幽霊というものは、と男が切り出す。ここはとある街の酒場で男はカウンターに頬杖をついている。先ほどの言葉は隣に座る女に投げかけられたもので、二人ともこの酒場に似合わず高級そうなドレスやスーツを身に纏っている。その服も現代よりかは少し古めのデザインで、一層その酒場に似つかわしくない物であったが、他の客は自分たちの話や料理に夢中で二人を気にする者は居なかった。さらに男は続ける。
「そこに居る。という、ある意味精神が物質を超越した観測者が見るものだと思うんだ。」
「つまりは、そこに幽霊がいるという思い込みで見えている。ということ?」
女はドレスの裾が床につくのを気遣いながら男に返答する。「そうだとしても。」女は続けた。それに気を悪くするわけでもなく女の話を聞いていた。
「”あそこに幽霊がいる。”って言い出す人間がいたら、その場に居る者全員に幽霊が見えてしまうことになるわね。」
「いや、そうなる場合は無いだろうね。なぜならそれを言った人間の他に超越した精神を持つ者がいないからさ。」
男の前のカウンターテーブルには何も置かれていない。注文したばかりなのか、食べ終え、もしくは、飲み終えたばかりなのかは酒場の店員と二人以外知る者はいない。
「と、言うと、それを言い出した人間のある種の思い込みということなの?」
「僕も使ってしまったが”思い込み”、この言葉が正しいかどうかは正直僕もそれが分からない。観測者がいるということで、その幽霊は存在している。と、僕は思うんだ。」
男の言葉に、女は少しの間、考えてから口を開いた。
「やっぱりそうなると、その幽霊は存在を現す事になるから、全員に見えてしまうんじゃないかと思うわね。でも、それっておかしいわ。だって、私にも霊感がある。と自称するお友達が”あそこに幽霊が見える”って言われても私には全く見えなかったもの。」
「その時、君はその言動を100%信じたかい?そうであれば、君にも何らかしらの物質が観測できたんじゃないかな?」
「何だか納得いかないわ!」
大声で女は立ち上がったが、酒場はその前から客の笑い声や怒鳴り声で賑わっていたので、女を気に留める者は誰一人として居なかった。
「だって、例えばあそこに酒瓶が転がっているけれど、そこに落ちているということを信じなくてもその酒瓶はみんなにはに見えるはずよ。」
「それはちょっと論点がずれているよ、僕はあくまで”幽霊”というあやふやな存在を取り上げて話している。でも酒瓶が転がっていることに酔った連中は観測しているかな?もしかしたら僕達だけに見えているのかもしれないね?」
「酒瓶の幽霊みたいでちょっとシュールで面白いわ。」
女は機嫌を良くしたのか口元を綻ばす。男も笑って続けた。
「いるかもしれないし、いないかもしれない。”いる”と思った観測者の精神があればその存在は確かなものだ。だけど”いない”と思う精神をもつ観測者にはそれは絶対に見えない。」
「少しこんがらがってきたわ、ここは少し騒がしいし、場所を変えてじっくり論議したいわ。ミスター?」
「それもそうだ。この近くに喫茶店があるんだ。そこはどうかな?レディ。」
そうするわ。と女が同意して席を立つ、二人はそのまま店を出て何処かへ去ってしまった。


『おい、マスター!さっきのカウンターにいたカップルの奴ら金を払わず出て行ったぞ』
『いえ、お客様。カウンターにはずっと誰もおりませんでしたよ?』
あの二人は幽霊だったのか。寄った男が物質を超越する精神を持ち合わせていたのか。その答えは、観測者ではなかった二人だけが知っている。
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