あれから月日は流れて、数年が経ったと気付いたのは偶然にもあの女との初めの出会いとする公園を訪れたことがきっかけだった。あの日から一度も会うこともなく、僕は自分の成すべき事をこなすだけの毎日を過ごしていた。そんなことをしていたら当然あの日のことや、あの女のことも不思議と忘れることができた。しかし、雨の日は心を鬱々とさせあの女の顔が嫌でも過るようになった。そういった日は必ずしも完成させなければならない芸術品や次の舞台のことを考え、思考を巡らせては思い出さないようにした。そして、毎日それを繰り返すことであの女のことを忘れることに成功した。忘れたいと強く願った。もう二度とあの女の泣き顔も見たくないと思った。あの女に対するこの汚れた感情さえも潰しては抹消させた。
「バカだな…僕は」
あんなに必死になって忘れたいと願ったというのに、何故ここに来て思い出してしまったのだろうか。もう二度と立ち寄ることもないと油断していたからだろうか。いや、違う。僕がこんなことするはずがない。恐らくは、偶然だ。そうだ、きっとそうに違いない。偶然からなる行動だ。あの女のことなんて何とも思うはずがない。未練なんてない。
ベンチに腰掛け見上げれば僕を真上から見下ろす月が酷く眩しく嘲笑うかのように僕を照らしていた。ここはこんなにも静かな場所だっただろうか。もっとうるさく騒がしいといった印象が僕の中にはあった。この公園に来ると不思議と落ち着く反面自身の血管を巡る血液が速く流れていくような奇妙な緊張感にかられた。
『う、そ…』
気づかなかった。いったい何に?人の気配に。あの女がここを毎日通るということに。ふと街灯の影に隠れる人間を見つめれば、砂利と靴が擦れる音が静寂な夜に響いた。僕に吸い寄せられるようにゆっくりとそれは近づき、少し離れたところで止まった。
『し、宗…だよね?驚いた…こんな時間にどうし…あ、そうか…お仕事だった?お疲れ様。』
一人語りで話すのはヤツの癖だ。そんな姿に慣れてしまっている自分が憎い。そして珍しく僕と目を合わさず、目を泳がせている様を見て醜いと思った。数年経っても尚、姿形も変わらず性格さえも変わらない。つまらない女だ。
「君こそ、何故こんな場所に?」
そう問えば、小さな声でたどたどしい言葉で『…寄り道。』と答えた。その発言に思わずため息が出る。スーツ姿から見て恐らく仕事帰りといったところだろう。まあなんの仕事をしているなんて僕にとってはどうでもいいことだけど。それでも何故こうも腹の奥から沸々と怒りが湧いているのだろうか。この女に会うといつも僕をイラつかせ無駄な体力を浪費させられる。
『今日は私、会社の会議で…だからスーツなんだけど。凄く眠くて。あ、でも寝なかったよ。あとね、えっと…美味しい洋菓子屋さんを見つけて…ね……っ』
必死になって目尻を拭っている姿をただ見つめていることしかできなかった。喋り続けようとする女に僕は黙って聞くことしかでしなかった。あれはいつだったか、昔お気に入りの人形を親の誤りで捨てられ泣きながらお米は僕のもとへ訪れた。中等部に上がってまで無様に泣き喚く姿は僕にとって煩わしく感じた。だから黙らせることを目的にヤツのために人形を作った。その時の表情はこの僕から見ても愛らしいといった表情で、憎いことに心を揺さぶられてしまった。昔の記憶が走馬灯のように流れ込んではまた僕の心の隙間に入り込もうとする。いつだってお米という女は僕の心を離してはくれない。
気づけば立ち上がっていた。
「お米、君は僕が好きか。」
あの時と同じ言葉を吐けば拭っていた手が止まる。
「君は僕のすべてが好きか。」
はじめから酷い顔がより酷く。口も間抜けなほどに開いていた。
「君は今でも僕に恋をしているのか?」
先ほどよりも距離を縮めれば醜い顔が嫌でも瞳に映った。こんな女に踊らせているのは僕も困ったものなのだよ。
「答えを聞こうか。」
嫌な空気だった。出来れば立ち去りたいと思ったぐらいだ。この僕が自身の舞台から身を捨ててまで、この場からすぐに立ち去りたいと。わけがわからない。
『宗のこと…好き、今でも苦しい。でも一緒にいられない。』
『こんなにも宗と近いのに。遠いよ。』
再び砂利と靴が擦れる音がする。遠ざかろうとするヤツの手を無理矢理掴めば、目を丸くしたと思うと『離して…』と涙を流し始めた。怯える姿に舌打ちをした。なんて面倒な女なのだろう。自分から触れようとしたり、懺悔のような告白をしたり、自分勝手で無責任だ。だから僕は君が嫌いなんだ。
「僕の前からもう二度と離れることは許さないのだよ。」
そう告げると気づけば自らの腕の中にヤツを閉じ込め、心臓が速く脈打てば僕の体を苦しめた。
穢れを知った者たちの末路
この想いを僕は恋だという汚くも綺麗な言葉に変えてもいいだろうか。
『宗の指はやっぱり細いね…握ったら折れないかな…』
帰途につくなり手を握って帰りたいという申し出にたまらなく面倒さがあったが、どうしてもと懇願する姿にため息が出た。僕はどうやらお米の押しに弱いらしい。今まで気づいて来なかったが、自分自身この気持ちに気づいて今目の前にするとヤツに対する甘さに実感をせざるを得なかった。
「そこら辺にいる不良品と同じにしないでくれたまえ。僕はそんな柔ではないのだよ。」
ふん。と顔を横に背ければ嬉しそうに笑うお米がいる。その反応に酷く満足してしまう自分がいた。滑稽な様だと言うなら言えばいい。穢れを知った者同士仲良く肩を並べるだなんて僕自身もバカなやつだと自覚してる。それでも愛おしそうに僕に向けるその瞳を見るだけで、心を蝕まれる感覚にやけに心地よいと思う自分がいたのは確かだった。