19


深い闇に包まれ、頼るべき月もない朔の夜。まるで墨に塗り潰されたように暗く不穏な外界とは対照的に、箱庭の中の世界はどれだけの時間が経過しようとも日中の明るさを保ち、不気味なほどのどかな空気に包まれていた。
そこに捕らわれてしまった彩音たちは二人一組に分かれ、出口探しや情報収集、そしてこの状況を周囲の人々へ伝達するため広く声を掛けて回ることにした。

そんな中、彩音と弥勒はいくつかある大きな木の一本へ近寄り、その根元に集まるぼんやりとした人たちへ声を掛ける。


「もし。聞こえますか」
「あのっ、みんなここから逃げないと、ニセ仙人に食べられますよ!」


眠っているかのようにぐったりとして反応のない人々へ懸命に言葉を変えて呼び掛けるが、やはりそれらは微かなものですら反応を見せない。まるでこちらの声が聞こえていないかのようだ。
それはこれまで川辺や畑の傍で見かけた人々も同様で、この箱庭にいる者全てが動く人形のようになっていた。


「変だね…みんな動けるのに、意識がないみたいな…」
「ええ…まるで抜け殻ですな」


これまで歩いてきた道を振り返りながら周囲の状況を訝しむように眉をひそめる。かと思えば、弥勒はこちらを見下ろしながら「彩音」と呼び掛けてきた。


「ここではなにがあるか分かりません。私の傍を離れないでください」
「う、うん」


わずかに警戒の色を滲ませながら見つめてくる弥勒の言葉に小さく頷く。その姿がとても頼もしく見えて、彩音は自然と嫌な緊張が解けるような感覚を抱いていた。

このような異常な状況には、冷静で頭の切れる弥勒の存在がとてもありがたい。彼がいるのといないのとではきっと雲泥の差だろう。そう考えてしまっては安堵からか胸が温かくなるような感覚に包まれ、人知れず微かに表情を和らげた。
そして「行きましょう」と口にする弥勒と足並みを揃え、ともに歩を進めていく。

やがて少し歩いた先の大きな木の根元にかごめと七宝の姿が見えてきた。どうやらそちらも結果は同じであったようで、誰一人として反応を示した者はいなかったという。そんな互いの報告に、怪訝な表情が伝染するよう全員へ広がっていく。


「仙術にかかっとるのじゃろか」
「あたしたちは平気なのに…」


七宝の言葉にかごめが不思議そうに続ける。そんな時、弥勒がなにかに気が付いたよう下方へ視線を留めた。それが捉えたのは傍でぐったりと座り込む人の手、その近くに転がるなにかの種のようなものであった。


「木の実の種…なるほど…察しがつきました」


もう一度周囲を見回した弥勒がわずかに眉をひそめながら呟くように言う。それに対して未だ原因を察することができずにいる彩音たちが訝しげな顔を見せれば、弥勒は木の実や川の水を口にする人々を見据えながらゆっくりと語り始めた。


「恐らくこの箱庭の中の水や食べものを口にすると、考える力を奪われるのです」
「なるほど…だからみんな、こんな感じに…」


彩音は弥勒の言葉に納得しながらそう続けては、傍らで項垂れている人々を見つめる。すると不意に、頭上から件の桃のような木の実が落ちてきた。それを拾い上げてみれば、甘い香りが優しく鼻をくすぐってさぞ美味しいのだろうと思わされる。
しかしそんな誘惑を慌てて振り払うよう首を振るい、手にした木の実は向こうの川へ向かって放り投げた。

それが虚しくトポン、と音を鳴らす中、なにやらいい対策を閃いたらしい七宝が明るい表情を見せる。


「飲み食いしなければ大丈夫なんじゃなっ」
「そうねっ」
「飲まず食わずではいずれ死にます」
「いやじゃあああ!」
「そうね」


せっかくの名案があっさりと論破されてしまい悲鳴を上げる七宝に続いて同調していたかごめが虚しげに肩を落とす。そんな流れるようなやり取りに“コントみたい…”と感じてしまった彩音は、つい苦笑を浮かべることしかできずにいた。

