今となっては、過去の話。私がまだ母親の身長を追い抜くかどうかの少年時代の話である。当時は自宅付近はまだ道路も整備されていない、言うなれば田舎であった。学校から帰ってきては近くの雑木林を探索しながら山菜やらあけびや木イチゴなどをおやつする。その日もいつものように雑木林に入って何か実ってはいないものかと捜したが、どうもその日は鼻が利かなくて、ヤマブドウの一粒さえ見つけることが出来ずにいた。母親にはあまり雑木林の深い所まで行かないようにと口を酸っぱくして言われていたが、何の成果もあげられずにとんぼ返りをするのもなんだったので、いつものコースとは外れた草むらへと足を進めたのである。途中、虻やら蚊に手足を刺されてむず痒かったが、いつもとは見慣れない風景に幾分興奮していたのだろう、お構いなしに草の根を分けてたどり着いたのが、樹齢千年はとうに超えているであろう大木があった。私はそれまでこんなに大きな木は見たことが無かったので、呆気にとられつつ下から見上げた。大木はまだまだ健康らしく表面からは樹液があふれ出ている。カブトムシやクワガタも何匹か見つけたが、生憎、虫かごは家に置いてきてしまったので捕まえることは諦めた。しばらく樹液に集まった珍しい昆虫達を眺めていると、ガサゴソガサゴソ、と周囲の草むらから大量の何かが集まってくるようなそんな気配と音が聞こえ始め、私は恐怖と若干の好奇心で音のしない方向の草むらに息を殺してじっと何が来るのか待った。日が沈んでしまったのでよくは見えなかったが、月明かりに照らされていたのは、青黒い肌をした赤子の群れで這いずりながらも何処にそんな力があるのか、例の大樹に登り一斉に樹液を吸い始めた。奇妙なその光景に、それらを見てはいけないような背徳感と、正体を暴きたいという好奇心が混ざり合って、私はその場にとどまっていた。青黒い赤子たちは蜜を吸い終えたのかそのままじっと動かないで大木にしがみついたままだ。その光景はまるで大木が一回り大きくなって青黒く光っている様にさえ見えた。そして一瞬のこと。大樹が大きく振動し始め木の根元から蔓がぐるぐると赤子たちごと巻き込みあっという間に大木の一部にしてしまった。青黒かった赤子の肌は巻き付いた蔓の影響なのか茶色く変色し木肌そのものに変わり果ててしまった。一回り大きく成長した大木はもう一度だけ大きく振動すると、それっきり何事もなかったかのように、また樹液を滴らせ始めた。夜行性の虫達がその匂いに釣られてやってくる。私には、あの蜜が大樹から染み出た物なのか、赤子の体液なのか、今になっても答えが出せずにいる。青黒い赤子の正体は、次の春になって分かった。例の大樹に赤子が鈴なりに実っていて、ぼとぼとと、落っこちては草むらの奥に消えていった。また夏が終わる頃にこの大樹の一部となりに戻ってくるのであろう。なんて事はない、普通の人間だって里帰りし、離れていた家族の一部となってしばらく暮らし、また普段の生活に戻るのだ。つまりはそういうこと。ごくごくありきたりな話なのである。ああ、ちなみにその赤子、踏みつけると膿のような臭い液体をまき散らせて潰れるから、お勧めしないでおく。
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