その老人は決まって、駅前の大きなディスプレイ型の電光掲示板の前に腰掛けている。どこが奇妙なのかと言うと、眼球のあるべき部分にバナナが突き刺さっていて、そこからは血が流れるわけでもなく、まるで、生まれつきこのままだと言うようにさえ見えた。周りの人間は気味悪がって、ヒソヒソと、彼のことを話しながら通り過ぎていく。確信はないが、私だけが、彼の唯一の話し相手であったと思う。彼はとても物知りな人物で、私に色々なことを教えてくれた。中でも論理学や哲学の話が好きだった。大学からの帰り道、二日ぶりに老人と出会った。彼は大体、三日に一度位の周期で駅前に現れる。いつものように軽い挨拶を交わすと、私は老人の座っているヘリに腰を下ろす。今日も相変わらず眼球の部分にはバナナが突き刺さっている。以前、なぜ、バナナを突き刺しているのかと尋ねたことがあった。そうすると老人は「見たくないものを見ないようにするためだよ。」と答えた。では、見たいものがあったらどうするのか聞いたとき、老人は少し間を置いてから、「こうなってからは、一度も何かを見たいと思ったことはない」と返されたので。それは何も見えなくなったから、視界というものに、興味が無くなったからではないか。そう思ったが、それは心の中に閉まっておいた。なんとなくこの疑問が、彼にとって大変失礼の様な気がしたからだ。さて、話は現在に戻る。私は、今日学んだ、狂人のパラドクスについて老人と論議することになった。狂人のパラドクスというのは、ある犯罪を犯した人間が罪から逃れようと精神障害者であるふりをする。警察はもちろん、疑ってかかって、長期にわたってその犯人の鑑定を続けるのだが、一向に犯人は狂人であるふりをやめない。そのうち何年もその状態になり、鑑定士の方も”これだけ長く狂人のふりを続けられるのは正気の沙汰ではない”と犯人を狂人と認めざるを得なくなってしまう。という話だ。老人はその話を知っていて、私にこう尋ねた「君はこのパラドクスについてどう思うかね、私はその気になれば何年だって狂人のフリができると考える。問題はその後さ、無罪放免、犯人にとってしてやったりとなった結果、犯人が普通の人格者に戻れるかどうかだよ。普通の人間に戻ってしまえば、それは、本当に残念な事だが、犯人の演技だった事になる。だが、否であった場合犯人は元々本当に狂人としての素質を持っていたんじゃないかと思うんだよ。」どちらにせよ残念な結果だ。老人は風でバナナが揺れるのを押さえながら、私の反応を待っている。私はどうにも犯人のその後を論議したところで、パラドクスの話とは違うベクトルのように思えたので、黙り込んで言葉を選んでいた。その空気を察したのか、老人は「論点がずれてしまったかな?私はこのパラドクスが昔から気にかかっていただけだから、あまり考え込まなくてもいい。私は見たいものだけ見るし、話したいことだけ話す」でも今は見たいものなんてないんでしょう?と言ったら口元だけにこりと笑って「お嬢さんの花嫁姿は見て見たいと最近は思うのだよ。」と言ってくれた。そんな予定はないが、そのときはバナナでは無く薔薇の花を埋め込んで参列してほしい。と頼んだら。老人はまた笑って承諾してくれた。数年後、私は大学の同期の男性と結婚することになり、老人に招待状を手渡すととても喜び「必ず行くよ」とそのままその日はふらりと去ってゆく、何か用事でもあるのだろうかと、その後姿を見届けていると、赤信号になった横断歩道を老人は渡ろうとしていた。引き止める間もなく突っ込んできたトラックに老人は跳ね飛ばされ宙を舞う。バナナも両眼から飛び出し地面に落ちる。私が駆けつけたときには、老人は既に、絶命していて顔はトラックに引かれてぐしゃぐしゃになっている。次に私は地面に落ちたバナナを見る。半分に切られたバナナは切り口に両面テープが張ってあった。それを見た途端私は老人に対しての一切の興味を失ったのである。
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