幼い頃、私は人が夢を見ているときは意識のみ別の空間に存在し、他人もその空間を、現実世界と同じ様に共有しているものと考えていた。なのでよく、朝、目が覚めると「さっきの赤い折り鶴は結局、燃やされてしまったの?」とか「やっぱり四角い車輪の乳母車は使いにくいと思うの。」と夢のなかで会った(この言い方には語弊があるが)人にさも彼らが知っているという前提で夢の内容を話題としたものだ。大抵の人間は頭にクエスチヨンマークを浮かべ、怪訝そうな顔をする。だが唯一、母とセンセイだけは私の夢の内容を穏やかに微笑んで聞いてくれた。センセイというのは夢を見るというメカニズムを私に教えてくれた人だ。夢は記憶を整理するために脳が見せている映像なのだという。その日までに実際に見たもの、頭の中で空想したもの、そういった情報を再生し、必要なものとそうでないものにわけているらしい。それを知ったときの私といったらそれはもう、衝撃と羞恥で頭がいっぱいになった。今までとんだ勘違いをしていたものだ。周りの人はさぞかし私をおかしな子供だと思っただろう。だがそこで今になって気にかかっているのが、記憶を整理した上でどうでもいい夢の内容を一部ではあるが、覚えているのはどういうことなのか。燃やされそうな沢山の赤い折り鶴、押して進まぬ四角い車輪の乳母車、ああ、他にもある。延々と木馬を潰していく工場や、坂道を後ろ向きに歩く老婆、行列をなして進む手の生えた魚。これは私にとって必要な情報なのだろうか。センセイに聞かねばなるまい。ところで、父は何処に出掛けているのだろうか。なんだ、なんだ、肝心な記憶が消えてしまっている。とんだ情報処理デヴァイスである。


今日は一年に一度、母が得意の生け花で花瓶に花を飾る日だ。毎年同じ花なのはきっとあの花が母は大好きなのだ。これは記憶しておかなければ。
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