美しい微笑みと完璧な立ち回り。
夜神月を好きになれない。
目を覚ますとミルク色の天井がくるくる回って見える。身体はベッドに横たわったままなのに腹に石を詰められた重さで沈んでいってしまいそう。ぺたんと凹んだ腹部に手を当てると、中に仕舞われている臓器がしくしく泣いているのがわかって、思わず悪態を吐く。ちくしょう。
肉体なんて脱ぎ捨ててしまいたかった。なのに私たち、いつもこの肉の檻に閉じ込められている。
外の光は清廉で、忙しない日常は私が眠っている間に始められていた。背広を着込んだサラリーマンが通りを迷いない足取りで歩いていくのが見なくてもわかる。いつも三人、私が家を出るまでに歩き去っていく。
階下からは不気味なほど音がしなかった。暴れ続けて眠ったのかもしれない。きっとリビングから玄関、果ては洗面所まであますところなく荒れているのだ。私はきれいなものが好き。乱れ切った家に住み続けなければならないこの人生はいつだって苦痛と共にある。
私の部屋だけが温室だ。必要最低限の白い家具の中には生きるのに本当に必要物だけが収められていて、そのことが私の心を宥めるのだった。塵一つ落ちていないこの部屋を、私はたった一人を除くすべての人間以上に愛している。
身体を起こした。伸びた髪が顔を覆い、世界が半分になる。携帯を手に取る。一昨年変えた機種は周りから見れば古いようで「二年で変えないの」と驚かれる。人間の、日々新しいものを求める雑で回転の早いサイクルが私は嫌いなのに、人間という種族以外に私の属するものはないのだと思うといつも遣る瀬無くなる。
清美から着信があった。メールも一通。「寝てるのならいいわ。気にしないで」つんと尖った文面に、きゅんと心臓が軋む。いい、なんてまるで思っていないくせに、こういった見栄を張らずにはいられない彼女のつまらないプライドはいつも可愛い。
ベッドから足を下ろすと、冷えた床が私の身体を震わせたから、寝ぼけた頭がすっきりと目覚める。服を脱いだ。鏡に身体を写す。肋の浮いた薄い身体。腹から胸にかけては曲線があって、若い女の財産が詰め込まれている。
いつまでだろうと思う。いつまで私は、この肉の塊に仕舞われているのだろう。
友人にできた初めての恋人は散々駄目な男だったけれど、いま目の前で微笑んでいる人間よりよほど善人だったのではないかと疑っている。
後方から入ってきた夜神月は、私が一人で座っていることに気がつくと、少しだけ目を丸くして、人好きのする笑顔を浮かべた。
「山田さんも犯罪心理学基礎、取っていたんだ?」
隣、いいかな。断られることをまったく前提としていない問いに首を振るのは難しく、私は曖昧に言葉尻を濁す。夜神月は私に構わず腰掛けた。品のいい、革製の鞄を隣に置く。まだ使い込まれていない新しいそれは、きっと大学入学に合わせて買ったのだろうと思った。親からの贈り物だろうか、とも思った。つい先日まで高校生だった彼が手にするには、不釣り合いなほど上等だった。
「夜神くんも取っていたんだね。知らなかった」
嘘だ。講義の初日に気がついた。まだ彼が清美の恋人になる前だって、入学式で挨拶をした人間の顔くらいは私でも覚える。
夜神月には華がある。言って仕舞えばそれだけなのだけど、それにしたって彼の魅力というのは実に複雑だ。表向き、彼は整えられた優等生だ。背は高く端正な顔をしていて、成績は優秀かつ物腰は柔らかい。これはとてもわかりやすい魅力で、多くの人間は甘い水を求める蛍のように彼に惹かれていくのだった。彼は満遍なく周囲に愛されていくのだけど、きっとその中に本物はいない。本当に彼に惹かれるのは、その甘さだけではなく、もっと別の何かを嗅ぎ取ってしまった人間だろうと私は思っている。清美がどちらかを、考えている。
講義室の空気は密やかな話し声に波立っている。関係のない雑音に取り囲まれ、私はペンケースの中身が揃っているかを確認するふりをした。そんな私を隣で夜神月は頬杖をつきながら眺めていて、私が意地でも彼に視線を向けないことにも気付いているのだろう、それはそういった視線だった。ぬるつくように肌の上を滑り、染み入ってくるような。もしかして、私の隣に座っているのは人間でも何でもなく、何かとっても恐ろしいものではないのかしらと思ってみたところで、すぐそこにはやはり美しいかんばせがあるだけなのだった。
「さっき高田さんに会ったよ」
「そうなの」
「珍しいよね。一緒にいないの」
あなたが来てからそうでもなくなったよ。そう言って、この男がどんな表情をするのか、見てみたい気がした。申し訳なさそうに眉を下げるような気もしたし、頬をぴくりとも動かさないような気もした。どちらにせよ、そんなことをすれば惨めになるのは私ばかりだ。顔を上げる。美しい夜神月に、笑い返す。
「学部が一緒だって、いつも連れ立っているわけじゃないよ」
「それはそうだろうけど」
「夜神くんも、いつも流河くんといるところを見かけるけど、今日はいないんだね」
「次の講義から来るらしいよ。さっきメールが入ってた」
「仲がいいね」
「どうかな」
困ったように微笑む彼を、前に座る女子生徒が横目で見たのが私には見えている。恐らく彼も気がついている。彼はそれをまるで感じさせなかった。
「学食でケーキが食べたいらしいんだ。山田さんもどう?」
「いいね。清美も呼んで」
「そうだね」
背中の丸まった教授がやってきて、さざめきが徐々に小さくなっていく。遠い教壇に小柄な教授が立つと、薄くなり始めた頭がよく見えた。無愛想に眼鏡を押し上げ、色のない声がマイクを通して講義室中に響く。ほっとした。私は夜神月から顔を逸らし、真剣な顔を作って、ペンを持つ。
夜神月の考えていることが私にはわかる。夜神月は兄に似ている。
清美とは中学校で出会った。
もともと美人だと聞いていたけれど、それと同じくらい嫌な女の子だという話もよく聞いていた。
午後の教室はうるさくて、いつも埃と、制汗剤と、給食の匂いがしている。その中で、清美の座る窓際の席だけが、つまらない教室とは無縁の、何か神聖な場所のようだった。教室の隅から横目で伺うと、清美はいつも品よく背筋を伸ばして、文庫本を読んでいた。黒いショートカットは彼女の綺麗な形の頭にとてもよく似合っていて、他の女の子のように、つんつんと毛先が跳ねたりなんてしていない。たぶん、他のクラスメイトだって、一日に一度か二度、彼女のことを眺めただろう。茶色い床、緑色の黒板、紺色の制服の群れの中で、清美のいるところだけが一段と明るい。スポットライトが当たっているようだったのだ。雲の切れ間から差す光のように。本当にそんな感じに。
私はとても平凡な女子生徒で、休み時間のたびに友人の机を囲っては、他愛のない話できゃあきゃあ言ってみたり、