08


「え? 今度は神経痛?」


けたたましい蝉の鳴き声が響く、初夏の朝の現代。早い時間だというのに強い日差しが照りつける空の下、枯れ井戸の祠の前でかごめの祖父を相手にそう聞き返す学生服姿の少年がいた。


「会えないくらいひどいんですか?」
「うーん、かごめの奴寝込んじゃっててねー」
「そうですか。あの、これ…温湿布。かごめさんに…」
「いつもすまないねえ北条くん」


“北条くん”、そう呼ばれる少年はどこか名残惜しそうな表情を見せながら、手にしていた包みを祖父へ差し出した。
丁寧にリボンで飾られた包みだが、その中身は温湿布。かごめと同じ学校に通う彼はなにかとかごめのことを気に掛けており、休みがちな彼女へこうして一風変わったプレゼントを多々寄越すのだ。以前かごめが学校から持ち帰ってきた健康サンダルや青竹、あれらももちろんこの北条からの贈り物。

――だがそんな彼の健康的な気遣いも虚しく、かごめが神経痛であるということは真っ赤な嘘であった。実際の彼女は病気も怪我もなくピンピンしており、健康グッズに頼る機会もないほど元気に過ごしている。

それを証明するかのように、突如二人の傍の祠からドタタ、という騒々しい物音が響かされた。


「ただいまっ、あ〜帰ってくるの一週間ぶり。お風呂沸いてる〜!?」


物音とほぼ同時にそんな声を上げて井戸から這い上がってきたのは件のかごめ。彼女は相変わらず大きく膨らんだリュックを井戸の外へドサ、と放り出し、続けざまに顔を出してくる彩音へ手を貸していた。そんな時――


「日暮…」
「げ。北条くん」


突如聞こえた覚えのある声に顔を上げると同時、祖父と共に祠を覗き込んでくる北条の姿を目の当たりにしたかごめは愕然と大きく顔を引きつらせた。
それもそのはず。かごめは仮病を使ってまで学校を休んでいるうえ、枯れているはずの骨喰いの井戸から出てきたところをしかと見られてしまったのだから。

この井戸が戦国時代と繋がっているなど、当事者やかごめの家族しか知らないこと。それを知らない人間からしてみれば彼女の行動はあまりに不自然で、どのように問い詰められてもおかしくない状況であった。

これはまずい。そう悟った彩音がすぐさまかごめへ助け舟を出すべく慌てて口を開こうとした――が、その直後。北条は途端にかごめへ詰め寄ったかと思えば、この状況ににつかわしくないとても嬉しそうな満面の笑みを浮かべてみせた。


「やっと会えたな日暮、神経痛大丈夫!?」
「神経痛!?」


なにやらとても嬉しそうに声を弾ませる北条に対して、その口から飛び出した思いもよらぬ病名にかごめが再び顔を引きつらせるよう目を丸くする。しかしそんな二人の傍で、彩音とかごめの祖父がかごめとは全く別の理由で驚きを隠せずにいた。


(あれ…? も、もしかして…)
「(この男気付いていない…)」


井戸から出てきたことも、大きなリュックを持っていたことも、なにもかも全然気付いていないように爽やかな笑みを見せ続ける北条の姿に呆気に取られてしまう。
まさかあの状況でなにも疑わないとは思いもよらなかったが、安心したように、嬉しそうに表情を明るくさせる彼の姿にはなにか気になるものがあった。


(なんか…本当に嬉しそう。ちょっと大袈裟な気もするけど、かごめのことをこんなに気に掛けてくれる知り合いがいたんだ)


かごめに夢中な様子の北条を少し珍しそうに眺めながら思う。するとまじまじと見つめすぎたか、彩音の視線に気付いたらしい北条がふとこちらを向いて不思議そうに首を傾げてきた。


「ところで君は? 同じ学校みたいだけど…初めて会うよね?」
「え゙っ。…そっ、そうだね〜。私もその…親の都合で、学校休みがち…だから…」


言いながらあはは…と困ったような笑顔を浮かべて誤魔化そうとする。唐突に声を掛けられたものだから慌てて適当なことを口にしたが、そのぎこちなさがむしろ信憑性を増したのか、北条は彩音の言葉を一切疑う様子なく「そっか。大変だね」と気遣うように返すほど完璧に信じ切っていた。

純粋なのか、バカなのか。なにひとつ疑わない彼の姿に彩音が堪らずそう感じてしまう頃、北条はやはり爽やかな笑顔を浮かべながらさっさとかごめの方へ向き直っていた。


「日暮、今日は学校行くの?」
「う、うん。今日は調子いいみたいだし」
「ほんと? じゃあ…」
「あっそうだ。あたしまだ学校の準備できてないっ。ごめん北条くん、先に行ってて!」


