01
 私は目を開けてはいけない。
 何も見てはいけない。


「目を開けてはいけませんよ」これはマザーお決まりの台詞だった。
「ジネヴラ、あなたは目を開けてはいけません。この世界は汚れていて、あなたの目では見ることができない。見えない者が見ようとするのは、いけないことです」
「はい、マザー」
 母さんが死んだ。その七日後に、痩せた女がやってきた。私を連れ帰ったその女は、自身のことをマザーと呼ばせた。薄い唇、尖った顎。固めるように纏めた髪は夜よりも暗い。いつも首までぴったりと覆う、黒いワンピースを着ていた。

 朝、目が覚めると私は真っ先に目を開いた。光は上から降ってくる。日差しを浴び、水を張った盥に顔を映す。触る。これが目、真ん中が空と同じ色をしている。これは鼻、母さんに比べてすこし低いかしら? これは唇、唇は――
 硬い靴の音。私は急いでベッドに飛び込む。布団をきちんと被り、目を瞑る。
「入りますよ」
 マザーは必ず、私の顔を見る。この時、目を開けてはいけなかった。この世界には決まりがある。
「おはよう、ジネヴラ」
「おはようございます、マザー」
「朝ごはんができましたよ」
 マザーは膝をつき、私を起こす。タオルはごわごわとしていて、それを盥に浸し、彼女は私の顔を拭く。そうして黒い布で目を覆う。瞼の色さえ見えなくなる。
「目を開けてはいけませんよ」
「はい、マザー」
 マザーは私の他にも、六人の女の子を飼っていた。メイシー、ジョヴァンナ、アマンダ、キャロル、ミランダ、ヨルダン。私は七人目。ここでは誰も目を開けてはいけない。見えるのはマザーだけ。マザーはすべての女の子の髪を梳かし、結わえ、服を整える。その時マザーの鼓動はとても速くなる。

 朝食の後、七人の女の子は手を繋ぐ。私の右手とヨルダンの左手、ヨルダンの右手とミランダの左手、ミランダの右手とキャロルの左手、キャロルの右手とアマンダの左手、アマンダの右手とジョヴァンナの左手、ジョヴァンナの右手とメイシーの左手、そしてメイシーの右手はマザーの左手。私たちは一列に並んで廊下を歩く。廊下は日差しの匂いがする。光は上から降ってくる。「兵隊さんみたいね」といつかアマンダが笑って、マザーが怖い声で彼女を叱り飛ばした。頬を打つ音もした。アマンダの「ごめんなさい」と叫ぶ高い声も。だから誰も喋らない。みんな黙って聖堂に向かう。
 硬い椅子に並んで座り、ヨルダンの頬の温かさが、私の頬のすぐ近くにある。マザーは前に立つ。紙を捲る音がする。聖堂の中はとても冷たい。私はヨルダンに頬を寄せる。
「かつて神はひとりの神の子イエスを、そして七人の娘を作られた」
 マザーの言葉に、いつも、ほうっと息を吐く音がする。感嘆の音色をしている。ミランダだろう。マザーが続ける。
「七人の娘たちは地上に降りた。彼女たちの目に映る人間たちは醜く愚鈍で傲慢だった。死にゆく自然や痛めつけられる罪なき動物たち。彼女たちの清き心は耐え切れず、地上の醜さを見ることができず、美しい目はひとつ残らず潰えてしまった。七人の娘は、もう開くことの叶わない各々の瞳から涙を流した。穢れなき乙女たちの涙を浴びた草木は息を吹き返し、水は澄んだ。七人の娘たちは手を繋ぎ、円になった。たった一人、己らの心を真に理解する女を選び、彼女を中心に、楽園を築き上げた」
「そうして七人の娘と女性は、ずっと幸福に過ごすのですね!」
 ミランダの高揚した声。マザーがこちらを向き、頷く音。微笑む薄い唇を頭の中に思い描く。
「ええ、ミランダ。ここは楽園です。あなたたちは神によって作られた清き乙女であり、神からの賜り物なのです。あなたたちの瞳ではこの世界を見ることは叶いません。そのかわり、あなたたちは何一つ穢れず、生きていくことができるのですよ」
 そうして私が選ばれた、とマザーが言う。ここだけ、彼女の声は温度を変える。
 私は聖書を読んだことがなかった。人間が男と女の営みによって作り出されることを知っていた。母さんが、幾度か女の股から赤ん坊を取り出すのを見たことがあった。小さくか弱く、くしゃくしゃとして、彼らはとても元気よく泣く。教会の鐘よりもよほど心地のいい音だった。あれこそ、この世界で最も穢れなき、神からの賜り物なのでは?
 私はマザーに何も言わない。他の六人も何も言わない。ミランダだけが、感じ入ったように二回目のため息を吐く。私たちは指を組む。こうべを垂れ、マザーが望む通り、祈りの文句を口にする。

