小説 | ナノ


▽ 見返り(帯刀)


「帯刀さん、あの、助けて欲しいことがあるんです」

そんな電話をもらったのは、長雨の続く陰鬱な日の夕刻だった。
電話もメールもこちらから送らなければ返ってこないようなつれない相手からの突然の電話に、驚きはしたものの嬉しさが上回る。
仕事で会えない日々が続いていたから余計だ。
第一声は不穏なものではあったけれど、彼女からの電話に私の気持ちは随分と高揚していた。

「私で出来ることなら何でもしてあげる、といいたいところだけど、まずは事情を聞かせてくれる?」

秘書の鋭い視線を無視し、私は優しく恋人に話し掛ける。
ついつい浮かべた笑みにますます秘書の眦が吊り上った。

「えっと…ごめんなさい、今から会えませんか?」
「まだ仕事が残っていてね。会わないと話せないようなことなの?」
「…はい」

口調から察するに、それほど切羽詰った状況ではないらしいが、それでも「助けて」と言うからにはそれなりに困った状況ではあるのだろう。
しかもなぜかゆきくんは言葉を濁してばかりで、助けて欲しいという内容の核心には触れようとしない。
是が非でも会いたいという可愛い我儘ならば嬉しいけれど、残念ながらこれは私の希望でしかなく、ゆきくんはそんな我儘を言うような娘ではない。
そう考えると、電話では言いづらい内容なのか、それとも言えば私が断ると思っているのかのどちらかだ。
恐らくは後者だろうと検討をつけ、聞かなければ始まらないのだし、内容は会ってから聞くからと電話を切り、緩む口許を必死で押さえ込んだ。

(惚れた娘に頼られることが、こんなにも嬉しいとは)

怨霊や陽炎と戦っている最中でも人に寄りかかることをよしとしなかった彼女が、現代でこうして私を頼ってくれるのはいい傾向だ。
多少の難題ならば喜んで引き受けよう―――そう決めて、私は部下に大量の書類を押し付け、秘書にスケジュールの変更を告げて会社を後にした。
猛烈な抗議が聞こえた気がしたが、きっと空耳だろう。

「っと……これを忘れてはいけないね」

ポケットの中で煩く鳴り響く携帯電話の電源を、私は迷うことなくオフにした。



待ち合わせに指定された公園へ車を走らせると、屋根のあるスペースのベンチで私を待っているゆきくんの背中が見えた。
てっきり公園内のカフェに入っているものと思っていたのだが、どうやら私の見込み違いだったらしい。
慌てて車を路肩に止め、ハザードランプを点ける。
すぐさま運転席から出てゆきくんのもとに駆け寄ると、足音に気づいたゆきくんが青白い顔で振り返った。

「帯刀さん」
「っ…君は馬鹿なの?こんな寒い日に濡れたまま外にいるなんて…!とにかく、早く車に乗りなさい。私の家に行くよ」

思わず口調がきつくなり、一度咳払いをした。
今怒ったところでこのままでは風邪を引いてしまうし、身体が丈夫ではない彼女のことだからもっと悪化する恐れもある。
怒るのも、頼みを聞くのも、ゆきくんを部屋に連れて行って身体を温めてからだ。
それまでに少しでも身体を温めなくてはとスーツの上着を脱いでゆきくんの肩に掛けてやれば、彼女の膝の上に何やら白く丸いものが見えた。

「……それは?」

ものすごく見覚えのある物体だ。
物体もそうだが、光景にも見覚えがある。

「あの、…助けて欲しいのは、これなんです……」

ゆきくんの手がそれを撫でると、白い物体は「みぃ」と小さな声を上げた。
どう見ても子猫だ。それも薄汚れたみすぼらしい毛並みの、白猫。

「公園のブランコの横にダンボールが置いてあって、そこにこの子が入っていたんです。雨も酷くて、放っておけなくて」
「…それで、これを私にどうして欲しいの?」
「私のお家に連れて帰って、里親を探してあげたいんですけど……この前、子犬を拾って帰って瞬兄に怒られたばかりなんです」

なるほど、と読めてきた展開に私は軽くこめかみを押した。
助けて欲しいのは彼女自身ではなく、彼女の膝を占拠している白い塊なのだ。

「帯刀さんしかもう頼れないんです。だめですか?」

潤んだ瞳で見上げられ、男心を擽る言葉を無意識に言われてしまえば、陥落するより他に手立てはない。
幸い私のマンションはペット可の分譲マンションだし、とりあえず連れ帰ることくらいは可能だ。
それにここで押し問答をしている場合ではない。
早くゆきくんの身体を温めてあげなければ、本当に風邪を引いてしまう。