突然はっと思い出したように北条の言葉を遮ったかと思えば、かごめは慌てた様子でぴゅーん、と自宅の方へ駆けて行ってしまった。風呂などの身支度も済ませたいのだから、仕方がないだろう。そう思いながら彩音は呆然と彼女の後ろ姿を見つめる北条の様子を窺ってみたのだが、どういうわけか彼はやがて嬉しそうにぱっと満面の笑みを咲かせてみせた。


「日暮、走れるくらい元気になったんだな。よかったー」


なんとも純粋な笑顔でそう言ってしまう北条。それを目の当たりにした彩音はしかと感じ取った。終始かごめに気を遣い、何度も優しい言葉を掛けていた彼はきっとかごめのことが好きなのだろうと。それと同時に、この人はとてつもなく天然なバカなのだと、疑う余地もなく確信してしまったのであった。



* * *




絶えず鳴き続ける蝉の声が哀愁を誘う夕暮れ。日が傾いていても十分に暑いこの気候の中、彩音は学校を終えたかごめと共にアイスを食べながら帰路を辿っていた。
しかし、かごめの足取りが重い。ため息さえこぼしてしまうその姿にどうしたのかと問えば、彼女は落ち込んだようにぽつりと呟いた。その言葉に思わず彩音は目を瞬かせる。


「え? 数学の補習? 受けるの?」
「先生に受けろって言われた…」
「そうなんだ…大変だね…」


視線を落とすかごめに彩音は同情するよう笑い掛ける。だがそんな彩音の視線も、手元のアイスへと落とされた。
こうして他人事のように済ませているが、彩音もかごめと同じ受験生。本来はかごめ同様に勉強をしなければならないはずだった。このままではいけない、そう思いながらも未だ帰る方法が分からず、半ば諦め気味にかごめに合わせるだけの生活を繰り返していた。


(いい加減、私も自分の時代に戻る方法を探さなきゃな…)


じわじわと溶けていくアイスを見つめながら思い耽る。しかし探すなど、どうすればいい? 唯一の手段だと思われていた井戸はかごめの時代にしか繋がっていない。それ以外の手段は心当たりも手掛かりもない。そのような状況で、他に方法なんてあるのだろうか…

そう思った時、まるで思考を遮るように冷たい感触が指に触れた。どうやら考え耽っている間に溶けたアイスが零れてしまったらしい。思わずあ…と声を漏らしそうになりながらすぐさまそれを舐め取ると同時、どうしてかかごめが代わりと言わんばかりに「あっ」と声を上げた。それに釣られるよう視線を上げれば、彼女はどこか楽しげな表情で傍の公園を指し示す。


「見て彩音、花火してるわ」
「ほんとだ。楽しそう…」


公園で母親と一緒に花火をする子供たちの姿に表情を綻ばせかけたその時、ふと目に留まった影に小さく眉をひそめた。穴が開いたドーム型の遊具の中、そこに薄っすらとなにかが動いたのだ。なにやら身をひそめるようにするそれは遊具の暗闇から手を出し、火のついたねずみ花火を露わにする。
一体なにを…そう思うも束の間、その手が意図的にねずみ花火を放り出してしまうと、素早く回転しながら飛んでいくそれは瞬く間に親子の元へと迫った。直後、それは傍に置かれていた花火の袋へシュボ、と大きな火を灯し――


「きゃっ、」
「わーんママーーっ」


突如着火された複数の花火が暴発し、激しい音と閃光を伴って親子を襲うように弾け出した。堪らず悲鳴を上げる子供と慌てて消火に移る母親。その光景に目を見張った彩音だが、不意にその親子の背後で遊具から抜け出し逃げようとする小さな女の子の姿に気が付いた。
その子は駆け出し、勝気な笑みを見せながら親子を馬鹿にするよう振り返ってくる。


「あはははは。ざまーみろ、へへ〜んだ」
(あの子…逃げる気だ!)
「えっ、彩音…!?」


女の子の行動を悟った途端慌てた様子で駆け出す彩音。どうやら女の子に気付いていないらしいかごめがその姿に目を丸くしていたが、彩音は構うことなく女の子を追いかけ、足を止めようとしないその背中へ「ちょっと!」と強く声を上げた。


「きみっ、なんであんなことして…」
「え…!?」


続け様に叱咤する彩音の声でようやく気付いたか、女の子はビクッ、と肩を揺らすほど驚いた様子で振り返ってきた。それだけでなく足まで止めてしまうその子を追い詰めるように駆け寄りながら、彩音は同時に目の前の彼女の姿に目を疑った。強い違和感。醸し出される微かな不気味。
だが信じられない様子を見せるのは彩音だけでなく――