 マーサは死んだのだとここにきて七日目の夜ヨルダンが教えてくれた。「マーサが死んだから、ジネヴラ、あなたが来たのよ」髪と瞳と肌が、私はよく似ているのだとヨルダンは言う。「マーサはね、マザーに訊いたの。お父さんとお母さんはどこに行ったのって。マザーは神は父だと答えたわ」嘲るような声だった。ヨルダンは十三歳だ。とても大人だった。
 私たちは手を繋いで同じトイレに入る。ヨルダンがそっと私の目を覆う布をずらすと、眩しくて目がしぱしぱと瞬く。同じようにヨルダンの布をずらすと、夜よりも美しい黒い瞳が私を見る。
「じゃあ、お母さんは、とマーサは訊いたのよ。マザーは怒った。母親なんて、そんな汚らわしい生き物は存在しないって怒鳴ったわ。女の胎から生まれたなんておぞましいって、何度もマーサを殴ったの。次の朝、朝食の席にマーサは来なかった。そうして七日後、あなたが来た」
 だから何も言ってはダメよと、ヨルダンが笑う。笑うと、彼女の頬に笑窪が浮かび、それがとても可愛かった。
「ミランダはもうだめ。メイシーとジョヴァンナも危ない。私は絶対、いつかこんなところを出ていくの。自由になるのよ」
 そうしてヨルダンは私の唇にキスをする。私たちは布で目を覆い、トイレを出ていく。食堂に戻り、マザーに手を引かれて部屋に向かう。真っ暗な部屋で布を外され、眠りにつく。

 熊のぬいぐるみを持っていた。マザーから一人に一つ与えられる。胸に抱くとその小ささが心許ない、子熊だった。柔らかな布でできていて、石鹸の香りがしていた。触ると丸い耳が二つ、つるりとしたボタンの瞳が二つ。鼻は刺繍。お腹は綿が詰まっているけど、強く押すと、奥に硬い感触がある。「鼻にキスをして、夜眠るといいわ。余計なことは言っちゃダメよ」これもヨルダンが教えてくれた。「部屋に一人だと思って喋ると、次の日マザーから折檻されるの」熊は私たちの声を聞いている。言っていいのは祈りの言葉とマザーへの同意。ひとりきりの部屋でも世界の規律は変わらない。
 眠る前と起きてすぐ、刺繍糸の鼻先にキスをする。朝起きてマザーが部屋に来るまでの間だけ熊を見ることができて、熊は薄気味悪い笑顔を貼り付けているので嫌いだった。ミランダの顔を見たことがない。けれど似ているのだと思う。彼女の、恍惚とした声は本当はこの子熊のものなのではないかと思う。
 光は上から降ってくる。天井の高い家だった。何も見えないように、見せないために、窓は伸ばした指先さえ届かないほど高くにある。朝になると見上げる。雨に汚れて曇っている。そこから光が差している。