「とにかく、うちへ来なさい。子猫も君も風邪を引かせるわけにはいかないからね」

手を差し伸べると、ゆきくんはぱあっと笑ってそっと手を重ねてきた。
私の手の温度よりずっと低い指先は、カタカタと寒さに震えている。
もう片方の手でしっかりと子猫を抱いているが、その手もきっと氷のような冷たさだろう。
握った手を引き寄せてそこにキスをする。
唇のぬくもりが少しでもゆきくんに移ればいい、そう思って顔を寄せて頬にも口付けた。

「車に乗って。中にタオルが入っているから、身体を拭きなさい」
「私なら大丈夫です。それより、子猫を拭いてあげてもいいですか?タオルは今度新しいのを買ってお返ししますから」

だめと言ったところで、ゆきくんは猫を優先するのだろう。
昔からそういう部分は頑固だから、譲らないに違いない。

「それに、私ならちょっとあったかくなったので大丈夫です。だって帯刀さんの手、とっても暖かいもの」

ふふ、とはにかんで笑うゆきくんの頬は、確かに先程より赤味が増している。
丁度口付けた場所からじんわりと滲むように朱色になっていた。

「……っ。全く、君は…」

この娘ほど私を上手に使う子はいないだろう。
赤くなった顔を隠しながら車に戻り、暖房をつけて家路を急いだ。
濡れた寒さは変わらなくても暖かい場所にいるからか、横目でちらりと窺ったゆきくんの震えは止まっていて、それにほっとする。

多少ながら速度をオーバーして走った結果、いつもの倍くらいは早く着いた我が家に駆け込み、浴槽に熱めのお湯を落とし始めた。
タオルに包まった子猫は毛足が短いのが幸いしてかあまり濡れておらず、更にもう一枚タオルを追加して湯を入れたペットボトルとともに覆ってやると気持ちよさそうにして目を瞑った。
捨てられてすぐだったのだろう、衰弱した様子もない。
ゆきくんが身体を張って雨に濡れるのも最低限に防いでいたのだろう、ぐるぐると喉を鳴らして寝ているのだから暢気なものだ。
ゆきくんはといえば、タオルで身体を拭きながらそんな子猫の様子を愛しげに眺めていて、その嬉しそうな表情に背負い込んだ面倒事も悪いものではないなとそんな風に思う。
どうやら現金なのは猫だけではないらしい。
私もゆきくんも同じだ。

そうこうしているうちに湯が溜まったという合図が鳴り、猫と一緒に風呂に入りたがるゆきくんを嗜めて一人風呂に向かわせた。
私でさえ一緒に湯を使ったことなどないというのに、猫に先を越されてはたまらない。
我ながら何とも情けない嫉妬だとは思うが、あの娘相手にはここまでしたとしても恐らく私の意図は伝わらないだろう。
その鈍感さが愛らしくもあり、憎らしくもある。
これは元の世界にいたときから変わらないことだ。

「さてと……着替えの上は私のシャツでいいとして、下は残念だけど寸法が合いそうもないな…」

気持ちを切り替えてクローゼットから生地の厚いシャツを取り出し、宙に翳す。
身長差があるとはいえ、この丈では流石に太ももくらいまでしか隠れない。
しかし私が持っているものではゆきくんの細い腰に引っ掛かっていられそうなものがなく、寝間着でさえすとんと足元に落ちてしまうだろう。
こんなことならばゆきくん用に何着か買い置きをしておくべきだったなと内心舌打ちをした。

「服が乾くまでは我慢してもらうしかない、か」

制服のスカートを洗濯機で洗うわけにもいかず、暖房の近くに吊るすだけとなっている。
既に夕方の今、乾いたとしても深夜になるのは間違いない。

「……瞬に連絡すべきか、親御さんに連絡すべきか…」

結婚を前提に付き合いをさせてもらっているとはいえ、連絡するのはやはりどことなく気まずい。
しかし大事な一人娘を預かる以上、黙っているわけにはいかなかった。
連絡を入れるのは良識ある大人として当然の行為だ。
会社用の携帯電話ではない、自分用のスマートフォンを手にすると、私は電話帳から蓮水の名を呼び出して耳に押し当てた。



「帯刀さん、お風呂お借りしました」

電話から十数分後、そんな声が聞こえて私は猫から目を離した。
途端、飛び込んできた光景にしばし言葉を失ってしまう。
湯上りの何とも艶めいた濡れ髪に、桃色にほんのりと上気した肌、そしてそれを覆う私のシャツ。
何ともそそられる光景だ。

