兄は生きるのがうまくて下手だった。
新聞の見出しによく見知った名前が載るのはさほど違和感のないことで、それは兄がそういった人間であるからなのだけど、私はそれを見てコーヒーを飲むだけの余裕があった。ここに屋敷しもべ妖精はいない。私は自分でトーストを焼くし、コーヒーを淹れる。豆だって、自分の好きなものを買いに行く。買いに行ける。お金は自分で稼いだものがいくらかと、二番目の兄が残してくれたものが少し。二番目の兄が死んでしまったときのほうが私は悲しかったのだ。そう思いながら、新聞の、黒々と刷られた文字を眺める。
「シリウス・ブラック、脱獄」
こういったことが、得意だったものなと、私は埃を被って古臭くなったアルバムを捲るように思い返す。アルバムは本当に奥底にしまわれているのだけど、私はもう、好きなときにこれを引っ張り出し、眺めることができた。痛みはないのだ。母は私を呪って死んだ。そのことに傷ついていた心はすでに死んでいる。たぶん、兄が二人ともいなくなってしまった日に、母にかけられた呪いは解けたのだろう。いまとなってはローブよりもジーンズのほうが過ごしやすく、マグル製品のトースターを愛している。小さなアパートメントの一室は、大鍋と魔法薬のレシピ、電気製品が詰まっている。迎合だ。私には家族の中で唯一と言っていいほど、他者を迎合する能力があった。
新聞で兄の名前を見るのは二度目だった。驚きも色褪せていて当然だ。以前のほうが衝撃的だったし、嘘臭かった。親友を手にかけたなんて記事に比べれば、脱獄のほうが現実味がある。
「来ていませんよ」
ダンブルドアは苦く笑った。玄関先にローブ姿で現れた彼を部屋に一歩も入れないまま、愛想笑いの一つもない私を、困ったように見下ろしている。
「きみと話がしたいのじゃが」
穏やかな老人は、迷惑を柔らかな物腰で押し通そうとするので好きではないのだけれど、日刊預言者どころかマグル界のニュースまでが兄のことで騒いでいるので、きっとここに来るだろうとわかっていた。魔法省の、おかしな背広だかローブだかわからないものを着込んだ役人が顰め面で訪ねてくるよりはまだましだと思うことにして、私はかつての師を迎え入れるべく、一歩下がった。「靴はそこに」来客用のスリッパはなく、代わりに冬用のルームシューズを取り出した。くたびれたピンク色のポンポンは、思いの外老人によく似合った。
「脱獄って、やっぱり問題ですか?」
「夜中に寮のベッドを抜け出すのと同じ扱いをするわけにはいかんのぅ」
飾りを揺らすように歩きながら、ダンブルドアが言う。短い廊下だ。すぐにリビングに着いてしまう。積み重なった羊皮紙とルーズリーフの山たちをかき分け、彼が座れる椅子を開ける。
「気楽な一人暮らしに特化しているんです」
「そのようじゃの」
狭い部屋を見渡し、ダンブルドアは、口元を綻ばせた。「よい部屋じゃ」片付けるのに魔法を使わなくなってからしばらく経ち、部屋は荒れている。マグル式だとどうしても億劫になってしまうのだけれど、一度やめてしまえば杖を取り出して振る方が億劫に思えるのだから不思議だった。
コーヒー豆が切れていたので古い茶葉を引っ張り出すと、ダンブルドアは嬉しそうな顔をした。最新のトースターを楽しそうに弄っていた彼が、無邪気な少年のように瞳を輝かせる。
「なんと。突然お邪魔して、手土産も持っておらんとは、歳は取りたくないものじゃ」
「いいんですよ」
どうでも。食べようと楽しみに取っておきすぎて、湿気始めたクッキーを皿に出す。安いダイニングテーブルを挟んで向かい合う校長は、私が子どもだった時と何一つ変わっていないように見えた。むかし、遠く、教職員用のテーブルで話す彼を眺めていた頃、あの時にはまだ、隣に二番目の兄がいたことを思い出す。
「兄はここに来ないと思うのですけれど」
「さよう。観光がてら近況報告に立ち寄るわけにはいかないじゃろう」
適当に入れた紅茶を、老人はとてもおいしそうに飲む。
「けれどもやはり、万が一を考えんわけにいかないのじゃて。きみは彼の唯一の肉親であるし、よもやきみの住処を彼が知ることはないだろうが」
「その“万が一”とは、兄が私を脅して従わせるということですか? それとも、私が兄の共犯になるということですか?」
