蛛頭に殺されましてな、以来わしが面倒をみておるのだが…妖怪が恐ろしゅうて堪らんのじゃろう。この寺はわしの拙い法力で結界を張っておるゆえ、蜘蛛頭どもは入って来れぬ…それに気のせいかの…」


淡々と語られる言葉に耳を傾けていれば、和尚は改めるようにこちらへ向き直ってくる。否、その目が捉えるのは犬夜叉だ。犬夜叉を見つめ――


「お主…“ただの人間”であろう?」


なにかを見抜くかのように、そう問いかけた。それに彩音とかごめが目を見張るほど驚いた様子を見せるが、誰よりも驚愕したのは「なっ…」と短い声を漏らした犬夜叉であった。
和尚がなにを思いそんなことを言ったのか。犬夜叉は訝しげに振り返ると、自身を真っ直ぐ見つめてくる和尚に大きく眉根を寄せた。


「おれがただの人間だあ? 坊主、てめえどこに目ェつけて…」
「目に映る姿はともかく…お主から“全く”妖気が感じられぬのでな」


平然と、端的に語られたその言葉。それに犬夜叉はほんのわずかな反応を垣間見せるように動きを止めるが、やがて右手を持ち上げるとバキッ、と指を慣らし、汗を滲ませながらも微かに不敵な笑みを浮かべてみせた。


「ふっおもしれえ。おれが人間かどうか…試してみるか!?」


突如ザッ、と地面を蹴り和尚へ飛び掛かろうとする犬夜叉。だがそれを目の当たりにした彩音が驚きながらも咄嗟に和尚の前に立ち、「おすわり」とほんの小さな声で言い放った。すると犬夜叉は彩音のすぐ目の前で地面にめり込まされ、強引に、物理的にその場へ鎮められる。


「ほー」
「すみません、乱暴者で」
「あとで言い聞かせておきます」


まるで芸当を見たかのように感嘆の声を漏らす和尚へ、かごめと彩音がすかさず頭を下げて謝罪する。しかし和尚は驚く様子も怯える様子もなく、ただ穏やかに一行を歓迎していた。

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