 ヨルダンが死んだ日も、私たちは手を繋いで聖堂へ向かい、硬い椅子に尻をつけ、マザーの読む祝辞に指を組んでこうべを垂れた。誰も何も言わず、私も何も言わなかった。亜麻色の巻毛も美しい瞳もどれだけ可愛く笑うのかもキスをするのが上手なことも私が知ってはいけないことだった。ミランダの、発狂したような、幸福そうなため息だけが許される。
「マザー」
「どうしました、ジネヴラ」
「ヨルダンの子熊をもらえませんか」
 マザーは私の手を引いた。「おいでなさい」ヨルダンはどうして死んでしまったのだろう。硬い靴の音がして、廊下を歩いても光が降ってこないから太陽はもう沈んでしまったのだと知る。夕食はまだ食べていないけれど食べたくなかった。扉の開く音。花の匂いがする。
「いけませんよジネヴラ」
 扉が閉まる。マザーは私の頭を抱いた。呼吸、鼓動が早くなっている。私もマザーも。汗が背中から吹き出している。マザーの息が耳にかかる。
「いなくなってしまった子の名前を口にしてはダメ」
 何も言ってはいけないとヨルダンは言っていた。いつか自由になるのだとも。どうしていなくなってしまったの、子熊に聞かれたの、あんなに注意してと私に言っていたのに。

 夜中に男が二人来て小さな棺桶を引きずって行った、らしい。ヨルダンの顔は穏やかに微笑んでいた、らしい。どちらも聞いた話。ヨルダンとのお別れはマザーとミランダだけが出来た。「私ね、お別れの最後にキスをしてあげたの」とミランダは嬉しそうに言って、まるで子熊のようで気味が悪かった。可哀想なヨルダン。ミランダのことが好きではなかったのに。キスをするのは私だけだったのに。
 光は上から降ってくる。窓から外を見ることなんてできやしない。部屋にはベッドと私と熊しかいなくて、私は熊を部屋の隅に力一杯投げつけた。音も立てずに横たわる布と綿の塊。ベッドに潜って枕を噛んだ。泣くことはできない。熊が私たちを聞いている。
 ミランダはもうだめ。メイシーとジョヴァンナもちょっとずつ可笑しくなっている。アマンダはどうだろう、頬を打たれてから彼女は何も喋らなくなった。マザーは彼女の髪を梳かす時一番時間をかけている。

 死んでしまったマーサにヨルダンはキスをしていたのかもしれないと思った。マーサは私に似ていたらしい。訊きたくてもヨルダンはもういなくて、私は何も見てはいけないから目を閉じて祈りの文句だけを呟いた。とても悲しいのに、ヨルダンの死に顔を見なかったことに安心している。微笑むヨルダンなんて見たくない。そんなものは彼女ではなくて子熊なのだ。
 私たちは子熊。柔らかな布に閉じ込められて、気味悪く微笑んでいなくてはならない。


 目が覚めるみたいに悪い夢は終わる。


 大きな足音がいくつもやってきて、私たちは何も見えないから雷のようなその音にただ身体を固めて耳を澄ませることしかできない。近づいてくる音に、メイシーの髪を梳いていたマザーが立ち上がる。椅子の倒れる音。狼狽えている。「そんな、どうして」震えた声だった。「マザー、一体何が」「静かにしなさいっ」ミランダへの怒声。雷が近づいてくる。私たちには何も見えないから、椅子に座ったまま、逃げ出すこともできずに、出来るだけ小さくなろうと肩を竦める。マザーだけが立ち上がり、小さく歩き回る。コツコツ床を叩く硬い踵。「どうしよう、どうしよう」歯の鳴る音。髪を掻き毟る音。
 扉が開く。アマンダの悲鳴。久しぶりに声を聞いた。重い、いくつもの雷たちが、どかどかと食堂にやってくる。汗と陽だまりと苦い草の匂いがツンと鼻を突く。
 幼児誘拐、殺人容疑。低い声だった。マザーが叫ぶ。「この子たちは朝ごはんを食べていないのよっ!」発狂している。「触るな、私は選ばれたんだッ! 触るなぁッ!」堪らなくなって、私は頭に手をやった。布を取る。世界が眩しい。光は上から降ってくる。目を瞬かせ、探す。
 鬼のような顔をしたマザー、大きな男二人に、腕を押さえつけられている。髪を振り乱し、歯を剥き出して、彼女は燃え盛る目で私を見つけた。「見るんじゃないっ!」椅子にきちんと座った六人の女の子。同じ髪形をしていて、二人まだ髪を結われていないので、その二人がメイシーとアマンダだとわかった。粗末な木のテーブル。部屋の壁は白い。私は私を囲っている世界を初めて見る。








