目がおかしいと感じたのは、起きぬけのことであった。見るもの全ての色が逆転つまりは補色になっている状態で、私はひどく動揺してすぐに眼科にへ向かう準備をする。色が逆転して見えるということはとても厄介で煩わしい事この上ない。いつも見ている風景がまるで何かの呪いがかかったかのような色をしている。でも、もしかしたら、仮定の話であるが今まで見ていた風景は実は偽物の色をしていて今見ている色が本当の色なのではないだろうか、例えば黄金の塊があったとして、自分が認識しているものと、他人が認識している色は違うかもしれない。自分には黄金に見えるそれは他人が見ればアメジストの輝きをしているかもしれない。されど自分と他者は生まれたときから今までそれを黄金の色であると認識しているのだから会話も成り立つし、何の誤解も生まれない。赤黒い空を見つめながらふとそんな事を思った。実は、色という物は十人十色、全く別々の色をしているのか。そういえば、哲学書でそんな話もあったかもしれない。作者の名前までは忘れてしまったが。だが急に今まで見ていた色が逆転してしまえば生活に支障がでる。何とか上司に連絡を取り(それも一苦労であった)、事情を説明するとすぐに休暇の許可を貰えることができた。車を運転するのは危険を伴うので徒歩で向かうことにしたが、かかりつけの眼科までの距離は多少長く、ましてや今の私にはいつもより長く感じた。眼科に着いて医者に診て貰ったが前例がなく、恐らくストレスによる一時的なものではないかと、全く苦労の甲斐もありはしない回答を出された、大した薬を処方されることもなく、貰ったのは精神安定剤である。確かに日頃多忙であったことには変わりはないが、それでも今の自分の環境は学生時代と比べれば計り知れないほど静かで平和な日々であった。ますます原因が分からない。吐き気と頭痛がしてきたのでとりあえずフラフラと自宅へ戻り床につく、もう一回寝れば元に戻るかもしれない。そんな淡い期待をして目を瞑る。なかなか寝付けずにはいたが目は閉じたままにしておいた。見たくなければ見なければいい。ああ、今であれば恋人の持ってくる真っ赤な薔薇が奇跡の青い薔薇に見えるのだろう。どうせなら本当に奇跡でもおこしてもらってこの状態から抜け出したい。そんな事を考えているうちに眠りについた。夢こそ見なかったものの起き抜けに驚いたのは今度は全ての風景が一変してセピア色に見えたことである。補色の先程と比べれば大分マシになった方ではあるが異常であることに変わりはない。淡く、古ぼけて見えるその世界は、祖母が昔に撮った写真のようで、何だか見たこともない懐かしくもあった。もしかしたら、これも今朝の仮定の話ではあるが、あのころの写真こそが真実の世界の色を写しだしていたのかもしれない。ああ、いつだってこの世の真実というものはひどく曖昧で偽りに満ちている。それを今、身を持って思い知らされていた。起床したばかりだからだろうか、喉が渇いて冷蔵庫に冷やしておいた水出しの麦茶を手にする。ああ、この色は今までの自分が見てきた色と大差ないなと少し安堵した。一気に冷えた麦茶を飲み干すといくらかスッキリとして頭が冴えてきた。これならば書類作成の業務くらいは出来るかもしれない、休暇こそとったものの、その分のしっぺ返しが後で来るのが怖い。また、自他ともに認める根っからのワーカーホリックな自分を少し自嘲気味に笑う。本日の粗方の書類作成の業務を終えたのは深夜の事だった。流石に本当の眠気が襲ってきて畳まずに置いておいた布団にもぐる。さあ、次はどんな真実の世界を私の目は映すのだろう。できればそれはとても美しくあってほしいと、私は願った。

いつだって世界は美しく、その美しさに偽りを隠している。
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