「ジネヴラ」
老人の声色には気がつかないふりをして、少し濃くなりすぎた紅茶を飲んだ。やっぱり渋くて、キッチンにミルクを取りに行く。
「私たち、仲が良くないんです。兄は私のことが嫌いだった」
三番目の子どもがスリザリンに組み分けられたとき、家族の中で唯一私を睨みつけたのが兄だったのだ。私は兄がいつも怖くて、というのも幼い頃から彼は乱暴だったし二番目の兄のように優しく私の手を引いてくれたりしたことがないからなのだけど、私は二番目の兄の背中に隠れた。そうしてその背後からそうっと顔を覗かせると、兄は、いつだって私達の方を向いていなかったのだ。そのことに二番目の兄がどれほど傷ついていたのかを知っている。二番目の兄は、兄のことがとても好きだった。
「たぶん、死んでも来ませんよ。自分の信念を曲げるくらいだったら喜んで死ぬ類の人間でしょう」
ダンブルドアは私を見ている。彼はとても優秀な開心術者であるので、きっと私の中身を洗いざらい調べたいのだろうけれど、こう見えて私も閉心術の心得はある。父や母から、そして優しい二番目の兄から隠れてマグルのことを調べるために、自然、身についていた。兄と同じく悪巧みを生きがいにしていた叔父が教えてくれたというのもある。
目の前に座る偉大な魔法使いよりも、紅茶とミルクに真剣に向き合う私に、彼が何を思ったのかはわからないけれど、ダンブルドアはふと、諦めるような、肩の力を抜くような様子で息を吐いた。「きみたち兄妹のことは、よく知っておる」本当かしら、と思って、本当だろうな、と思った。こうなる前、兄はダンブルドアのお気に入りの一人だっただろうから。声高に、何の後ろ暗さもなく、正義を叫ぶことのできる人間だった。家族は、特に母は兄のそんな性質を毛嫌いしていたし、兄がグリフィンドール寮に入った時には怒り狂ったものだが、ならば他にどんな寮に入れたのか、考えて欲しいと思う。あの人間が、あそこ以外でうまく生きていく術はなかったのではないかと私は疑っている。かつての兄に居場所があったことに、ほっとしてもいる。
「仕事は順調かの」
「おかげさまで」
仕事はふくろう通信を使った薬屋だ。客と顔を合わせるのが億劫でこういう形を取り始めたのだけれど、なかなかどうしてうまくいっている。最近では人狼のお得意さんも増えたため、日々脱狼薬調合に忙しい。
「そういえば、私の顧客が一人、脱狼薬の注文をキャンセルしてきたんですけれど、まさか先生が糸を引いていたとは」
わざとらしい嫌味に、ダンブルドアは穏やかに笑った。
「きみと同じくらい、薬学に精通している者が学校にはおるでな。彼が調合してくれる約束になっている。心配はいらんて」
「でしょうね」
リーマス・ルーピンは、兄がいなくなり、一番迷惑を被ったうちの一人だっただろうことは確かだけれど、贖罪のつもりはなかった。単純に知り合いだったから、薬を融通していたに過ぎない。体質ゆえにまともな職につくことさえ困難な彼は、私がいくらかの割り引きをするととても申し訳なさそうな顔をする。そんな彼が先日送ってきた手紙はずいぶんと晴れやかな内容だった。そのことに安心しなかったと言えば嘘になる。
「リーマスと仲がいいのかね」
「仲がいいというほどでは」
「きみにとても感謝しておった」
「たいしたことではないのに、彼は人がいい」
「学生時代、あまり接しているところを見ておらなんだが、きみたちが友情を結んでいるのは、わしとしても嬉しいことじゃ」
そう言って目を細める好々爺は、人狼である彼に友人がいることを純粋に喜んでいるようにも、シリウス・ブラックの妹の企みを見抜こうとしているようにも、見える。私は彼に、曖昧に笑って首を振った。
「私の後任にお伝えください。薬の味を変えるか、チョコレートを渡してやらないと、リーマス・ルーピンは薬を飲みたがらないと」
「伝えておこう」
薄いブルーの目が、茶目っ気を含んだ笑みを浮かべる。
「しかし、彼がそれを汲んでくれるかは、また別の問題じゃのう」
「でしょうね」
それどころか、よくも引き受けてくれたものだと感心している。リーマスへの返信には、毒薬の見分け方でも書いておいた方がいいだろうかと考える。