しかし、いつまでもこうして和やかにしてはいられない。自分たちの身が危ういことも確かだが、それより、なによりも気掛かりなのは一人で飛び込んでしまった犬夜叉の方だ。


(時間が時間だし、犬夜叉はもうとっくに人間になってるはず…早くここから出て犬夜叉を捜さないと…)


取り出したスマホをギュ…と握りしめて不安な表情を俯かせる。その画面に表示された時刻はすでに夜を示しており、犬夜叉が妖力を失っているであろうことが嫌でも伝わった。
この屋敷に住む桃果人がどのような相手かは分からないが、人間となってしまった犬夜叉では太刀打ちできない可能性は大きい。それを思っては居ても立ってもいられないようなざわつきが胸に広がって咄嗟に顔を持ち上げた。

――その時、突如空がゴー、と低く唸りを上げながら雲を大きく渦巻かせ始めるのが目に付いた。その異変に一同が気が付き揃って驚愕の表情を向ける中、その渦の中心からはとてつもなく大きな太った手が飛び出してくる。


「手!?」
「うそっ、デカすぎない!?」


自分たちよりも遥かに大きいそれに彩音は思わず顔を引きつらせながら声を上げてしまう。その手の主はもちろん桃果人であり、「小腹がすいたな、二、三匹喰おう」と口にしながらおやつ代わりの人間を漁りに来たようであった。

しかしまさかそんな目的であるなど露ほども知らない一同はふと思いついた可能性に逃げかけた足を止める。
恐らくこの箱庭から出られるチャンスは今この瞬間だ。その判断から、短く息を飲んだ彩音が先陣を切るように迫ってくるその手へ駆け出した。


「行こう! あの手に掴まればきっと出られる!」
「ですなっ、イチかバチか!」


かなりリスクがあるであろう賭けだが、他に抜け出す方法がないために弥勒たちも迷いなく賛同して彩音に続く。そんな一同の姿に気が付くこともなく、呑気に箱庭の中を漁る桃果人は辺りの人間を選ぶようガサガサと掻きまわしていた。


「さて…どいつを喰うか。…と言っても、痩せててまずい男ばかりだがなー」


そんな小言を漏らしながら掻き集めた一握りの人間を持ち上げる。その中から選ぼうとしたのだろう、手を開いて拾い上げた人間たちに品定めの目を向けた、その時、桃果人は変わらず表情のない顔ながら訝しげに「ん〜?」という声を漏らした。
そして、


「おおっ! 若い娘だあっ!! それも二人!!」


途端に歓喜の声を張り上げる桃果人の視線の先。そこには複数の男たちに紛れて「いたたた…」「つ、潰れる…」と声を漏らすかごめと彩音の姿があった。咄嗟に桃果人の手へ掴まったはいいものの、運悪く男たちと一緒に握られてしまったため押し潰されそうになったようだ。
しかしそれから解放されると同時、目の前に迫った巨大な桃果人の姿に彩音はビク、と肩を震わせた。


(こ、こいつが…人喰い仙人の桃果人…!?)


そのあまりの大きさ、深い闇のような黒い瞳に息を飲むほどの緊張を覚える。すると桃果人は「ほ〜」と感心するような声を上げ、彩音とかごめ以外の男たちをピシピシと指で弾き落としながら言った。


「こんな美味そうなの捕まえた覚えはないが…今日はいい日だ。珍しい半妖も手に入ったし…」
「半妖…!?」


桃果人の嬉しそうな声にギクッ、と心臓が跳ねるような錯覚を抱く。今日ここにきた半妖など、乗り込んでいった犬夜叉以外にいるはずがないではないか。それはかごめも同様に悟ったようで、すぐさま桃果人へ問うような声を向ける。


「犬夜叉に…会ったの!?」
「ん〜? お前らはあの半妖小僧の仲間かあ?」
「ちょっと、犬夜叉は無事なんでしょうね!」
「犬夜叉になにかあったら、あんたも同じ目に遭わせてやるから!」