02
 黒い髪をしたお兄さんは「初めまして」と言って、棒のついたキャンディーをくれた。背中が曲がっていてとても痩せている。キャンディーは水色と赤と黄色の渦巻き模様で、あんまり欲しくなかった。持ったまま固まる私に「食べないんですか?」とお兄さんが首を傾げる。「おいしいですよ」首を振る。お兄さんは私の手からキャンディーを抜き取って、袋を破いて大きな口を開けた。渦巻き模様を丸ごと舐めてお兄さんが「やっぱりおいしいじゃないですか」と言った。
「みんなどこへ行ったの?」
「六人とも、両親のもとに帰りました。身寄りのない子はきちんとした養護施設に」
 とても不思議な部屋で、あの家の中はベッドと熊と机と椅子しかなかったのに、ここはとてもごちゃごちゃしている。薄くて硬そうな小さなテレビのような箱がたくさんと、箱からもっとたくさんのコードが伸びているから縄跳びだってできてしまいそう。見るのに忙しくて私はくるくると首を回す。あっちもこっちもいろいろなもので溢れている。お兄さんは大きな肘掛椅子に、鳥のように足を畳んで紅茶を飲んでいる。
 机の上にはたくさんの甘いものが乗せられていて、お兄さんはそれを自由に食べてもいいと言ったのだけど、何をどれだけ食べていいのか私は知らない。「何が好きですか?」「わからない」食事はすべてマザーが用意したものを食べていた。朝と夜にしか食べなかった。
「おやつはひとつだけって」
「それは誰に言われたのですか?」
「母さん」
 言って、思い出す。朝、盥の水に顔を映すのをやめてから随分経っていた。私の顔は母さんに似ていたはずなのだけど、遠い記憶を掻き集めても思い出せるのは薄い影だけ。もう、本当に似ていたかどうかさえわからない。母さんが死んだ時私は七歳だった。今は何歳なんだろう。時計の読み方を覚えてすぐに母さんは死に、マザーは私に時計を見せてくれなかったから読み方なんてもう忘れてしまった。どれだけの時間を目を瞑って過ごしていたのか私は知らない。
 お兄さんはエルと名乗った。アルファベットは少しだけ書けたから、紙をもらって名前を書く。「Elle」「上手ですね」あの家で学んだのは祈りの文句とマザーへの同意、女の子へのキス、熊を信じてはいけないことと目の瞑り方だけで、私はアルファベットを書けることに安心した。

「新しいお家に行くの?」
「ええ」
 エルと過ごして七日後、彼は私にひとつの養護施設を教えてくれた。ワイミーズ・ハウスというお家。むかし、エルも住んでいたところ。
「ようごしせつってなに?」
「あなたと同じような年頃の子どもたちが一緒に暮らしている場所です。あなたはそこで、ごはんを食べ、勉強をし、好きに遊ぶことができる」
「私は何歳なの?」
「もうすぐ十歳のお誕生日が来ますよ」
「また目を瞑っていないといけない?」
「いいえ。好きなだけ好きなものを見ていい。ときには見たくないものを見なくてはいけなくなるかもしれません」
 ワイミーズ・ハウスに行くには名前を捨てなければいけない。これまでずっと持ってきた名前を隠し、新しい名前で呼ばれるのだ。
 私はそれがとても嫌だった。私はなにも持っていなくて、それなのにジネヴラでさえなくなってしまうなんて、失った後にどんな生き物になってしまうのだろう。恐ろしかった。「行きたくない」テーブルの下に逃げ込んで、エルと同じように膝を抱える。テーブルの端から私を覗くエルはじっとこちらを見て、テーブルの上に手を伸ばした。ドーナツが降りてくる。
「それはなぜ」
「私はジネヴラでいたい」
 もう子熊にはなりたくなかった。
「ええ、なら構いませんよ」
 ワタリさんが困った顔で私を見下ろしているのが見える。困らせたいわけではなくて顔を背ける。受け取られなかったドーナツを食べながらエルが笑った。ワタリさんがやっぱり困った顔をして彼を呼ぶけれど、彼はもぐもぐと口を動かしてドーナツの隙間から声を出す。「いいだろう、ワタリ。好きにさせよう」そうして新しいドーナツが差し出される。白い砂糖がとろりとかかって、間にレモンのジャムを挟んだやつ。私はこれがとても好き。
「本当のことを言えば、私もそこに、本名で在籍していたので」
 白い指が紙を摘んでいる。「Elle」私の書いた文字だった。