「ところで、魔法省はきみの監視を望んでおる。わしとしては、妙齢の女性を不躾に見張るような、失礼なことは到底するべきではないと考えているのじゃが、こればっかりはファッジが意見を変えそうにない」
「魔法省大臣が? ……それはそれは」
そう言ったダンブルドアの口ぶりはまったくさらりとしたものだったので、私はなるべくそれを信じていないように見せるため、軽く肩をすくめて笑った。恐らく彼の言ったことは本当で、というのもこれだけマグル界でも騒いでいるのだから、あの臆病な魔法大臣が私に目をつけないとも思えなかったからなのだけれど、こちらが緊張してしまえば余計立場が悪くなるだろうことはわかっていた。思えば、こういった、おかしな立ち位置になることは多かったのだ。生まれた家の中で、私はいつも、一番安全そうな場所を選んで身を置きつつ、本心を別の場所に隠していた。生まれ持った血ではなく、この性質を組み分け帽子が見抜いて、私はスリザリンに迎え入れられたのではないかと思う。
「私なんか見張ったって、面白いことは何もないと思いますけれど。私はなかなか家からも出ないし、そんなことに人を割くくらいならもっと有意義なことに使われては」
「そのようじゃのう。ファッジにはそう伝えておこう」
いつの間にか彼のカップは空になっていて、「おかわりは?」と尋ねると穏やかに首を振られる。
「せっかくのお誘いじゃが、お暇しよう。教え子と昔話に興じるのは老人の楽しみじゃが、いかんせん楽しくない予定が山積みでの」
「それは残念です」
紫色に輝くローブを翻し、ダンブルドアが立ち上がる。あちこちに鍋や本が積み上げられた部屋の中を、彼が優雅に闊歩するのは面白かった。見送るために私も立ち上がると、手椅子の下から、のっそりと起き上がる影があった。目を降ろすと、黒い犬も私を見上げ、ぱたんと一度尻尾を振った。
「おや」
振り返ったダンブルドアが、粉砂糖がかかったような眉を持ち上げる。
「きみは犬を飼っておったかな?」
「ええ」
黒い犬はとても痩せているのに、とても大きくて、このアパートには不釣り合いだった。しゃがまずとも、その頭を撫でられる。小さな頭をもみくちゃにすると、彼はとても嫌そうに頭を振り、ダンブルドアを見て鼻を鳴らした。ゆっくりと踵を返し、部屋の中に戻っていく。
「昔から犬が好きなんですよ」
「グリフィンドールに入れよ」
シリウスは、燃えるような目で私を睨んだ。「グリフィンドールだ。じゃなきゃ、絶縁だ」
「そんなことを言ったって」
逃げ場がなくて、私は肘掛け椅子の上でなるたけ小さくなろうと蹲った。クリーチャーに、父様も母様もレギュも忙しくしていて、こんな端っこの部屋には近づかないだろうと教えてもらったのに。シリウスはいつも、他の家族の枠に嵌まらない。レギュと私を大好きだと言ってくれるクリーチャーは、シリウスには手を焼いている。
夏が終わればホグワーツに行くことが決まっていて、レギュと一緒に家を出られるのはとても嬉しかったのだけど、本当のところは怖かった。どの寮に入っても敵ができてしまう。スリザリンに入ったところで父様と母様は私を褒めるのではなく当たり前だろうと頷くだけだろうし、喜んでくれるのはレギュだけだ。シリウスは私を嫌いになる。もし、グリフィンドールになれば、シリウスは楽しそうに笑うだろうけれど父様と母様の怒りは目も当てられないだろう。何より、レギュが悲しむ。
身体を丸め、読んでいる本で顔を隠す。私にとってシリウスは災害に似ている。嵐みたいに全部引っ掻き回して、終わってしまうと空はすっきり晴れているのに、取り残された地面はめちゃめちゃになっている。
シリウスは手すりにひょいと乗っかって、私から本を取り上げた。「あっ」「へえ」中身を眺めた彼は、ちょっとだけ眉を上げて私を見る。「こういうの好きなのか」思ったよりもやさしい声だった。怒られないように、そっと頷く。
「叔父様がくれたの。母様たちには内緒だよって」
「おまえはそういう奴だと思ったよ」
降ってきた硬い掌。シリウスはいつも、乱暴に私を撫でる。温かな手から逃げた時にはもう私の髪はぐしゃぐしゃになっていて、それを見て、シリウスはまた歯を見せる。