「あんた…あたしが見えるの!?」


驚愕の色を露わにした表情で、愕然と問いかけてくる女の子。体のあちらこちらを黒ずませたその子は、じきに夏であるというこの時期に厚手のダウンジャケットを着込んでいた。それだけではない、中に着ている服もスカートも、見るからに冬物。しかしそれらを着込んでいながら暑がる様子もなく、汗ひとつ掻いていないその奇妙な姿に彩音は言葉を失うほどの不安に包まれていく。
だが背後から聞こえた親子の「やだもー」「あぶねー」という声にはっとすると、わずかな戸惑いを残しながら女の子へ手を差し伸べようとした。


「ほ、ほら…さっきのこと、謝ろう? 私も一緒に行ってあげるから、大丈夫…」
「関係ねーだろ!」


言葉を遮られ、差し出した手がバシッ、と叩き払われる。その瞬間、まるで彩音を拒むように視界いっぱいの炎が広がり、瞬く間に全身を包み込まれたような気がした。思わず体を強張らせて強く目を瞑るが、一瞬の熱さを感じた直後、そこには夏特有の生ぬるい風と蝉の鳴き声しか残されていなかった。


「彩音っ、大丈夫…!? さっきの女の子…」
「あ…?」


駆けつけたかごめの声に目を開けてみるが、そこにいたはずの女の子の姿はすでに跡形もなく消え去っていた。かごめも彩音を包み込んだ一瞬の炎と女の子の姿を見たようだが、女の子は炎に紛れるように見えなくなってしまったという。

一体あの女の子はなんだったのか…まさかまた、現代に現れた妖怪なのか。そう考えてしまう彩音が落とした視線は、あの女の子に叩かれた手へ向けられる。
そこに残る黒い煤だけが、ただ静かに彼女の存在を証明していた。



* * *




「もういいんじゃねーか? 冥加じじい」
「まだじゃ犬夜叉さま。いま出て行ったら刺し殺されますぞ」


落ち着かない様子を見せる犬夜叉が苛立ったように言うが、肩の冥加がすぐにそれを止める。二人が木の陰に隠れながら見つめる先には大きな蜂の巣に挿し込まれた鉄砕牙があった。淡い光を放つ蜜蝋を鉄砕牙の鞘に纏わせ、そこを中心に無数の蜂がワーンと羽音を鳴らしている。
これは冥加が意図的にさせていることであった。


「なにしろ雷獣との闘いで折れかけた鞘じゃ。この鋼バチの蜜蝋でしっかり固めておかねば…」
「びろ〜ん」


冥加が説得するように犬夜叉へ語っていると、その背後に間抜け面の風船が現れる。それは犬夜叉の傍を漂い、「なに、今度彩音とかごめが戻るまでには治るじゃろう」と冥加が続けている間にもがしがしと犬夜叉の頭を齧ってきた。それには無視を続けようとしていた犬夜叉も眉間に深いしわを刻み込んで、


「やかましいクソギツネ!」


途端に怒鳴り付けるよう大声を上げ、風船の体がぎゅる、と大きく潰れるほど強く拳を叩き込んだ。すると軽快な音を立てて変化を解いた七宝は怯む様子もなく「つまらーん、」と不満げな声を上げてくる。


「おらは彩音たちと一緒だと思ったからついてきたんじゃ。なんでお前と二人きりにされにゃならんのじゃ」
「おれのセリフだそれはっ」
「…わしは数に入っとらんのか」


不満をぶつけ合う二人に冥加が呆れたように呟く。
だがそれも束の間、背後からホウー…と優しい柔らかな笛の音が聞こえ、それに気が付いた冥加は「ん?」という声を漏らすほど不思議そうに振り返った。そんな彼に釣られるよう犬夜叉と七宝もそちらへ振り返れば、遠く暗い池の上に蛍火のような淡い光がいくつも浮いているのが見える。どうやらそれは一匹の丸い妖怪と、それについていく子供たちの姿をしているようだった。


「よっ妖怪じゃっ」
「七宝、おめーも妖怪だろ」


途端に怯えて飛びついてくる七宝へ、なに言ってんだと言わんばかりに犬夜叉が突っ込みを入れる。
その視線の先の妖怪は丸い体にいくつもの羽根を連ねたような尾を持ち、大きな目を至極細く開いた状態で優しく笛を吹いていた。そんな妖怪を怯えることなく見つめる冥加は、ただ落ち着いた様子のまま静かに語りだした。


「…あれはタタリモッケじゃ。幼子の魂から生じた妖怪でな。新たに死んだ子供たちが成仏するまで、ああして一緒に遊んでやる…」


“タタリモッケ”、そう呼ばれた妖怪は再び安らかな笛の音を鳴らす。冥加の言葉通り遊んでいるのだろう、その周りを行き交う子供たちの魂は明るい笑顔を浮かべ、その妖怪と過ごす時を楽しんでいるようだった。

ホウー…と、笛の音が響く。


「なに、全く害の無い妖怪じゃ」

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