 マザーが私たちに着せるのは縫い目のない白いワンピースで首から足首までをすっぽりと覆ってしまうから、動きにくくて好きではなかった。私の持ち物はその服を三着と熊だけで、そんなものは持っていたくなかったからワタリさんが新しい洋服とかわいい革の旅行鞄を買ってくれた。エルからもらったキャンディーといっしょに服を鞄に詰めてさよならをする。
「キャンディー、食べてくださいね」
「食べないかもしれない」
 砂糖の塊は甘すぎて私はあまり好きじゃなかったけど、受け取ったのはエルが優しかったから。
「おいしいのに」
 親指を噛む癖、猫背、隈、裸足、裾を引き摺ったジーンズと柔らかい白いシャツ。忘れないように目を閉じる。

 みんな新しい子どもがやってきたことにあまり興味なんかなくて、好きなことを勝手にしているから同じように好きなことを選んでいれば三日もするうちに私もハウスに馴染んでしまった。朝起きて顔を洗い朝食のトーストをセットしてミルクを注ぐ。全部を自分で用意する。髪は上手に結えないから切ってしまった。リンダは残念がったけど「おまえ長い髪似合ってなかったよ」とメロは笑った。

 話したことのない男の子がいた。遊戯室のドアは開いていることもあるけど誰も入ろうとはしない。ひとりきりで周りにおもちゃをたくさん並べて彼はいつも遊んでいる。
 たぶん、パズルか何かをしてるんでしょとリンダが言った。「ニアはいつもそう。ひとりきりで、世界なんてまるきりつまらないって顔をしてる」好きなときに好きなものを見られて好きなように遊べてたくさんのことを知って、何がそんなにつまらないんだろうと思った。
「何か用ですか」
 私はトレーを彼に差し出す。ニアは私を見て、すぐに目を床に戻した。黒い目だった。寝転がっている。右手に持ったロボットが、左手の怪獣を殴りつける。
「いりません」
「お腹が空かないの」
「はい」
 ニアは私と同じ、十歳になったばかり。なのに身体は八歳くらいにしかなってない。床に転がってロボット遊びに夢中なふりをしているニアが、とても臆病に私を見ているのが聞こえている。薄い胸の中に息づく鼓動は小さい。私はトレーを床に置いた。シチューのいい匂いがする。
 白い髪はくるくるふわふわで、細い手足も子犬みたいだ。ニアは犬に似ている。皺一つ寄ってないつるりとした顔は髪と同じようにとても白くて、笑っているところなんて見たことがない。不機嫌な子犬。
 パンは少しだけ冷めている。二つに割ると、白い顔が出てきてほふっと湯気を吐いた。シチューに浸して食べる。床に置いたごはんを食べたりパンをシチューに浸けたりなんてきっとマザーは怒るだろうなと思った。頬を打たれる。こういう時、私が思い出すのは母さんではなくマザーで、それが悲しい。
 空になったトレーをロジャーに見せると、彼はふさふさの眉毛を上げて「全部食べたのかい」と言った。私は「ぺろりよ」と答えた。不機嫌な子犬。あとでメロのチョコレートを持っていってあげよう。