「あ、あまり見ないでくださいっ」

ぼうっと見蕩れてしまった私の視線に、ゆきくんは恥ずかしそうにシャツの裾を引っ張った。
しかしストレッチ素材でもないシャツが伸びるはずもなく、白いふとももが惜しげもなく晒されている。
肌を知らぬ仲ではないとはいえ、刺激的な姿だ。

「だめ。猫を助けてあげたのだから、このくらいの役得はあってもいいでしょ」
「でも、この子の面倒を見てあげないと…おなかもすいているかもしれないし、私、ミルクを買いに…っ」
「あのね、ゆきくん。ぐっすり眠っている子を起こしてまでミルクを与える必要はないよ」
「じゃあお風呂に、」
「寝ているのだから放っておきなさい。寒ければ暖かい場所へ行くし、腹が減れば鳴いて訴えるものだよ、猫なんて」

ソファから立ち上がり、未だシャツの裾をぐいぐいと引き下ろしているゆきくんの正面に立つ。
困ったような、けれど拒めないという表情は、私を知るまではしたことのないものだろう。
たっぷりと潤んだ瞳や、ともすれば媚びているようにも見える下がった眉、羞恥に色づいた頬、少し尖った瑞々しい唇は私を誘うためだとしか思えなかった。

「そう、そんなに嫌なら、猫を放り出してしまおうかな」
「帯刀さん、意地悪です」
「君がつれないことばかり言うからだよ。仕事を放り出して駆けつけた私より、猫の方がいい?」

身を屈め、唇が触れる寸前まで顔を近付ける。
さらりと滑った私の前髪がゆきくんの頬を擽り、撫でていく。

「帯刀さんと猫を比べたことなんてありません」
「ん、いい子だね。なら私の願いを叶えてくれる?」
「……っ」

そっと頬に触れれば、ゆきくんは耳まで真っ赤にしてぎゅっと目を瞑った。
シャツから手を離し、私の肩におずおずと乗せると、丸くてすべすべとしている踵が持ち上がる。
ちゅ、と子供の戯れのような口付けは、ほんの一瞬。
いつまで経っても初心なゆきくんの精一杯に、私は彼女の膝裏をさらって抱きかかえた。

「きゃっ」
「ねぇ、ゆきくん。あの猫、ここで飼ってもいいと言ったら君はどうする?」

そのまま寝室へと足を向ければ、ゆきくんがじたばたと手足をばたつかせた。
とはいえその程度の抵抗で男の力に敵うはずもない。
本気の抵抗でないことも、ちゃんと分かっている。

「お、おろして、帯刀さん!」
「だめ。ちゃんと質問に答えるまでおろしてあげないよ」
「でもっ、あっ、そんな」

暴れているせいでシャツの裾が捲りあがり、ゆきくんの下着が露わになる。
ゆきくんの頬の桃色が移ったような色の下着は、可憐な彼女にとてもよく似合っていた。
もっと大人びた下着なら、この白い肌をさぞや美しく彩るだろう―――そしてそれを脱がすときのことを思うと、ざわりと胸が騒ぐ。
なるほど、服や下着を贈るのはそれを脱がしたいという下心の表れとはよく言ったものだ。
京で花々に召し物を贈ったときは社交辞令でしかなく脱がせたいなどと思わなかったが、相手がゆきくんともなれば話は別らしい。
淡い色の下着がよく似合う、年若い少女。
そんな少女に入れ揚げている自分は、端から見れば滑稽なことだろう。

「ほら、答えてゆきくん。あの猫、捨ててしまっていいの?それとも飼って欲しい?」

それでも私はこの少女が、ゆきくんが、愛しくてたまらない。
心優しい彼女が他の誰にでも見せる笑顔も愛しいが、それよりも彼女が私だけに見せる表情が見たくてどうしようもないのだ。
そっと顔を近付けて耳元で囁く。
出来るだけ甘く、出来るだけ低く。
ゆきくんの身体の奥に熱を灯すような声を、意図的に使った。

「答えなさい。ゆきくん」
「っ…か、ってくれるんですか…?」

ぴくんと肩を跳ね上げた後、抵抗がぴたりと止まる。

「君がそう望むのならね。でもその分の見返りはいただくよ」
「見返り……?」
「そう。見返り。私が欲しいものが何なのかは自分で考えて。それが条件だよ」

寝室のドアの前でゆきくんを下ろす。
その先どうするかはゆきくんの考え一つだ。
ここでもし彼女が踵を返して逃げていったとしても私は別に構わない。
見返りが例えばコーヒー一杯であったとしてもいいと思っている。
一番見たいのはこの場面でゆきくんがどう出るかであり、結果はどうでもいいのだ。
既に一番欲しい見返りが手に入るのは確定しているのだから。