「うちの寮にくれば、マグル出身のやつだって多い。たくさん話が聞けるぞ」
返された分厚い本は、叔父様の魔法でまるで違う表紙になっている。一番お気に入りのマグルファッションのページを開き、「こういう服を見たことがある?」と訊くと、シリウスは写真を見下ろして「たまに着てるやついるな」と言った。
「おまえ、あいつらあんまり好きじゃないだろ」
「……うん」
シリウスの言う“あいつら”はパーティに来るお金持ちの人たちのことで、いつの頃からか、父様も母様も、レギュもそこに入るようになっていた。そしてきっと、私がスリザリンに入れば、そこに私も入るのだろう。
ホグワーツに行ってからシリウスが話すのは“ジェームズ”のことばかりで、そんなシリウスを父様も母様もよく思っていない。レギュはシリウスを今まで見たことのない目つきで見るようになって、そういうとき彼は私の手をぎゅっと握って「ジネヴラはあんな風になってはいけないよ」と言うのだった。そう言うレギュはシリウスのことがとても好きなのに好きではないふりをしているから、レギュの方が好きな私はうんといい子になって何も言わない。
「おまえは俺に似てると思ってたんだ」
そうなのかもしれない、と思う。けれど、私はシリウスと全然違うな、とも思う。母様がヒステリックにシリウスを怒鳴りつける時、シリウスもとても大きな声を出すけれど、その時二人の横顔はとても似ている。自分が抱えたものを絶対に手放す気はなくて、攻撃された分だけやり返す。この家の人はみんなそう。相手のことを、一緒に生きていけない生き物だと思ってる。
マグルに興味を持ったのはまだシリウスもホグワーツに入る前のことで、ロンドンの街中を歩く青く固そうなズボンを履いた女の人がとてもカッコよかったからだった。何も知らない私は母様の手を握って「私もあれが履きたい」と駄々を捏ねて、本当にひどく怒られた。あの日、部屋で泣きじゃくる私を慰めてくれたのはレギュで、レギュは私を優しく撫でながら「もうマグルなんかを羨ましがっちゃいけないよ」と言ったけれど、シリウスはちっとも私を撫でても、慰めてもくれなかった。ただ、「泣かなくていい」とだけ言った。
小さな読書用のランプがシリウスの顔を明るく照らすのはとても綺麗だった。シリウス・ブラックは三人の子どもたちの中で一番美しい顔をしているとみんなが口を揃えて言う。その通りだと思う。けれどそれは、言われているような造形の話なんかではなく、シリウスだけが自分が自分であることに胸を張っているからなのだ。大犬座、夜空に輝く一等星。輝いているシリウス自身はそれにてんで頓着していなくて、それを一番気にしているのがレギュラスだった。レギュは、シリウスが輝けば輝くほど、自分が美しくないと思って傷ついてしまう。
「ジーンズなら、おまえも持ってるはずだ。去年のクリスマスに送ってやっただろ」
「うん」
シリウスのプレゼントは、クリスマスの前の晩、部屋の窓に直接届いた。カードには絶対に一人で開けろと書いてあって、リビングにはまた別の、シリウスからの小さな箱が届いていた。秘密のプレゼントなのだ。クリーチャーが差し出したシリウスからの箱にはよく街で見かける魔法のお菓子が詰めてあって、それがいっそう、もう一つのプレゼントを魅惑的にしてくれた。子どもは秘密が好きで、私もそう。レギュにおやすみのキスをして、私を寝かしつけたクリーチャーの足音が聞こえなくなるまで、ベッドの中でじっと、ワクワクと胸が弾む音を聞いていた。
真夜中にベッドを出るととても寒くて、けれどもちっとも気にならなかった。平たい、赤いプレゼントの箱から出てきたのは、青くて硬い、素敵な生地のズボンだった。ジーンズというのだとシリウスのカードに書いてあって、マグル生まれの女の子に頼んで、買ってきてもらったことも書いてあった。暗い部屋の中、硬い生地に足を通すとドキドキした。服を一人で着るのも初めてだった。ローブでもスカートでもない、そのズボンは、私をとても素敵な女の子に見せてくれた。