 ニアは遊びながらたまにトレーを覗き込んで口を開ける。これはとても難しい遊びで、私は彼が何も言わないのに彼が何を食べたいのか当てなくてはいけなかった。スプーンで小さく切ったインゲンを口元に差し出すと、ニアがとても嫌そうな顔をする。
「違いますよ」
「じゃあこっち?」
 ニンジンのグラッセもお気に召さないらしい。お肉もダメ、お魚もダメ。ニアが食べるものはとても少なくて、私はニアが残したものすべてを平らげロジャーが彼のもとを訪れないようにしている。だから最近私のトレーにはほんの少しのスープとパンしか盛られない。メロが「ほらよ」と言ってくれる板チョコをニアと二人で分け合って食べる。
「テスト、一位だったね」
「はいそうですね」
 ニアはたぶん本当にそんなことに興味はないのだろうと思う。テストが返されるときだけニアの周りには人が集まる。その芸術のようなテスト用紙を覗くとみんな口々に彼を誉めそやす癖に、遊戯室に一人きりでいるときの彼には目も向けようとしないのだから不思議だった。嫌いなわけではないのだろうけれど誰も関わり合いになろうとしない。ニアが世界に興味がないのと同じくらい、世界もニアに興味がないのかもしれない。
 いつまで放っておいてくれるかなと私はたまに考える。彼が死ぬまで世界が彼を放っておいてくれるなんて、そんなわけがないのだ。私はもう、かつてあの家から誰が私を救ってくれたのかを知っている。エルはただの猫背でぼさぼさの髪をしてお風呂が嫌いで甘いものが好きなお兄さんではなかった。そうしてきっと、ニアがLになる。
「何を考えているんですか」
 ニアはいつだって臆病な目で私を見る。凪いだ瞳の核はいつだって私を警戒している。敵を探しているのだと思う。「別に何も」と私は微笑む。いつかあなたに与えられる符号について考えていたのとは決して言わない。メロ以外、みんなニアが次のLだと思っている。私もそう。そしてそれが不愉快だった。エルのことは好き、でも誰かが何かの形に押し込められることを赦すわけにはいかなかった。ニアが誰にも言わないで彼だけの思惑でここから逃げ去って自由になったらどれだけ気持ちがいいだろうと思う。いつか、ヨルダンが言っていた夢のように。
「……ジネヴラ」
「なあに?」
 ニアの食べなかったインゲンを食べていて、その時に彼が首を伸ばしてキスをしたから、離れていった彼は嫌そうな顔をして唇を舐めた。「インゲン味です」食べているもの。仕方ないじゃない。言い返せもせず、私は緑色の豆を噛んだまま黒い瞳を見つめ返すのだけど、その時にはもう彼の興味は私にはないのだった。床に転がり、飛行機の模型で遊んでいる。
「ニア」
 白い頭が振り返る。不機嫌な子犬。
「ピーマン、食べない?」
「食べません」
 なんでキスをしたのか訊けなかった。ヨルダンにも訊けなかった。


 目が覚めるみたいに悪い夢が終わることもあれば、目が覚めたら悪い夢が始まっていることだってある。


 エルが死んだとき私は十三歳で、ニアだって十三歳だったのだけど彼の身体は全然大きくなんてなかった。たぶんお肉が好きではないからだと思う。牛乳は少し舐めるようになったけれど、相変わらずクリームシチューが一番好きみたいで、中に入っている野菜もお肉も全部残すから彼はパンとスープしか食べていない。それと私がメロからもらうチョコレート。でもメロはそれをニアが食べていることは知らないと思う。

