安部公房氏の笑う月という本の中で睡眠導入術なるものがあったので今日日寝不足が続いている私は早速自己流ながら試してみることにした。まず私が思い浮かべたのは広く地平線が見渡せるほどの草原で私はそこを歩いている。なるべく咲いている花を踏まないように細心の注意をはらいながら。そこで私は一人の青年を登場させた。スラリと背が高く目鼻立ちの整った青年。私がかつて愛した人物であったことは少々私の女々しさの現れかもしれない。談笑する訳でもなく彼の背中を追う。その先にあったのは古い水車であった。古いながらもそれは機能していてぐるぐるぐると水を運びながら回っている。いつの間にか想い人は居なくなっていて、その水車を眺めているうちに眠りについた。朝目覚めた時、これは良い催眠導入術を思いついたものだと自画自賛し、電車で仕事へ向かう途中もこれを誰かに話してみたくて仕方なく、誰か同僚が乗ってこないものかと開閉するドアを眺める。残念なことに誰とも会うことがなかったので、また私は夕べの水車がなぜに私を睡眠へと誘ったのか、考察してみることにした。ここで水車だけを取り上げたのは、草原での彼との逢瀬は何の役にも立たなかったと自己解決したかったのだろう。さて、水車の話に戻そう。水車というものは水の流れが止まらない限りは永遠と回り続けるものであり、それはよく耳にする永遠と眠りにつくまで羊を数えるという方法と少し似ているのではないだろうか、すなわち永遠と何かを見続けるという方法が私には向いているのかもしれない。電車の席に座りながらそんな事を考えているうちに私はうつらうつらと眠りこけてしまった。その時、夢で見たのはあの水車だ。しかしその姿は夕べと違い、半透明の色をしている。なぜだろうと考えているうちに下車しなければならない駅のアナウンスが聞こえはっと目が覚める。結局、誰にもこの睡眠導入術を教えなかったのは、なんとなくあの水車が人に話されるのを嫌がり半透明となって私の前から姿を消そうとしていたのではないかと考察したからだ。その夜は草原を思い浮かべることなく、いきなり水車を思い浮かべた。昨日は気がつかなかったが水車の裏側には小屋があり水車の動力を利用して何か作業を行なっているようだ。これがもし永遠と何かを繰り返す作業を眺めることになった際にはまた私は深い眠りへつける。そんな期待をして小屋の引き戸(これが湿気ていてなかなか開かなかった)を開けるそこに映ったのは淡々とうつぶせになった人間をぶつ切りにする光景で、私は吐き気を催し、深夜に目が覚めた。あの水車は何のためにあのような作業を続けていたのか、私はもうそのあとから水車を思い浮かべるのはやめることにした。その代わりと言ってはなんだが、最初の様に草原をただひたすら永遠と歩く。そこには彼の姿はない。なぜなら彼は今頃あの水車小屋でぶつ切りにされているだろうから。その姿を、私は確かにこの目で見たのである。それならば水車が他人に知られたくない意味も通るというものだ。草原の花をブチブチと私が摘む姿はどことなくそれに似ている。
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