かごめに続いて彩音まで身を乗り出しながらまくし立てるように言いやる。
その様子を、桃果人の袖に掴まる弥勒と七宝が息を殺して見つめていた。自分たちはこうして身を隠しているというのに正面から食って掛かる二人の様子を見せられては、なんだか圧倒されるような思いでドキドキと胸を高鳴らせてしまう。


「すごいな二人は、フツーに会話しとる」
「場慣れしているんでしょうな」


彼女らが今まで幾度となく危険な場を経験してきたであろうことを悟ってはどこか感心するような目を向ける。だが見ているこちらとしては相手の逆鱗に触れてしまわないかと冷や冷やさせられる。
強引にでも手を引いてこちらへ身を隠させるべきだったか…弥勒がそんな不安を湛えた目で彩音の様子を見つめていれば、二人を眺める桃果人が胡乱げな笑みをこぼした。


「へへへー、イキがいいな。小さいまま喰うのはもったいない」
「あっ!?」
「きゃ!」


桃果人が呟くと同時、二人の体を握る手にギュッ、と一瞬の力が込められる。途端、体が軋むような激痛が迸り、二人はいとも容易く意識を手放して力なくくたっ、とうな垂れてしまった。その姿に七宝と弥勒が思わず小さな声を上げるが、身を乗り出すこともできないまま動けない歯痒さに唇を噛みしめる。

すぐにでも助け出したいところだが、今ここで自分たちまで見つかるわけにはいかないだろう。それを思うと弥勒たちは不本意ながらも身を潜め続け、桃果人の動向を静かに見届けることしかできなかった。



* * *




一方、揺れるかがり火に照らされる薄暗い部屋――そこで幾重にも絡まった太い茨のような蔓の塊に捕らわれる犬夜叉は何度も脱出を試み、そのたびに新たな傷を負わされていた。それでも彩音たちの身を案じ、懸命にその蔓から抜け出そうとする。
そうしてまたも「くっ…」と声を漏らしながら体を乗り出そうとした時、その身に力が入りにくくなっていることを嫌でも感じてしまった。


「(ちくしょう…血を流しすぎた…目が…かすむ…)」


もがき暴れるたびに刻まれる深い傷からは絶えず深紅の鮮血が流れ出ている。おかげで虚ろな表情を見せるほど弱り、ままならない状況に悔しげに眉根を寄せていた。


「なんだまだ生きてるのか」


不意に聞こえる声。それに釣られるよう顔を上げれば、薄い木製の扉が軋みを上げながら開かれ、その向こうから桃果人が姿を覗かせていた。
まるでその目はしぶといとでも言わんばかり。だが、その目が犬夜叉から逸らされると同時、彼は部屋の隅へなにかを無造作に放り捨てた。

それに、ギクッ、と嫌な鼓動が響く。犬夜叉が思わず顔を青ざめさせてしまったそれはひどく見覚えのあるもの――緑色の襟が特徴的な制服、そして彩音の燐蒼牙であった。


「(彩音とかごめの着物…燐蒼牙…ま…まさか…)」


途端に巡る嫌な予感に鼓動が激しさを増していく。
捕まってほしくないと思っていたのに、彼女たちの着物は桃果人の手から捨てられた。そして肝心の彼女たちの姿は、どこにもない。それに最悪の結末が脳裏をよぎって、加速する鼓動に伴うようとめどない汗が滲み伝っていく。

そんな中、桃果人の腰の辺りに見覚えのあるものが引っ掛かっていることに気が付いた。
すると大きな壺の上に腰を掛け、それにヒビを走らせる桃果人はやけに見つめてくる犬夜叉へ「なんだその顔」と言いながら腰に携えていたひょうたんを手にする。と同時に、そこに引っ掛かるものに気が付いた。


「ん〜? ああ、あの女の髪飾りがついてたのか」


犬夜叉が見つめていたものがそれであると感付いた様子を見せる桃果人はそう言いながら彩音のリボンを摘まみ、制服の上に放る。その姿に耐え切れなくなったか、犬夜叉は身を乗り出さんばかりの勢いで咄嗟に問い質した。