 天気がいい。みんなと一緒に外に行こうとしたところでロジャーが「ちょっと」と顔を出した。振り返る。彼の乾いた手はメロの手だけを捕まえている。「先行ってろよ」メロがボールを投げてよこしたから、私はそれを抱えてリンダとマットと一緒に庭に出た。途中、リンダがニアに声をかけたけどやっぱりニアは顔さえ上げなくて、そんな彼もロジャーが連れていく。
 汗をかいて埃臭くなってみんなと笑いながら帰ってくると、メロが、荒々しく部屋の引き出しを開けていた。ドアも開けっ放しで、開けた引き出しを閉じもせず、引っ掴んだものを、乱暴にカバンに押し込む、そんな動きだった。髪が垂れて顔は見えなくて、それでも尋常ではないことはわかる。部屋の前でリンダが足を止めて、マットが彼女の肩を叩いた。マットだけがメロのもとへ。私は小さい子たちを連れていく。
「メロ、どうしたのかな」
「さあ……」
「ジネヴラ」
 リンダと顔を見合わせる。心配そうな顔をしていた。そこで、呼ばれた。振り返る。
 ニアだった。廊下の向こう端に立っている。見つめ返すと、目を逸らして行ってしまう。「どうしたんだろう」「行って来たら?」リンダが言う。
「ニアが誰かを呼ぶなんて、とても珍しいもの。何かあったのかもしれない」
「何かって?」
「わからないけど」
 聡明な彼女は、小さな子たちを怖がらせるようなことは言わない。足に抱き着いた、ロニの小さな頭を撫でたリンダが私を見る。メロにはマット、ニアには私。頷いて部屋を出る。

 ニアは遊戯室の床に転がっていたけれどロボットも積み木も転がったままで、寂し気に転がる彼らに背を向けて寝ているから不貞腐れているように見える。そのすぐ近くに、真っ白なパズルがばらばらに捨てられている。さっきまでもうすぐ完成しそうだったのに、もう完成して、飽きたのかもしれない。
「ニア」
 振り返らない。彼の前に回り込む。横になったまま、彼が私を見上げる。警戒している、目ではない。では何か。「ジネヴラ」考える前に私を呼ぶ声。思い出したのはいくつもの雷。乱暴にやってきて悪いことをすべて終わらせてしまった、では悪いことが起こっていなかったら? 彼らは一体、何を変える?
「Lが死にましたキラに殺されました。メロは継承者を私に譲り今晩にでもここを出ていく。私ももうじきいなくなる戦わなければなりませんからLを継ぐ者として」
 叫ぶマザー。発狂している。大人しく座る六人の女の子。世界が変わる瞬間。
「……そうなの」
 外は晴れていて部屋だって明るい。それなのに雷が消えてくれない。ニアが私を見上げている。マザーの髪は夜よりも暗かった、ヨルダンの目は、ああ。ニアの目は夜よりも深くて、どうしてそこに映る私は溺れてしまわないのだろう。
 キスをする。ニアが、いつもするよりはよほど深くて、悲しくてやりきれない。唇を離すと濡れた音がした。ニアの睫毛が震える音も。私は何も見ていない。見ないまま、もう一度唇を探す。ニアは何も言わなくて、それでも彼だってキスをやめようとしなかった。「おい、メロ! 待てったら!」廊下からマットの声がする。私たちはキスを続ける。
 ああそうだったのねヨルダン。だからあなたは私にキスをしたの。私、泣いてしまいそうだったのね。








03
 メロがいなくなってしまってすぐにニアもアメリカに行った。彼は私を連れて行った。

 暗い部屋だ。ニアはあんまりご飯を食べてくれないから私は顔を隠してマーケットまで行き、彼が好きそうなキャンベルスープや焼き立てのパンを買って帰るのだけど、次第に彼は私が外に出ることを好まなくなった。「ここにいてください」白い肌にたっぷりのブルーライトを浴びて、ニアは振り返りもしない。不機嫌な子犬は以前よりよほど具合が悪そうで、もうまるきりの子どもではないのだった。私は彼の薄い背中に耳をつけて目を瞑る。骨を打つように伝わる心臓の音だけが温かい。