「……」

ゆきくんはドアと私を交互に見た後、真っ赤になって俯いて、そろりとドアノブに指を伸ばした。
ほっそりとした指が鼓動に震えるようにしてドアを開く。
次いで、その指が私のシャツの袖を掴み―――くん、と引かれる。

「帯刀さん…」

上向いたゆきくんの表情は少女と大人の女性とのあわいの絶妙なバランスを保っていた。
匂い立つような美しい花が私の前で艶やかに花弁を広げ、誘っている。
青い双眸は、羞恥と欲にしっとりと濡れていた。



ベッドの中で熱く甘い一時を過ごした後、もう一度と強請ろうとした私を差し置いて、ゆきくんはにゃあにゃあと鳴き声を上げる猫のもとへと行ってしまった。
ぽつんと一人残されて、溜息をつく。
若くはないのだから三度も四度もとは言わないが、久しぶりに会ったのだから二度くらいはと思っていたというのに。

「本当、つれない子だ」

仕方なく下着に足を通し、シャツを羽織る。
猫を餌にゆきくんを釣ったのは私だから、あまり不平は言うべきではないだろう。

「ゆきくん」
「あ、帯刀さん。この子おなかがすいたみたいなんです。子猫用のミルクを買いに行かなくちゃ…」
「そのついでに必要なものを買い揃えなくてはね。早く行かないと店が閉まってしまうな」
「大変!私、すぐに着替えますね!」
「その格好は私だけが見られるものだから着替えてくれると助かるけれど、残念なことにまだ乾いてないよ」
「っ!!」

私のシャツを羽織っただけの格好は目の保養に丁度よかったけれど、濡れたスカートはまだ生乾きで、それをはかせるわけにはいかなかった。

「私が買ってくるから、君はそのまま待っていて。その間にこの子の名前を考えておくといい」
「ありがとうございます」

ほわ、と嬉しそうに笑うゆきくんに、キスを一つ。
軽く啄ばむだけにとどめて、わざとあっさりと身を引いた。
ここから先、何気ない態度を取ることが肝要になってくる。

「ああそうだ、言い忘れていたのだけど」

着替えるために寝室に戻ろうとして立ち止まる。
くるりと振り返るとゆきくんは子猫を抱いてあやそうとしているところだった。

「私は仕事で遅くなる日が多いから、餌をあげに来てくれる?毎日とは言わないけど」
「え?…でも、私、お部屋の鍵を持っていませんし…勝手に入るなんて帯刀さんに悪いです」
「スペアキーなら出るついでに作ってくるし、私がお願いしているのだから勝手にではないでしょ。他に問題はある?」
「……ええと…」

困ったように首を傾げるゆきくんに、私はふっと目を細めて出来るだけ優しく笑いかけた。

「子猫がおなかをすかせて私の帰りをじっと待っている…なんて、かわいそうでしょ」

こくり、と頷く。素直な仕草に私も頷いた。

「だから、ゆきくんも協力して。子猫のためにね」
「はい、わかりました。私で出来ることなら、やらせてください」
「ありがとう、そう言ってくれると助かるよ」

確約された「一番の見返り」に、私は内心にんまりと笑う。
勿論表立った顔は普通の紳士的な笑顔だが、龍馬辺りが見ていたのなら「だまされるなお嬢!」と叫んだことだろう。
これからは早く家に帰ればゆきくんがいる―――ゆきくんのことだから、私が少し待っていてと言えば帰るまで待っていてくれるはずだ。
毎日とは言わない。
週に一度でも構わない。
今はまだ御飯事かもしれないけれど、家に帰れば愛しい人がお帰りなさいと笑顔で迎え入れてくれると思うとらしくなく胸が弾んだ。
ずっと仕事で会えない日々がずっと続いていたのだ、これくらいの役得は許してもらおう。

(ゆきくんが成人するまではあと数年あることだしね)

婚約者の立場も悪くないが、早くゆきくんを私の妻にしたい。
そのためにもこの部屋に早く慣れてもらわなくては。

(ちょっと過ぎる見返りだったかな)

行ってくるよと口付けた私の笑顔の意味にゆきくんは気がつかない。
にゃあと鳴く子猫の頭を撫でて、私は上機嫌でペットショップへと向かうのだった。


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