誰にも言わなかったのに、夏休みに帰ってきたシリウスは、私がちゃんとプレゼントを履いたことを知っていたみたいで、「よかっただろ」と歯を見せて笑い、私の髪をぐしゃぐしゃにした。「ジネヴラはグリフィンドールだな」そう言ったシリウスをレギュラスがひどく睨みつけたから、私はそれ以来、ジーンズを履いていない。
「やっと履けるな」
シリウスは、それがとても素敵なことのように笑った。「そうかも」と頑張って笑った私はちょっぴり泣きたかったのだけど、きっとシリウスには分からなかっただろう。いつだってそうだ。シリウスはとても眩しいから、たまに私たちのことが見えなくなってしまう。
夏が終わって、帽子は私をスリザリンに組み分けた。「よくやったジネヴラ」そう言って微笑むレギュの向こう側、離れた赤色のテーブルで、シリウスは私を見ようともせず、忙しそうに“ジェームズ”と話して笑っていた。その年のクリスマスには、シリウスからありふれた魔法のお菓子だけが届き、彼は二度と私の髪をぐしゃぐしゃにしなかった。
「まさかダンブルドアが来るとは」
「言ったでしょう。見張られるだろうから、早く逃げたほうがいいって」
人間になった兄はとても痩せていて、私のシャツもパンツも着られてしまうくらいだったから「妹の背が高くてよかったね」と、黒いパンツから飛び出した足首を見て笑った。
「少なくとも膝は隠れてるもの」
「どうして家に上げた」
「いまさらだね」
三日も前に来たくせに。私が笑うと、シリウスも笑った。ニヤリと歯を見せる笑い方が、犬の時によく似ている。
「それよりも、私の住所を知っていたことの方が驚きなんだけど」
シリウスが懐から古い新聞を取り出した。見出しにはガリオン金貨くじ引きがどこかの大家族に当たったことが書いてあって、痩せた長い指が隅の方の広告を指す。
「“薬、作ります。どんな面倒な調合もお任せ。ふくろうの宛先はこちら”ーーなるほど」
「兄としては、一人暮らしの妹がこんなふうに住所をあけすけにしているのは心配でね。安全のために一度立ち寄るべきかと思った」
「それはご立派な兄上ですこと」
コーヒーを飲む? と訊けばシリウスは首を振って「紅茶がいい」と答えた。
「コーヒー豆を切らしているんだろう」
「そうだった」
「それにおまえが淹れるお茶は、なかなか悪くない」
いつからあんなに上手くなったんだと訊いたシリウスは、狭いリビングルームの半分を占拠する安楽椅子に、どっかりと座り込んだ。痩せた頬が私を見上げる。
「俺たちは三人とも、料理を作ることとは縁がなかったはずだ」
「気づいていないかもしれないけれど、私が家を出てから十二年が経っているの。薬の調合より簡単だしね」
「たしかに、爆発もなければ、死にもしないな」
レギュがいなくなり、母が死んですぐあの家を出た。クリーチャーを連れて行こうとしたけれど、家を離れたがらなかったから、彼には好きにさせることにした。時折手紙とお手製のパイが届くから、元気にやっているだろうと思う。様子を見に行こうと思いながら一度も行けていないことを言うと、シリウスはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「お湯を沸かす間、鉢植えに水をやっておいてよ」
「ああ、あとで」
長い脚を積まれた書類の山に乗せ、手を頭の後ろで悠然と組んだシリウスは、のんびりとした様子で部屋中を見回す。そこら中に何もかもがとっ散らかしてあるせいで、再会した兄が一番に口にした言葉は「泥棒にやられたのか?」だったことは、きっと何年先も私を笑せるだろう。
「それにしたってめちゃくちゃな家だな」
「すてきでしょ」
飾り棚から溢れて床まで侵食している、魔法植物たちの鉢。マグルの家電が所狭しと並び、洗濯機はタオルや洋服が詰め込まれているのに、ロープにはまだ片付けていないシャツが引っ掛かっている。本は本棚から自由に出かけていて、モロッコ旅行で買ってきたカラフルなカーペットが敷かれているから、部屋のどこもかしこも色だらけだ。かつて私たちが暮らした屋敷とは何もかもが違う。
「ああ」
シリウスはため息を吐くのにも似た深い声で頷くと、充分に部屋を眺め、最後に私を見た。彼のグレーの瞳に、私のジーンズが映る。いつかの兄の目そっくりだった。私は笑う。
「よく似合ってる」
2023.12.30