 日毎、ニアは機嫌が悪くなる。エルは死んでしまったけれどLは世界的に生きている、すなわち乗っ取られたのだと彼は言った。「誰に?」「キラに」苦しそうな声だった。私たちはキスをする。昔はニアが私にするばかりだったのに、今では私ばかりニアにしている。なんでキスをするのかニアは聞かないので理由を言わずに済んでいるけれど、彼は気づいているかもしれない。きっと彼だって同じ理由でキスをしたのだ。あの時私はいつもヨルダンを思い出していた。

 三年経って、少しずつ捜査は進んでいった。ニアは自分で動くことができないから私が働くしかないのだけど、私以外にもニアを信じる人間を雇うようになり彼は私を一切外に出さなくなった。「顔を見られると危険です」「そうだね」おもちゃで遊ぶ後ろ姿に私は笑う。子熊はどんな顔をしていたのだっけ。私たちは十六歳。あの頃のヨルダンよりずっと大きい。

 かつての祈りの口上はすべてあの女の妄言で、救われて欲しい人がいるのにちっとも役に立ちはしない。何が楽園、何が乙女。そんなものはありはしない。私は選ばれたとマザーは叫んで、そしてそれもあり得ないことだった。選ばれたのはニアなのだ。そうしてもしかしたらメロやキラも。世界はやっぱり彼を放っておいてくれなかった。私たち、片隅でただじっと夕食にシチューを食べられたのならそれだけでよかったのに。
 もう光は降ってこない。この部屋に窓はないので、ニアが見つめるパソコンのライトだけが煌々と輝いて私たちを白く青く染め上げる。私たちに朝や夜はやってこなくて、窒息しそうな息苦しさがある。自由になるのよと笑ったヨルダンはもういない。ずっと前に死んでしまった。不自由な女に殺された。

「いつかあなたはいなくなる」
 目を開けるとニアが私を睨んでいた。彼は追い詰められていて、けれどとても賢いから私にそんなところをちらりとも見せてはくれなかった。ニアはちっとも私に顔を向けなくて、キスをする時だって目を瞑るから臆病な目を久しぶりに見た。「あなたはいなくなる」ニアが言う。
「起こしに来たの?」
「いいえ」
 身体を起こそうとするとベッドが軋んで、私よりもよほど細い身体をしたニアはぎゅうと私の腹を膝で踏んだ。「痛いよ」「聞いてください」時計を見ると夜中の三時だ。あの頃にもデジタル時計があれば良かったのに。ニアの顔はとても白くて、目だけが夜よりも深いのだった。腹を踏みつけたまま、彼は額を寄せた。柔らかな熱と毛先は震えている。どうしてこんなに追い詰められなくてはならなかったんだろう。
「あなたがいなくなれば、私は誰の手からシチューを食べればいいんです」
 まだ誰も死んでない。もうすぐキラの影を踏む。きっと誰かが死ぬことを彼は正確に知っているのだ。芸術のような答案用紙。出会った頃からニアはずっと怯えていたので、弔いか、奪われたことがあるのだろうと気づいていた。母さんは遠く、ヨルダンの顔だってぼやけてしまった私とは違う。賢い彼は、忘れることなんてきっとできない。
 ねえ、マザー。彼のほうが、よほど穢れていない。彼のほうが、よほど楽園だ。
「私、見えなくなってもいいよ」
 恐怖も憂いも怒りも悲しみもすべて目を瞑ってしまって、ただあなたの声を聴いて微笑んでいる布と綿の塊でいい。あなたが世界に捕まってしまったから、誰にも言わずに誰も知らないところまで逃げてくれないのなら私が同じ不自由の中に閉じこもってあげる。
 ニアは私が何を言っているのかきっとわかっていないだろうけど、それでも理解はしてくれて、なんとも馬鹿馬鹿しいとつまらなそうに笑った。
「そんな愚かなことはできない」
「そっか」
 ニアがそっと鼻を寄せた。子犬ではないので彼の鼻は濡れていなくて、私はそれが悲しかった。目を瞑る。彼のための子熊ちゃん(ヌヌルス)は愚かな女の形をしている。




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