01 苦い珈琲にも似た、|絢人
カラン、と来客を知らせるベルが音を立て、見知った影がするりと店内に入ってきた。
カウンターのいつもの席でいつもの珈琲を啜っていた絢人は顔を上げると優雅な仕草で白磁の珈琲カップをソーサーに戻す。
待ち合わせをしたわけでもなく、約束があったわけでもない。
それでもこの店に来るということは何か情報が欲しいか、依頼を引き受けたいということだ。

どちらかを見定めるまでもなく千馗の視線は真っ直ぐに絢人を貫いている。
用があるのはこの店のマスターではなく絢人。
つまりは情報を求めているということだ。
絢人は整った顔に微笑を浮かべて千馗を隣へと招いた。

「マスター、俺にも珈琲一つ」

千馗のオーダーに澁川は「ああ」と頷いた。
一見すると怖い風貌をしている澁川だが、千馗にはほんの少し柔らかな表情を見せる。
千馗の足元にちょこんと座る犬、カナエさんも千馗には懐いているようだ。
頭の中の情報を少しだけ書き換え、絢人は冷めかけた珈琲を一息に飲み下し、「僕ももう一杯お願いするよ」と新しい珈琲をオーダーした。

「それで、今日はどういう用件かな?情報ならそれなりの対価を要求するよ」
「一発でいいなら殴るけど?」
「残念だが僕が求めているのは美しい人の一発であって、君の一発じゃない」
「じゃあ我慢してもらうしかないかな。その代わり珈琲は奢るよ」

二杯分、と付け足して、千馗は少し疲れた顔を見せた。
連日春の洞と秋の洞を探索し、札を集めているのだからそれも仕方のないことだ。
同行している絢人も流石に疲れが溜まっていたが、誰よりも前線に立って人ならざるものと戦う千馗に比べれば、どちらかというとバックアップに向いている絢人の方が疲労が少ないのは当然だった。

千馗についていけば絢人が望む情報も手に入る。
この世の中で一体何が起こっているのか、世界がどうなろうとしているのか…裏の裏で確実に変わっていることをこの目で見ることが出来る。
それは大きなメリットではあったが、それ以上に千馗の力になりたいと思い出したのはいつからだったか。
奪われた札を取り返した日、その札を何の打算もなしに差し出されたときから、絢人の世界は少しだけ変化を見せた。
恐らく、それからだ。

「仕方がない、今回は特別だ。どんな情報が欲しいんだい?」

本当ならば断っている。
女性にぶたれない限りは情報を渡すことなどなかった絢人だが、千馗だけは特別になってしまっていた。
それを悟られないように軽い口調でそう言えば、千馗はほっとしたように口許を緩ませる。
抱く罪悪感に似た気持ちがそれで押し流されてしまうことは、果たしていいのか悪いのか―――絢人は見て見ぬふりをした。

「雉明のことなんだけど…」

雉明零。
絢人は僅かに眉を寄せ、その名前を口の中で転がした。
封札師として絢人にはない特別な力を持っていながら、千馗と道を分かちどこかへと行ってしまったのだと千馗に聞いている。
行方を調べて欲しいと以前から千馗に頼まれていたのもあり、絢人は密かに零のことを調べていた。

しかし、調べても千馗が望んでいるような情報は出てこなかった。
どこか浮世離れしたような掴み所のない性格のせいか、誰も零のことを詳しく知らないのだ。
どこかで見たという情報もない。
ただ札に纏わる秘密を抱えていることから洞には現れるだろうと予測が出来るくらいだ。

見つからなければいい。
そう思うのは情報屋としては最低だ。
だがそれでも、香ノ巣絢人としては充分に許容出来る希望だった。

「有益な情報は手に入っていないよ。余程上手く立ち回っているのか、あるいは後ろに何か大きな力がついているのか…これは推測にしか過ぎないけどね」
「そっか…」
「何か分かったらすぐに知らせると約束する。千馗くん、他ならぬ君の頼みだから」

ことん、と目の前に置かれた珈琲には目もくれず、絢人はじっと千馗を見つめた。
突然現れ、突然絢人の心の中に居場所を作ってしまったこの男は、絢人だけでなく誰の心の中にも同じように居ついてしまっているに違いない。
恐らくは雉明零の心にも。

「ありがと。こんなこと頼めるの、絢人だけだからさ」

そして上手に刷り込んでいくのだ。
無意識に繋ぎ止めるような言葉を。
何の他意もない柔らかな笑顔とともに。

「そこまで言われてしまっては、期待には応えないわけにはいかないな―――」

翳りを帯びる双眸に、千馗は気づかない。
醜いものを見たくないと言わんばかりに絢人は仄暗い目を湯気の立つ珈琲に落として口の端を上げた。


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