優しい雨


 遠くでしとしとと雨の音がしている。砂が吹き荒れる音よりずっと優しい音は、何か懐かしい思い出を揺り起こそうとしているかのようだ。
雨の日の遊園地。回るメリーゴーランド。胸に飛び込んでこようとする愛しい存在。今も変わらず大事に思う人の、幼い姿だ。
しゅんにい、と高い声が俺を呼び、ばしゃっと勢いよく水溜りを駆けてくる。ぶつかってくる身体を受け止めた瞬間、なぜか額にひんやりとした感触がした。
「ゆき、……」
 泣きじゃくる彼女を慰めたいのに、優しくあってはいけないと思う自分もいる。どちらが正解で、どちらが間違いなのか。それを知るにはあの頃の俺はまだ幼すぎたように思う。
 どうしていいか分からないままに抱き締めた身体からは、アスファルトを濡らす雨の独特の匂いではなく、太陽のふんわりとした匂いがした。

(―ああ、これは夢だ)

俺はもう、あの世界にはいない。俺には二度と彼女を抱き締めることも、甘やかすことも、厳しくすることも、何もかもしてやることは出来ないのだ。選んだのはゆきではなく、対の男なのだから。
切なくて、それでいて優しい夢だった。ほんの少しの胸の痛みと懐かしさ。どうか幸せでいてと願うことしか出来ないけれど、それでも思わずにはいられない。

***

君といつまでも


 家に帰る道すがら、そんなことを思い出して龍馬は相好を崩した。もうすぐ家に着くのだ。一月ぶりの我が家、一月ぶりの瞬。自然と歩く速度は速くなり、ついには駆け出しそうになるのをぐっと堪える。もうすぐ、もうすぐだと自分に言い聞かせて、龍馬は見慣れた夜の道の先を急いだ。
 それから程なく、僅かに息を弾ませ、龍馬は一月ぶりに我が家の扉の前に立っていた。安普請の家のあちこちから漏れている明かりは、この中に確実に人がいることを示している。家の持ち主である龍馬が外にいるのだから、中にいるのは瞬以外にはない。
 すう、と息を吸い込む。逸る気持ちを抑え、二度三度と深呼吸をした。余裕のないところを見せたくないというちょっとした意地と、一拍置かなければ顔を見た瞬間に理性がどうにかなってしまいそうな自分を押さえ込むためだ。年甲斐もないと龍馬は頭を掻いた。
心を整えた後、異世界ではこの扉を叩くのが人が来たという合図になると瞬が言っていたのを思い出し、確りと聞こえるよう、けれど強すぎない力でドンドンと叩いた。
家の中から床板を踏む音、衣擦れの音、あれやこれやが聞こえてくる。近づいてくるにつれて、龍馬の鼓動もドンドンとやかましく鳴り出したが、それは持ち前の胆力でどうにかすることにした。なぜか緊張している龍馬の前で、建付けの悪い扉ががたがたと動く。
「……おかえり、龍馬」
 驚いたことに、第一声がそれだった。すっと滑って開いた木の扉の隙間から、いつも通りの涼しい顔で瞬の顔が覗いている。誰だと聞くこともなく、警戒するでもなく、当たり前のように扉を開けた瞬は、びっくりして言葉をなくしている龍馬に気づいて小さく笑った。
「この世界でドアをノック……戸を叩くのはお前くらいだ」
「あ、ああ、そうか、そういうことだったのか。やっと合点がいったぜ」
「そういうことだ。……とにかく中に早く入れ。風が冷たい」
「おっと、いかんいかん、ついぼうっとしちまった」
 慌てて家に入ると、ブーツを脱ぎ、羽織を脱いだ。まだ雪が降るほどの寒さではないが、羽織を脱いだだけですっと冷たさが襟元から忍び込んでくる。
「一月離れただけでこんなに寒くなっとるとはなあ」
「長州も気温はそれほど変わらないだろう」
「いや、長州のことじゃなくて、江戸のことさ。俺が江戸を、ここを出る前は、羽織を脱いだくらいじゃ寒いなんて感じなかったからな」
 自然な動作で脱いだ羽織を受け取った瞬は、三歩ほど下がった距離を保ったまま龍馬の後に続いた。まるで絵に描いたようなとでも言えばいいのか、完璧な妻の振る舞いだ。龍馬は瞬に気づかれないよう、頬に熱を走らせる。
 そそくさと円座に腰を落ち着ければ、瞬は羽織と龍馬の着替えや何やらを詰めた荷物を手に部屋を出て行ってしまった。汚れ物を纏めてしまいたいのだろう。本当に何から何まで完璧だ、と龍馬は感心しきりだ。

(中略)

「瞬、瞬……ああ、瞬、会いたかったんだ、瞬」
 一月、たった一月、会わなかっただけだ。日にすればたったの三十日、けれど時間にすれば、膨大だ。
 首筋に鼻先を押し当て、思い切り吸い込む。瞬の匂い。同じ石鹸を使っているはずなのに、どうしてこうもすっきりとした清冽な匂いになるのか。くらくらと龍馬を酔わせるその匂いを一頻り嗅いだ後、龍馬はようやく瞬の着物に手を掛けた。
「っ……」
 びく、と瞬が緊張も露わに身体を震わせ、細く息を吐き出した。肌を重ねるのは初めてではないが、それでも緊張するらしい。
「大丈夫だ、瞬。ゆっくりするから」
 嫌なら嫌と言ってくれ、ちゃんと止める。そう気遣いの言葉を残して帯を抜く。龍馬が手を動かすことで冷たい風が入るのか、瞬の夜目にも眩しい白い肌は粟立っていた。
「寒いかい?」
 温めるように胸を撫でれば、瞬は軽く首を振った。
「どうせすぐ、…暑くなる」
 尤もな意見に龍馬はふっと唇を緩めると、その言葉を現実のものにすべく唇を重ねる。柔らかな感触を確かめ、龍馬とは違い荒れの一つもない唇を堪能し、舌で上下をしっとりと濡らしてから唇のあわいを突いた。するとまるで砂糖菓子のようにほろりと解けた瞬の唇は、龍馬の舌先をおずおずと受け入れ、龍馬の好きにさせてくれる。角度を変えて口の中のあちこちを堪能すれば、それだけであっさりと体温は上がり、先程までの寒さなど微塵も感じなくなっていた。
 丁寧に骨の形までを刻み込むように身体中に触れてなぞりながら、どうしてこの一月触れずにいられたのかと考える。指の腹からじわじわと体温が移り、色んな感情がない交ぜになって龍馬の中に流れ込んでくるかのようだった。このまま鉄か鋼のように指先がどろどろに溶けて、瞬にくっついてしまわないか、有りもしない危惧を抱いてしまうほど、心の方が蕩けていく。求めていた体温が、熱が、匂いが、全てが龍馬の腕の中にあった。