「彩音…女どもはどうしたっ!?」
「心配すんな。すぐ会わせてやるよ。おれの腹の中でな」
「!」


ひょうたんの中の酒を口にしながら平然と言ってのけるその姿に犬夜叉の目が大きく見開かれる。ドクンドクンと響く鼓動が頭を支配してしまうような感覚の中、たまらず瞳を揺らしながら震えそうになる声で問うた。


「く…喰ったのか!?」
「くだらねえこと聞くなよ。人間なんて喰うしかねえだろ。特に白い髪飾りを着けた女…あいつは最高だったぜ」


傍に放られたリボンを見下ろしながら下劣な笑みを薄く浮かべて話す桃果人。それに痺れを切らし「くっ!」と声を漏らす犬夜叉は鬼気迫る表情で強く噛みしめた歯を鳴らした。
直後――


「許さねえ!」


怒りに身を任せ、弾かれるように強く桃果人へ襲い掛かる――だがその体はしかと拘束されており、蔓を激しく軋ませるだけに留まっては桃果人に指先を触れさせることすら叶わなかった。
その姿を前に、桃果人は再びぐび、と酒を飲みながらせせら笑う。


「へへへ無駄だ。その蔓は絶対切れねえよ」


よほどの自信があるのだろう、桃果人は一切の不安を覗かせることなく楽しげに犬夜叉が傷つく様を眺め続ける。こうして犬夜叉を煽り、激昂させてより早く多くの血を流させようとしているのだ。

そんな時、彩音たちの制服に身を隠していた弥勒と七宝が不安げな表情を浮かべて姿を覗かせた。すると、弥勒は初めて見る犬夜叉の“いつもとは違う姿”に困惑するよう眉をひそめる。


「あれが犬夜叉ですか、まるで人間のような…」
「思いっきり人間なんじゃ」


信じられないとでも言いたげな弥勒へ七宝が焦りを露わに言い切る。
その焦りが示すように、犬夜叉はすでに傷だらけでとても無事とは言えない状態だ。それを思っては悠長に眺めてもいられず、弥勒はすぐさま天井に伸びる蔓を見上げながら右手の数珠に手を掛けた。


「この小さき体で、どこまで吸えるか分からんが…」


そう口にしながら即座にゴッ、と勢いよく風穴を開き蔓へ向ける。するとその力は小さくとも強力なようで、吸い寄せられる蔓は確かに軋みを上げながら徐々に引き付けられていた。

その唐突な異変に、桃果人が思わず「ん゙?」と訝しげな声を漏らす。それと同時、犬夜叉が再び強く振り切ろうと力を込めて身を乗り出せば、二人の力により天井がビシッ、と音を立てて大きくも細かいいくつものヒビを走らせた。

次の瞬間――


「でえええええっ!!」


突如犬夜叉が大きく叫び上げながら渾身の力で駆け出す。するとひび割れていた天井が激しく砕け、瓦礫を巻き込んだ蔓は犬夜叉の勢いに引かれるままドオオォン、という轟音を響かせて桃果人に崩れ落ちた。

凄まじい音の余韻を残しながら、激しい土煙が部屋一面を覆う。それらが徐々に落ち着きを取り戻す頃、犬夜叉の前には部屋を埋め尽くしてしまった蔓や瓦礫が桃果人を封じるように押し潰す光景が広がっていた。


「くっ。待ってろ彩音! こいつの腹掻っ捌いて…」
「犬夜叉」


左足だけを覗かせる桃果人の元へ駆け寄り手を掛けようとした刹那、自身の名前を呼ぶ声に引き留められるよう動きを止めた。その声の元へ振り返ってみれば、すぐ傍の蔓の上を歩く小さな弥勒と七宝がこちらを見上げている。

そこで初めて二人の存在に気が付いた犬夜叉は二人に顔を寄せ、弥勒たちがここに至るまでの経緯をひとつひとつ聞かされていった。

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